2010年10月31日日曜日

2010年10月から11月へ

11月は重心をインプット寄りにしたいと思います。

質・量ともに無理があるくらいのプログラムをこなして、新たな「見通し」のようなものを得たいと思います。

このブログはインプットのペースメーカーにします。

なので、これまでよりも「自分のため」の側面が強くなるかもしれません。

複数の異質なメニューを並行させる形式は続けます。

毎日の更新も続けます。

これからもよろしくお願いします。

林立騎

2010年10月30日土曜日

翻訳論(5)

[翻訳論(1)(2)(3)(4)

 わたしにとって翻訳論が重要なのは、翻訳しながら感じている感覚を言語化して、そこから翻訳の実践をさらに先に進めることができるからです。翻訳論を読んだり、翻訳論として考えているときに何か新しいことを発見するというよりも、翻訳の実践がまず先にあります。

 だから、翻訳論を論じているだけで「先」へと進むことはできないようです。現時点での自分の翻訳論のへりまで来たことを確認したうえで、今後はまた飽くまで翻訳の「現場」を経験するしかなさそうです。

 「シンタックス=場所確定=秩序=時間」という観点から翻訳を考察できたことは、これまでありませんでした。ミュラー、シュミット、ベンヤミンらの議論を手掛かりにしたわけですが、なによりも進行中の「チリの地震」の翻訳作業が大きく影響しています。

 「チリの地震」の翻訳は11月で終わります。そのあと何を翻訳するか、何を翻訳することで翻訳論も深化させられるか。現場と理論を往復しながら、引き続き考えていきたいと思います。

2010年10月29日金曜日

ドイツ語(5)

[ドイツ語(1)(2)(3)(4)

 結局ドイツ語の話というよりもクライストについて書いてばかりでした。

 若いうちは「ドイツ語の勉強」に夢中になったりもできるわけですが、実際には「ドイツ語の勉強」というものは存在しません。ドイツ語で何を読みたいか、書きたいか、考えたいか、というレベルでしか、言葉にかかわりつづけることはできないからです。「ドイツ語の勉強」をするのではなく、実際にはクライストを読んだり、映画をみたり、環境問題について調べたりするわけです(その意味で、いわゆる「ドイツ語の勉強」というのは、ごくごく初歩的なドイツ語学の研究ということになるでしょう)。だから自分の興味と言語が結びつくことが語学上達の一番の近道です。逆に言うと、興味と言語が結びつかなければ外国語を始める必要など全くありません。

 かくいうわたし自身も、まだまだ中途半端にしかドイツ語と付き合えないわけですが、しかし言葉との向き合い方ができてきたという気は、なんとなくします。言葉と向き合うというのは非常にたいへんなことです。これはおそらく、どの分野でドイツ語を学んでもいつかは辿り着くようなものではなく、クライスト、カフカ、ベンヤミン、シュレーフ、イェリネク、ミュラーなど、ドイツ語との付き合いにおいて幸運な出会いが重なったおかげだと思っています。

 クライストについて書いたことは、書きつけたのは初めてだったにせよ、ほとんどがこれまでにすでに考えたりメモしたりしていたことでした。しかし書いてみると、やはりたいへん大事なひとだとあらためて思います。なので、いつ書けるかもどこに発表できるかもわからない新たな「クライスト論」の構想メモをつくって、今月の「ドイツ語」を終えたいと思います。


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クライスト論の構想

クライスト作品の言語と内容と構造を、1)時間論として、2)歴史論として、3)演劇論として検討する。

この三つは互いに不可分である。

西洋の演劇は、歴史哲学および政治哲学の見地から語らなければならない。演劇は自律的な領域ではない。歴史哲学的、政治哲学的な場である。

それは逆に、歴史哲学および政治哲学も演劇とともに語ることができる、ということを意味する。

ヘルダーリン、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ハイデガー、シュミット、ベンヤミン、ブレヒトを研究する。とりわけ、空間と時間の思索について。空間と時間の構成、すなわち秩序について。

クライスト研究は実用的に役立つ理論を提供することを目的とする。

2010年10月28日木曜日

経済学(4)

[経済学(1)(2)(3)

 この一年、もっとも楽しく、かつ継続的に取り組んでいたのは経済学の勉強だった。だから書くことは無限にあると思っていた。ところが実際には一番苦しんだ。

 おそらく、経済学は「ゲーム」としてきわめてよくできているのだと思う。きわめてよくできているので、わたしのように中途半端に学んだだけではその内部に自足してしまう危険があるようだ。経済を政治や法や哲学や芸術に接続する回路をいくらでも見つけたつもりだったのに、実際には何もできなかったのは、「内部」に囚われてしまったからだと思う。

 経済を大きな視野でとらえる、あるいは外部と交流させながら語る著作にもっとじっくり取り組めばよかったのかもしれない。クルーグマンの教科書や学校の問題集だけでも面白く、新聞や雑誌に書いてあることがよくわかるようにもなるので、いつのまにか経済だけでなく「世界」の理解を深めた気になっていたようだ。

 わたしにとっての経済学の魅力は、それが具体的なものごとや生活についての分析と理論であることだった。しかしその軸を見失い、経済学のロジックの内部で遊んでしまった。現実の経済はさっぱり知らない。

 とはいえ、勉強で身につけた知識や論理が役に立たないわけではないと思う。これをもとにものごとを見て、体験して、考えて、いい本を読むことができれば。

 一番勉強し、テストもできていた経済学が、一番よくなかった。そういうものなのだろう。これから鍛え直さなければいけない。もちろん鍛え直す価値のある分野だと思っている。

2010年10月27日水曜日

「チリの地震」(8)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(8)

 この間に午後が近づき、あれこれと夢中で話す避難民たちの心が、大地の震動がひいたので、少し落ち着きを取り戻すやいなや、知らせが広まってきた、ドミニコ会の教会、地震が被害を与えなかった唯一の教会で、特別なミサが修道院長自身によって執り行われ、天にこれ以上の不幸から守ってくれるよう願いを捧げる、と。民衆はすでにあらゆる方面から飛び出し、幾筋かの流れとなって町へ急いでいた。

 ドン・フェルナンドの集まりで問いが投げ上げられた、この聖祭に参加し、あらゆる者がなす列に加わるべきではないか? ドニャ・エリーザベトは思い出させようとした、いくらか心を締め付けられつつ、どんな災厄が昨日教会で生じたことでしょう。こうした感謝の式典は繰り返し行われ、あとになるほど感情に、危機はより遠くへ過ぎ去って、明るく穏やかに身をゆだねることができるでしょう。

 ホセファは意見を述べた、いくらか熱狂したようにすぐに立ち上がって、わたしはこの顔を造物主の御前の土に押しあてたい衝動を今ほど活き活きと感じたことはありません、彼が理解不能で崇高な力を示されている今ほど。

 ドニャ・エルヴィーレは活き活きとした様子でホセファの意見に賛意を表した。彼女はミサを聴くべきという考えにこだわり上げ、一行を率いるようドン・フェルナンドを促し上げ、その上で全員が、ドニャ・エリーザベトを含め立ち上がった。

 けれどもドニャ・エリーザベトは、胸を激しく動悸させ、ささいな出発の準備もためらいがちで、どうしたのかと尋ねても、わたしも自分のなかにどんな不幸の予感があるのかわからないと答えるので、ドニャ・エルヴィーレは彼女を落ち着かせ、自分と具合の悪い父のもとに残るよう言った。

 ホセファは言った、ではドニャ・エリーザベト、この小さな男の子を引き取ってもらえますか、もうまたこうしてわたしのところに来てしまったのです。喜んで、とドニャ・エリーザベトは答え、彼を捕まえようとしたが、子供は自分に生じた不正に悲鳴を上げ、決して承諾しなかったので、ホセファは微笑みながら言った、わたしがこの子を手元におきます、そして彼女はキスをして子供を静かにさせた。するとドン・フェルナンドは、気品に溢れ優美なこの振舞いを非常に気に入って、ホセファに腕をさしのべた、ヘロニモは小さなフィリップを抱え、ドニャ・コンスタンツェを先導し、この集まりに入っていた残りの構成員があとに続き、こうした秩序で列は町へと向かった。

2010年10月26日火曜日

国際法(4)

[国際法(1)(2)(3)

 具体的な国際法についてはまったく論じないまま進めてきた。

 国際法、そしてその舞台である国際社会は、ピラミッド型になっていない。国連安全保障理事会における五大国の権限という問題はあるが、それでも基本は「主権平等」である。また、新興国が勢力を伸ばすことによって、今後も多極化の度合いは高まっていくだろう。

 国際社会、あるいは地球は、一つの国家ではない。国際法という基礎的なルールはあるが、それが全てを解決するわけではなく、また常に適用されるわけでもない(イラク・イラン・北朝鮮とイスラエル・アメリカを比較せよ)。だからこそ、カール・シュミットの「国家以前の法」の理論を参照したのである。

 シュミットによれば、法とは、空間を構成することであり、秩序をつくることである。それは物理的な空間のみならず、経済空間、文化空間、思想空間などを含む。そうであるならば、物理空間、経済空間、文化空間、思想空間には、必ず特定の法による特定の秩序が与えられている。「空間」は、そのように見ていかねばならない。場所確定(Ortung)こそ秩序(Ordnung)なのだから。もちろん、このように語る言語空間も特定の法と秩序によって機能している。
 
 ドゥルーズが語る空間の撹乱、同時存在、組み替え、遊びが貴重なものとなるのは、そのためである。空間をかき乱すことは法と秩序に動揺を与える。しかしそれは、飽くまでかき乱すべき空間において起こらなければならない。また、空間と秩序は抵抗や反抗を織り込み済みで構成されていることにも依然として留意すべきだろう。奇妙な文をつくればいいということではないのだ。

 別にどうしても空間をかき乱すべきだというのではない。空間を法=秩序としてとらえたとき、どこに満足を見出すか、不満をみつけるか、何を変えたいか、どこへ行きたいか、複数の空間に住みたいか、一つの統一的な空間を望むか、そうした選択肢を検討することが現代における「自由」なのではないかと思うのである。法も秩序もない空間としての「自由」ではなく、法と秩序としての空間を選択する行為(その撹乱まで含めて)として「自由」を考えた方が、現実的に楽しいのではないだろうか。

 空間の選択。その選択の当事者として、どのレベルの空間選択に関わるかについては、「日本」や「会社」や「業界」や「私生活」など幅広くあり、個人の嗜好に従えばよいだろう。しかしどの空間に生きることを選択しても、その空間の法と秩序に関わることに変わりはない。法と秩序。あと50年くらいのあいだに、どの空間の法と秩序に関わっていこうかと考えるのである。

2010年10月25日月曜日

憲法(4)

[憲法(1)(2)(3)

1.

 非常に大雑把で、まったく緻密なところのない議論を続けてきたが、問題の輪郭ははっきりしてきたと思う。

 憲法は、「これがわたしたちだ」という宣言である。そしてそれは、「わたしたちの時間」を創設する。

 ところが問題は、この「時間」が均質で統一性ある時間ではないことである。

 これは、近代憲法の中に同居する自由主義的要素と民主制的要素の違いと関係する。「自由民主党」という政党はあるが、自由主義と民主制は元来まったく異なる二つの原理である。

 自由主義にとって、「わたしたち」は複数の「わたし」からできている。ところが民主制の原理に従えば、「わたしたち」は飽くまで単一の「わたしたち」であって、それを個々の「わたし」に分解することはできない。自由主義を「私」、民主制を「公」の原理と考えることができるだろう。そして近代憲法は、互いに矛盾しあう(と思われかねない)これら両者を同時に抱えているのである。

 具体例として、日本国憲法21条1項に定められた表現の自由(「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」)を採り上げよう。表現の自由は二つの価値をもつとされる。それは、1)自己実現の価値。すなわち、個人が言論活動を通じて自らの人格を形成・発展させることの価値。そして、2)自己統治の価値。すなわち、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与できるという価値。言うまでもなく、自己実現の価値は個々の「わたし」に表現の自由を保障する自由主義的側面であり、自己統治の価値は全体としての「わたしたち」が表現の自由を通じて「わたしたち」の政治をつくっていくことを保障する民主制的側面である。このように、二つの「わたしたち」のあり方が同一の条文の中にも並存しているのである。

 近代憲法において、自由主義という「公的なものに対する私的なものの優位」と、民主制という「私的なものに対する公的なものの優位」が同居しているということ。自由主義的には、憲法は権力の横暴から個人の自由を保障するための契約であり、民主制的には、憲法は「わたしたち」が「わたしたち」のあり方を決定する宣言である。前者をロック的、後者をシュミット的と考え、ルソーはむしろ両者の間の矛盾と対立を解消するロジックを発見していたとみなすことができるかもしれない。

 ともかく、事実として憲法には二つの原理が同居し、「わたしたち」の存在と生活もたしかに自由主義的側面と民主制的側面をもち、自由主義的時間と民主制的時間をもっているのである。


2.

 というのが大筋議論として「まとも」な考察だが、しかしこのような考え方自体がすでに罠にはまっていた。

 というのは、憲法とその時間は均質でなく統一的でないとしておきながら、実は「自由主義」と「民主制」という二つの均質で統一的な原理を語っているからだ。一つに見えるものを一つと考えるか実は二つと考えるかは大きな違いを生むけれども、しかし一つの均質を二つの均質に置き換えても実質的には変わりがない。

 それ以上に、自由主義的時間と民主制的時間、「私」の時間と「公」の時間がひとつの「憲法」にまとまっているのだ、というのは、結局のところ、テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼというわけで、まったく弁証法的、まさしく近代的な考え方だ。

 だから、「わたし」には二つの在り方があるけどそれが一つにまとまっているとか、「わたしたち」には二つの在り方があるけどそれが一つにまとまっているとかいう話は、要するに近代の根っこに還っているだけだ。もともとそういう「発明」だったのである。

 だからこそ、むしろ一つのものを二つに分けたり、二つのものを一つにまとめたりするのでない「わたし/たち」や「時間」がほしい。一日のなかに無数の異なる「時間」があったり(その結果「一日」という考え方が無意味になるほど)、「わたし」や「わたしたち」が無数に異なるあり方でいること(その結果「わたし」や「わたしたち」が無意味になるほど)を考えたい。あるいは、それはすでにドゥルーズが『差異と反復』で書いたことだから、その先が構想されるべきということになるのだろうか。

 近代憲法が不要になる時代が訪れていい。とりわけ日本にはどうせかつて近代憲法が存在したことはないし、今も存在しないのだから。憲法や時間やわたしやわたしたちが、もはや「2」と「1」からなるのでなく、ある意味では遙かに複雑で、ある意味では遙かにシンプルになる。そうした理論と実践を狙おうと気付いたことを、この4週間の成果としたい。

2010年10月24日日曜日

ドイツ文学史(4)

 この年になって実感すべきことではないですが、勉強・研究はやはり、やるなら体系的に学び、まとめ、記憶したほうがいいですね。基礎的な知識を徹底的に叩き込み、代表的な学説を自分のもののように身につけるべきですね。中途半端な断片的知識をたくさんもっていても、ほんとうに意味がないです。

 ドイツ文学史を振り返ろうとして痛感いたしました。何度目になるかわかりませんが、猛省いたします。

 しかし正直なところ、大学で体系的な教育は徹底されてないし、体系的な学習を助けるような本も全ての分野にあるわけではありません。したがって、ある程度みずから体系を構築しつつ勉強する、ということしかなさそうです。もちろんそれは価値ある作業だと思いますが。

 猛省に辿り着き、意志をあらたにしたことをもって「ドイツ文学史」の連載を掲げた甲斐があったとは言えませんが、しなかったよりはまし(besser als nichts)ということにしておきましょう。最後に、ドイツ文学史の神様に謝罪するとともに、レッシング先生に敬意を表し、かつわたし自身の苦痛(Schmerz)の表現として、『ラオコーン群像』を添えておきたいと思います。


2010年10月23日土曜日

翻訳論(4)

[翻訳論(1)(2)(3)

 カール・シュミットによれば、法(Nomos)とは場所を確定すること(Ortung)であり秩序をつくること(Ordnung)である。先週は、ひとつの言語のシンタックス、すなわち法としての場所確定(語順)を言語の秩序ととらえ、その秩序を特定の「時間」の流れとして考察した。その際、「形式」に従った翻訳を、言語の「秩序」と「時間」をかき乱す行為と考えた。

 ところで、翻訳の「目的」とは何か。翻訳における「意味」を重視するのであれば、目的は内容の伝達だろう。では「形式」を重視するのであれば? 二葉亭の目的は「音調」を移すことだった。しかし「形式」の翻訳によってそれを実現することはできなかったので、結局彼は「形式」の翻訳から離れた。ハイナー・ミュラーはむしろ原作と翻訳を全く別のものとしてとらえ、後者においては、「翻訳の驚愕させる効果、ショックを与える瞬間」が重要であるとした。翻訳に固有の目的を見出していたことは確かだが、しかしなぜそれが重要なのかということに関しては更なる検討が必要とされる。

 この問題に関して、ヴァルター・ベンヤミンは以下のように書いた。

翻訳は、究極的には、諸言語間の最も内的な関係の表出に対して合目的的である。翻訳はこの隠れた関係そのものを明るみに出すことはできないし、それを作り出すこともできない。しかし、翻訳はこの関係を萌芽的ないし内包的に実現することによって、それを表現することはできる。

諸言語間のあらゆる歴史を超えた親縁性の実質は、それぞれ全体をなしている個々の言語において、そのつど一つの、しかも同一のものが志向されているという点にある。それにもかかわらずこの同一のものとは、個別的な諸言語には達せられるものではなく、諸言語が互いに補完しあうもろもろの志向の総体によってのみ到達しうるものであり、それがすなわち<純粋言語>なのである。

翻訳者の使命は、翻訳の言語への志向、翻訳の言語のなかに原作のこだまを呼び覚ますあの志向を見出すことにある。
(「翻訳者の使命」、内村博信訳、『ベンヤミン・コレクション2』、1996年)

ベンヤミンの問題は、人間や人間の生にとっての翻訳ではなく、歴史としての言語の生にとっての翻訳だったのである。

 今回、翻訳の「目的」ということを考えたのは、フィリップ・ラクー=ラバルトの「翻訳と歴史」を再読したからである。ラクー=ラバルトはヘルダーリンにとっての翻訳の「目的」を以下のように表現する。

ヘルダーリンにとって、翻訳することが歴史を思考することであるのは、翻訳が歴史の痕跡を辿り直すからではなく、翻訳が歴史の筋道をつけ、開示し、切り開くからなのである。翻訳は、自身の忘却に陥ったギリシア人たちへの接近、[…]および自分自身を待っている近代人たちへの通路を、ひとつの同じ運動によって切り開く、もしくは切り開こうとする。それは破局的な完遂への道程である。

それはハイデガーが「ナツィオネルなもの」と「国民的なもの(ナシオナル)」を意図的に混同することで考えていたような、ある歴史の可能性ではなく、「歴史」そのものの可能性に関わる。その可能性が拠り所とするのは、過去を記憶することではなく、絶えずなお来たるべくある忘却されたものを指し示すこと、あるいはむしろ「書き取らせること(ディクテ)」である――それは我々の同一性を失効させ、完了へと向かう命取りな欲望を挫き、延期する、非固有性について考察することなのである。
(野崎歓・伊藤綾訳、『現代詩手帳 特集:ロマン主義』所収、2000年)

ラクー=ラバルトによれば、ヘルダーリンにとってソフォクレスの翻訳は、「忘却されたもの」への接近であると同時に「来たるべきもの」への接近でもある。それは「異質なもの」の経験であると同時に、「不可欠なもの」の経験でもある。ヘルダーリンは、自らが西洋の近代人と自覚したうえで、そうした経験に身を晒さねばならなかったのである。

 ベンヤミンとラクー=ラバルトは、ともにヘルダーリンの翻訳を論じながら、翻訳の「目的」に関して、異なる二つの極を示している。今回は、彼らの翻訳論を細かく検討するよりも、この二極の存在そのものについて触れたかった。すなわち、翻訳の目的には、「翻訳」の目的(ベンヤミン)と「翻訳者」の目的(ラクー=ラバルト)の二つがある、ということである。そして、それらを同時に思考することが翻訳論の課題ではないか。人間や人間の生だけに関連付けるのではなく、言語の生にとっての翻訳の目的を考えることは重要である。なぜなら言語は翻訳者よりも遙かに長い時間を内包しているからだ。しかしまた、一人一人の翻訳者は普遍的な目的に従う機械ではありえない(少なくとも現代においては)。よって翻訳者が同時代的、歴史的、現実的な目的をもって翻訳をする(せざるをえない)ことも明らかだろう。その双方を考慮したうえで翻訳の目的は思考されるべきであり、翻訳と言語の関係の戦略も検討されるべきだろう。(そしてその双方が均衡するところに、翻訳の可能性があるのかもしれない。)

 今週はいわばひとつの注釈である。これまでの議論はほとんど翻訳論の前提でしかない。次週はなんとかその外へと一歩を踏み出したい。

2010年10月22日金曜日

ドイツ語(4)

 言葉がもっている時間は、言葉を使うわたしたちがもっている時間よりも、ずっと長い。それゆえ、言葉のなかからは、わたしたちには異質なものを掘り出せることがある。

 たとえば、ドイツ語にProzessという語がある。これはある場合には「プロセス(過程)」と訳され、別の場合には「裁判」と訳される。この両方の意味がひとつの語のなかに同居している、ということが重要である。ハイナー・ミュラーは、カール・シュミットを「歴史の中から訴訟をつくりだす」演出家と評価したうえで、Prozess(裁判/過程)と演劇との関係について簡単に触れている。
演劇はProzessとも関係しています。Prozessこそひとつの演劇構造です。戯曲はしばしばProzessであり、訴訟です。科学的意味におけるProzessとは動態化であり、法学的意味におけるProzessとは固定化です。
Heiner Müller: Krieg ohne Schlacht
ここでは演劇うんぬんよりも、Prozessという語において、「動態化」と「固定化」が同居している、というミュラーの指摘に注目しよう。Prozessとは、固定的なものが流動化される時間(過程)であると同時に、流動的なものが固定化される時間(裁判)である。そしてProzessという語は、その両方の運動と時間を、同時に含んでいる。わたしには、その「同時に」ということが具体的にどういうことなのか、意味もわからなければイメージもできない。しかし「意味もわからないしイメージもできない」何かが言葉のなかにはある、という事態そのものが、何かを破壊し、何かを構築してくれはしないだろうか。

 ここでクライストの「チリの地震」の一節を参照しよう。
大地が足下で揺れた、牢獄の壁が全て裂けた、建物が傾いた、通りのほうへ倒れた、そのゆっくりとした倒壊に、向い側の建物の倒壊が出会い、偶然のアーチをつくったため、完全な横倒しは防がれた。
「出会い」によって「偶然」生まれた「アーチ」。クライストはある手紙で、「アーチ」について、絵入りで以下のように書いている。
どうして、とわたしは思った、アーチは崩れ落ちないのだろう、支えが一つもないのに? それは、とわたしは答えた、すべての石が一斉に落ちようとしているからだ。
クライスト自筆の「アーチ」。18001131日付の書簡。

 全ての石が落ちようとするとき、全ての石が静止する。流動化と固定化は同時に発生し、そのとき均衡が生まれる。クライストにおいては、秩序の全的な崩壊の中で、瞬間的に別の秩序、すでに秩序とも呼べないような「かたち」が逆説的に結晶化する。それは安定性とは無縁な「かたち」であり、実際に瞬く間に解消されてしまう。ハイナー・ミュラーはクライストのこの性質を「静止状態における全体的加速」と呼び、それを「台風の目」に喩えた。和仁陽は、「秩序が不安定であることは、秩序の硬質性を否定しないどころか、それと表裏をなしている」と指摘した。

 クライストがこの「アーチ」に込めている運動と静止の同時性は、Prozessという語に含まれている「動態化」と「固定化」の同時性に極めて近い。それは、「裁判」や「過程」を描くジャンルとしての戯曲と物語に対して、クライストが非常に忠実だったこと、その根源的な意義において忠実だったことを示しているのではないか。戯曲や物語が描くべきは、流動化と固定化、運動と静止、進行と停止、衝突と均衡、破壊と構築の同時性としてのProzessなのである、と。

 先週論じたように、「チリの地震」はその内容として「大地の揺れ」を扱っており、同時にそれは「言葉の揺れ」のなかで描かれている。流動化と固定化の挟間の、あらゆる「秩序」の揺れを描くことこそ「物語の課題」なのだ。全く相反する状態を同時に知覚すること、ひとつのものが同時に複数のものになるさまを感じることを、クライストの作品は求めるのである。

2010年10月21日木曜日

経済学(3)

 現在の経済学は、そもそも「政治経済学」という名前で生まれた。そこから「政治」が脱落し「経済」が残ったわけだ。しかしながら昨今のように、「政治」に対して「経済」への介入がこれまで以上に期待され、「政治」と「経済」が不可分な中国のような国が高い成長率を維持している時期に、「政治」と「経済」の関係を考え直すことは、無駄ではないだろう。その準備として、ふたたびフーコーの分析を参照したい。

実際には、政治的かつ法的世界と経済的世界とは、18世紀からすでに、異質で両立不可能な二つの世界として現れます。経済的かつ法的な学という考えは厳密な意味において不可能であるということであり、それに実際、そうした学は決して構成されませんでした。

[…]

ここには、私が思うに重要な一つの契機があります。それはすなわち、政治経済学が統治理性批判として自らを提示することができるような契機です。[…]これより少し後の時代に、カントは、人間に対し、あなたには世界の全体性を認識することはできないのだ、と語ることになります。政治経済学はその数十年前に、主権者に対し、あなたもやはり経済プロセスの全体性を認識することはできないのだ、と語っていたのでした。経済に主権者はいないということ。経済的主権者はいないということ。私が思うに、これはやはり、もちろん経済思想の歴史において、しかしとりわけ統治理性の歴史において、非常に重要な地点のうちの一つです。

経済的主権者の不在ないし不可能性というこの問題こそ、結局、ヨーロッパ全体を通じて、そして近代世界全体を通じて、統治実践、経済問題、社会主義、計画課、厚生経済学によって提起されることになるものです。19世紀および20世紀のヨーロッパにおける自由主義思想と新自由主義思想のあらゆる回帰、あらゆる反復は、依然として、経済的主権者の存在の不可能性の問題を提起するためのある種のやり方なのです。そして逆に、計画化、統制経済、社会主義、国家社会主義として現れることになるもののすべてによって提起されるのは、政治経済学がその創設時からすでに経済的主権者に対してかけていた呪いを、そしてそれと同時に政治経済学の存在の条件そのものを、乗り越えることができないだろうか、という問題です。すなわち、それでもやはり経済的主権者を定義することのできるような地点がありうるのではなかろうか、と。

[…]

経済学は、その始まりからすでに――もしアダム・スミスの理論と自由主義理論を政治経済学の始まりと呼ぶのであれば――統治の合理性のようなものにとっての行いの指針ないし完全なプログラムであるべきものとして自らを提示することは決してありませんでした。政治経済学は確かに、一つの学、一つのタイプの知、統治を行う人々が考慮に入れるべき認識の一つの様態です。しかし、経済学は統治の学ではありえないし、統治は経済学を、自らの原理、法、行いの規則、内的合理性とすることはできません。経済学は、統治術に対して側面的な学です。経済学によって統治しなければならず、経済学者たちのすぐそばで統治しなければならず、経済学者たちに耳を傾けながら統治しなければならないとはいえ、しかし、経済学が統治の合理性そのものとなるなどということは、あってはならないこと、問題外のこと、不可能なことなのです。

(ミシェル・フーコー『生政治の誕生』、慎改康之訳、筑摩書房、2008年、348-352頁)

 「経済的主権者」の可能性と不可能性を巡って、自由主義と社会主義、自由放任と計画経済が争ってきたという構図は、たとえもはやそこまで図式的には考えられないとしても、世界の現状と今後を考えるための出発点を与えてくれるように思う。

 経済とは、主権者なき「わたしの経済」の集合なのか、あるいは主権者としての「わたしたちの経済」が可能なのか、もしくはさらに別の主権者が経済のありかたを決定するのか。経済の秩序、経済の時間は、今後誰によって、どのように組織されるのか。

 経済学が統治の学ではありえないとしても、国民国家の経済活動が「政治的なもの」である状況はまだ続くだろう。そのとき各国の「経済的主権者」のありようと、戦争の継続としての政治は、どのような関係をつくるのか。

 しかしそれらは、いずれにしても個々人の生活レベルから考えねばならないだろう。

2010年10月20日水曜日

「チリの地震」(7)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(7)
(1)(2)(3)(4)(5)(6)

 ただドニャ・エリーザベトだけは、友人に昨日の朝のあの演劇に招かれ、しかしその招待を受けなかったが、ときおり夢見るような視線をホセファのうえにとめていた。だがまた何か新たに恐ろしい不幸が報告されたので、現在からほとんど逃れてなかった彼女の魂は、すぐまた現在へ引き戻された。


 ひとが物語るところによればこうだった。町は最初の大揺れの直後、女たちでいっぱいでした、男たちの眼前で子を産み落とす女たちで。修道僧たちはそんな中、キリスト像を手に走りまわり、叫んでいました、世界の終わりが到来した! 副王の命令に従い、番兵がある教会を明け渡すよう求めると、こう答えが返ってきました、チリの副王などもういない! 副王はこうした恐ろしい瞬間には絞首台を建てさせ、略奪に歯止めをかけなければならなかったのですが。ある無実の男は、一軒の燃え盛る家を走り抜けて助かりましたが、その所有者の早合点で捕えられ、すぐに首を吊るし上げられたのです。


 ドニャ・エルヴィーレは、彼女の怪我をホセファが世話していたのだが、まさに物語がもっとも活き活きと交差した瞬間に、機をとらえ、ホセファに訊ねた、この恐ろしい日にあなたのほうはいかがでしたか。ホセファが彼女に、締め付けられるような心で、いくつか主要なところを述べると、この夫人の目に涙が溢れるのを見て、ホセファは嬉しかった。ドニャ・エルヴィーレは彼女の手を掴み、握り締め、わからせた、もう黙っていいと。


 ホセファは聖人たちに囲まれているような気がした。抑えられない感情が、流れ去ったこの日を、どれだけの悲惨を世界にもたらしたにせよ、救いと名付けた、天がこれまで彼女にもたらしたことのなかったほどの救いと。そして実際、この恐ろしい瞬間に、人間たちの現世の財産はすべて地に落ち、自然は埋め尽くされそうだったが、人間精神そのものは、まるで美しい花のように咲き上がるかと思われたのである。野を見渡すと、あらゆる階級の人間が混ざり合って横になっていた、領主と乞食、貴婦人と農婦、官吏と日雇、修道士と修道女。互いに同情し合い、相互に助け合い、自分の命をつなぐために救いだしたものを喜んで分け合い、まるで共通の不幸が、それを免れたすべてを、ひとつの家族にしたかのようだった。


 これまでの世界は、お茶会の無内容な雑談の素材を寄こしたものだが、そうではなく、ひとは今や途方もない行為の実例を物語った。これまで社会であまり尊敬されなかった人間が、ローマ人のような偉大さを示した。山のような実例が、恐れなさ、嬉々とした危険の軽視、自己否定、神々しいまでの自己犠牲、そして無価値な財さながら、もう一歩歩けばまた見つかるもののように、躊躇なく命を投げ出す行為を伝えた。


 それどころか、この日その身に心動かされることが起こらなかった者、もしくは自ら高潔なことを行わなかった者は一人もいなかったので、各人の胸中の苦痛は甘い快楽と混じり合い、ひとびとは胸の内では、全体としての幸福の総和は、一方で減ったのと同じだけ他方で増したと言えなくはないと思ったのである。

 ヘロニモはホセファの、二人がこうした考察を黙ったままでし疲れたあと、手をとり、彼女を、口にできない明るい気持ちで、柘榴の森の葉陰の中を、上へ下へと連れ歩いた。彼は彼女に言った、ぼくは、ひとびとの心がこんな様子で、またあらゆる関係は転倒したから、ヨーロッパに渡るという決意を放棄する。ぼくは、副王の前に、ぼくのことでは常に好意的に振る舞ってくださったから、もしご存命であれば、跪く。希望はある(ここで彼は彼女にキスをした)、きみと一緒にチリに残りたい。ホセファは答えた、似たような考えがわたしにものぼってきていた。わたしももう、父が生きていれば和解できることを疑わない。でもわたしは、跪くよりもラ・コンセプシオンに行き、そこから書面で副王と和解手続きをとることを勧めたい。そうすればどんな場合になっても港の近くにいられるし、最善の場合、つまり手続きが望み通り転回したら、すぐサンチャゴに戻って来られるのだから。しばし熟考したのち、ヘロニモはこの方針の賢明さに喝采を与えた。そして彼女を連れてまた少し、明るい未来の時間の上を飛び回りつつ、小道をうろつき、そして彼女とともに集まりへ戻った。

2010年10月19日火曜日

国際法(3)

1.

カール・シュミット 国家以前の法
法(ノモス)=空間を構成すること=秩序をつくること
場所確定(Ortung)=秩序(Ordnung)

「大地は、神話的な言語において、法の母と名づけられる。」

「ノモスは、ネメイン[nemein]から、すなわち『分配すること』および『放牧すること』を意味する言葉から由来する。したがってノモスは、そこにおいて民族の政治的および社会的な秩序が空間的に明白になる直接的な形態であり、また放牧地の最初の測定と分配である。すなわち陸地取得であり、また、陸地取得に存しそこから生ずる具体的な秩序である。カントの言葉によれば『土地における私のものとお前のものとを分配する法律』であり、あるいは他のよく特色を示す英語によれば、権原[radical title]である。ノモスは、大地の地所を一定の秩序において区分し場所確定する尺度であり、それと共に与えられた政治的社会的宗教的秩序の形態である。」

「ノモスは、居住地、ガウ、牧場のことである。Nemus[森]という同根の言葉は、森[Wald, Hain, Forst]として、宗教儀式的な意味をもちうるのである。」

「根源的な意味でのノモスは、まさに、法律によって仲介されない法/権利[Recht]の能力の完全なる直接性なのである。すなわち構成的な歴史的な出来事なのであり、また、正統性の行為なのである。」

「ヘラクレイトスやピンダロスの表現における、『ノモス』というギリシャ語が、空間的に具体的な構成的秩序行為および場所確定行為、すなわち秩序構成的秩序[ordo ordinans]から変えられて、[…]『法律』という言葉でもってドイツ語化される限りにおいて、その解釈をめぐる争いのすべては見込みのないままであり、言語学的に鋭い洞察もすべて非生産的であることは当然である。[…]ヘラクレイトスやピンダロスの言葉は、書かれたまた書かれていない種類のその後に続いて生じてくる諸規定はすべて、その能力を、空間を秩序づける構成的な原行為の内的な尺度から得てくるということを、実際には述べているだけなのである。かかる原行為がノモスなのである。」

「法と秩序とは、陸地取得のかかる起源において、同一のものであり、そして、この点において、すなわち場所確定と秩序が同時に起こっているその発端において、互いに分離できないのである。」
(カール・シュミット『大地のノモス』、新田邦夫訳、慈学社、2007年)


2.

一方で、ドゥルーズ。

「けれども、ノマド的[遊牧的]と呼ばなければならない配分、すなわち、所有地もなければ囲いも限度もないノマドなノモスについては、話はまったく違ってくる。この場合には、もはや配分されるものを分割するという事態はなく、むしろ、限度のない、少なくとも明確な限界はない開かれた空間のなかでおのれを配分するものどものを割りふるという事態があるのだ。何かが誰かに帰属したり所属したりするなどということはまったくなく、かえって、すべての人物が、可能なかぎり大きな空間を覆うように、あちこちに配置されるのである。人生の深刻さが問題になるときでさえ、定住的な空間とは対照的な遊びの空間、定住的なノモスとは対照的なゲームの規則が語られるであろう。ひとつの空間を満たすということ、空間においておのれを分割するということは、空間そのものの分割とはきわめて異なるのである。」
(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』、財津理訳、河出文庫、2007年)

2010年10月18日月曜日

憲法(3)

 どうやら「契約としての憲法」の考え方にも、ロック的なそれとルソー的なそれがあるようだ。小室直樹はロック的に考えていて、カール・シュミットはルソー的に考えている。小室直樹の『痛快!憲法学』(タイトルで侮るなかれ、すごい本)ではもっぱらロックが扱われ、シュミットの『憲法論』ではルソーが圧倒的に重視されている。
 
 ロック的とルソー的は、立憲君主制的と共和制的と言い換えることができる。ロック的な「契約としての憲法」は、人民が国家権力と結ぶ契約であり、国家権力の暴走を規制するための憲法である。それに対してルソー的な「契約としての憲法」は、人民が人民自身と結ぶ契約、先週の議論を継ぐなら「わたしたち」が「わたしたち」と結ぶ契約としての憲法である。
 
 現実的には、これは両面とも重要だろう。いつ暴走するかわからないリヴァイアサンとしての国家権力を制限するために憲法があるというロック的な憲法観は、依然として日本では欠けており、必要だ。しかし「国民対国家」というロックの図式が現在の世界でどれほど有効か疑問もある。今回はルソーについて検討することで、前回までの議論を発展させると同時に、ロック的な憲法観への批判も明確化させていきたい。
 
 さて、まずはじめに、ルソーのいわゆる「社会契約」とはなにか。それをごく簡潔におさえておこう。

 「社会契約」において各個人は、まず「自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す」。譲渡先の「共同体全体」をルソーは「主権者」あるいは「人民」と呼ぶ。しかしながら他方、各個人が自らを譲り渡したその共同体とは、各個人自身がその一部である共同体なのであり、各個人は「主権者」あるいは「人民」の一部でもあるから、これは「自己との契約」でもある。こうした主権者/自己との二重契約が「社会契約」である。そこで各個人は、あらゆる権利を譲り渡すにもかかわらず、完全に自由である。なぜなら、自分自身以外の権力(たとえば王権)に服従するわけではなく、主権者に従うことはすなわち自分自身に従うことだからだ。
 
 立憲君主制を採用しておらず、国民主権を採るならば、ルソーのこの考え方は論理的に筋が通る。つまり、「契約としての憲法」においては、「わたし」および「わたしたち」が複数の顔をもつ、ということである。「わたし」は法をつくる者の一人であると同時に法に従う者でもある。ルソーはこうした複数の「顔」にそれぞれ別の名を与えている。
 
「政治体が受動的に法に従うときは≪国家≫Etat、能動的に法をつくるときは≪主権者≫Souverainと呼ばれ、それを他の同じ公的人格と比べるときは、国際法のうえで≪国≫Puissanceと呼ばれる。構成員についてみると、集合的には≪人民≫Peupleという名称をとり、主権に参加するものとしては個別的に≪市民≫Citoyens、国法に従うものとしては≪臣民≫Sujetsと呼ばれる。」
(ルソー「社会契約論」、井上幸治訳、中公クラシックス、2005年)
 
 ルソーの考え方は、論理的には欠陥がないにもかかわらず、なぜか複雑な感じがする。ここに何か大事なポイントがあるのではないか。

 つまり、ロック的に「国民」と「国家権力」を対立させ、「国民」はその「人権」を保護されるべき集団、「国家」はそれを侵害しかねない力とし、したがって「国家」を規制するために「契約としての憲法」を課す、という二項対立の図式は非常にわかりやすい。それに対して、「わたしたち」が権力を行使する側でもあり権力に攻撃されかねない側でもある、同時に複数の者であり、同時に両極端として存在しているという思考を、現代のわたしたちは感覚的に受け入れ難い。

 おそらくそれは、ルソーが「自己同一性の思考」を少しはみだしているからだ。「わたしたち」がこれでもありあれでもある、ということは、「わたしたちとは…である」と言いたがる精神に反している。しかしながら一方で、現代において「わたしたちは国民である」とか「国家権力とは…である」と断言することにどれだけの有効性がなおあるだろうか。むしろ、「わたしたち」は時と場合によって「顔」を変え、あるいは同時に複数の「顔」をもつと考えるべきケースはますます増えていないだろうか。「自己同一性の思考」が好む「権力と抵抗」「抑圧と被抑圧」「友と敵」といった「二項対立」や「視覚的図式」を超えた思考や実践がわたし(たち)に可能か、という問いが、憲法-シュミット-ルソーを考えることの根底に横たわっているのだ。
 
 そしてそれは当然ながら芸術の問題でもある。次週の考察は以下の文章から始まる。
 
「ドラマの核心は、『劇的な衝突』とヘーゲルが名づけた葛藤の中心にある人間主体にあった。この葛藤が、敵対者への間主体的な関係から本質的な自我主体を構成するのである。ドラマ演劇の主体が存在するのは、この葛藤の空間においてだけであるとも言える。その限りにおいて主体とは間主観性そのものであり、葛藤を通して構成されるライバルの主体である。そういう間主観性の時間は、葛藤を通して敵を同一化する単数の時間であるために、均一な時間とならざるを得ない。そもそも敵同士が出会うことのできるような時間が必要になる。」
(ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』、同学社、2002年)
 
「敵」を「敵」にしてしまう「時間」ではなく、「わたしたち」が別の「わたしたち」と出会い、複数の「わたしたち」に絶えず変身し続けてしまうような「時間」は可能なのだろうか。それは哲学や演劇だけの問題ではなく、憲法の問題でもあり、政治の問題でもある。

2010年10月17日日曜日

ドイツ文学史(3)

1.






















2.

ハインリヒ・フォン・クライスト
(Heinrich von Kleist, 1777. 10. 18. – 1811. 11. 21.)

 ベルリンの東、現在のポーランド国境近くの町フランクフルト・アン・デア・オーデルの軍人の家系に生まれる。

 年少にして父母を失う。15歳で軍隊に入り、22歳まで7年間を過ごす。

 その後退役し、故郷の大学で数学、論理学、物理学を学ぶ。

 1800年、ヴュルツブルク旅行。官職に就くことを考えるが、結局は自ら放棄。

 1801年、パリ旅行、スイス滞在。

 1802年、創作を始める。ワイマール滞在。
 
 1803年、ライプツィヒ、スイス、パリに滞在。パリでは自殺目的で、フランス軍のイギリス征討隊に参加。

 1804年、ベルリンで官職に就くが、1806年体調不良を理由に退く。創作活動はこの頃から活発になる。

 1807年、スパイ容疑でフランス軍に捕えられ、フランスの監獄で約半年を過ごす。

 釈放され、1807年8月からドレスデン滞在。アダム・ミュラーと芸術雑誌「フェーブス」を出版するが、財政難に陥る。

 1809年、オーストリアの対ナポレオン開戦に賛同、政治的文章を著し、愛国雑誌「ゲルマーニア」刊行を試みるも失敗、ベルリンに戻る。

 1810年10月、「ベルリン夕刊新聞」を発行、大衆向け日刊紙の先駆けとなるが、1811年3月廃刊。創作活動は続けたものの経済的に行き詰まる。

 1811年11月21日、癌を患っていた人妻ヘンリエッテ・フォーゲルとヴァンゼー湖畔でピストル心中を遂げる。

 今日ではドイツを代表する劇作家と呼ばれるが、軍人、官僚、劇作家、小説家、政治活動家、ジャーナリストとして活動した34年は、一つの都市にも一つの職にもとどまらない、絶えず移り変わる人生だった。

 代表作:『こわれがめ』(1805年)『ペンテジレーア』(1807年)「ミヒャエル・コールハース」(1810年)等

2010年10月16日土曜日

翻訳論(3)

[翻訳論(1)(2)]
 
 ハイナー・ミュラーの翻訳論に近いことを、その80年以上前の日本で論じた者がある。二葉亭四迷である。二葉亭もまた、翻訳における「意味」の重視を疑問視し、「形式」の尊重を試みた。
 
「外国文を飜訳する場合に、意味ばかりを考へて、これに重きを置くと原文をこはす虞がある。須らく原文の音調を呑み込んで、それを移すやうにせねばならぬと、かう自分は信じたので、コンマ、ピリオドの一つをも濫りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つといふ風にして、原文の調子を移さうとした。殊に飜訳を為始めた頃は、語数も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏へに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大変苦労したのだが、さて実際はなかなか思ふやうに行かぬ、中にはどうしても自分の標準に合はすことの出来ぬものもあつた。」
(二葉亭四迷「余が飜訳の標準」(1906年)、「明治の文学 第5巻」所収、筑摩書房、2000年)
 
語数も、形(語順)も、コンマやピリオドの数も原文と翻訳を一致させようという、今日の視点では驚くべき実験がなされた。しかしながら二葉亭自身は、その結果できあがった翻訳を、「いや実に読みづらい、[…]ぎくしやくとして如何にとも出来栄えが悪い」と評し、最終的には原作者の「詩想を移す」翻訳を理想とし、そのためには原文のかたちを崩すことも肯定するに至った。
 
 しかしそれでも、二葉亭の最初の試みは本質的に重要な要素を含んでいたように思う。語順、コンマ、ピリオドといった「形式」とは、なんであろうか。それによって言葉には何が生じるのか。
 
 語順とは、読者の意識に音とイメージと意味が与えられる順序であり、コンマやピリオドとは、その順序に打ち込まれるアクセントである。語順、コンマ、ピリオドによって、言語はひとつの連続性を形成する。基本的に一方向に進むその連続性は、「時間」と呼ぶことができる。したがって、ひとつの言語の「形式」とは、その言語が有する固有の「時間」の流れ方なのである。“Ich spielte gestern mit meinem Bruder.”(わたしは-遊んだ-昨日-一緒に-わたしの-弟)を「昨日わたしは弟と遊んだ」と翻訳することは可能だ。しかしこのように翻訳したとき、原文に流れていた「時間」は失われる。「わたしは」のあとに「遊んだ」がくるドイツ語の「時間」と、文の末尾に「遊んだ」がくる日本語の「時間」は、決して同じではないからである。
 
 「順序」をドイツ語で「Ordnung(オルトヌング)」というが、この語はまた「秩序」を意味する。語順とは言語に固有の「秩序」であり、「秩序」とはすなわち「時間」なのだ。したがって、二葉亭四迷がかつて理想とし、ハイナー・ミュラーが理想とし続けた「形式」の翻訳とは、別の言語の「秩序」と「時間」を導入することで母語の「秩序」と「時間」を破壊する、あるいは少なくとも混乱させ、中断させる行為である。いわゆる「文法的に正しい」翻訳が、実は原文の言語の文法に照らして「正しい」のではなく、翻訳の言語の文法にとって「正しい」のが近代以降の翻訳である。それは母語の「秩序」と「時間」の安定性を譲り渡さない翻訳であり続けている。「形式」の翻訳は対照的に、母語の安定性を流動化させる翻訳である。
 
 1921年、「結局、形式の再現に忠実であることが意味の再現をいかに困難にするかは、おのずと明らかである。したがって、逐語性の要請は意味の保持という関心からは導き出せない」と書いたのは、ヴァルター・ベンヤミンだった。「形式」の翻訳についてさらに考えるために、次週は彼の翻訳論を検討しなければならない。

2010年10月15日金曜日

ドイツ語(3)

大地の揺れと言葉の揺れ

 ハインリヒ・フォン・クライストの「チリの地震」は、「地震の物語」であると同時に、「言葉の地震」である。

 「チリの地震」において、地震は上下の運動として表現される。いわく、「町の大部分が沈んでしまい」、「通りは地中へ落ちた」、「町が沈んでしまったのを目にした」等々。

 ところが、こうした描写以外にも、クライストは文中のいたるところに「上下」の運動をしのばせている。それは冒頭から明らかである。

チリ王国の首都サンチャゴで、1647年に大地震がおきたとき、幾千の人間が死んだなか、ある罪に問われていたスペイン人の若者、ヘロニモ・ルヘラは、牢獄の柱のそばに立ち、収監されていたが、首を吊ろうとしていた。

ここで「死んだ」と簡潔に訳した部分は、原文では「Untergang finden」という表現が使われている。Untergang(ウンターガング)という語は「死、破滅、没落」の意だが、もともとは「下へ行くこと、太陽や月が沈むこと unter-gehen」である。したがってここでは、①「ひとびとが死んだ」という「意味」が伝えられるだけでなく、②「下へと-沈んだ Unter-gang」という地震の「イメージ」が同居することによって、③Untergangという語が、「下へ行くこと」と「死」との古い結び付きを、説明的にではなく、いわば意味とイメージとの「衝突」として実感させる。それはまた同時に、「Untergang」という語が、「ひとびとが死んだ」という意味と「下へ行った」というイメージとで二重化されることでもある。それによって語は、「意味」にも「イメージ」にも落ち着くことができない、いわば「揺れ続ける」言葉になっている。「チリの地震」は、「大地の揺れ」としてだけでなく、「言葉の揺れ」としてもあらわれるのである。

 もう一箇所、検討しよう。

そして実際、この恐ろしい瞬間の数々に、人間たちの現世の財産はすべて地に落ち、自然は埋め尽くされそうだったが、人間精神そのものは、まるで美しい花のように、開花するかと思われた。

ここにも「上下」の運動がある。原文では、「地に落ちる zu Grunde gehen」=「底-まで-行く」=「落ちる、没落する」と、「開花する aufgehen」=「上へ-行く」=「太陽や月が昇る、花が開く」が対比されている。しかも、財産が「地に落ちる」という「意味」は地震で家財が地中に沈んだという「イメージ」によって二重化され、花の「開花」と人間精神の「上昇」は「aufgehen」という語の中で二重化される。やはり言葉は意味を伝えるだけでも描写するだけでもなく、揺れている。ロラン・バルトなら、「ざわめいている」と言うかもしれない。

 先週との関連でいえば、こうした「言葉の揺れ」もまた、「時間」と関係しているように思われるのである。揺れる語は進ませる語ではない。進ませようとしつつ、立ち止まらせる。「意味」としての水平方向の力と、「イメージ」としての垂直方向の力がつりあうことによって、中断、切断、宙づり、なんと呼ぼうとも、運動と静止が同時に達成され、時間の進行と停止が同時に可能となり、奇妙な「言葉の時間」が生じるのである。クライストはまさにそうした「衝突」あるいはその結果としての「均衡」に憑かれた者だった。

 ところで、クライストのこうした表現を可能にしているのは、ドイツ語の「分離動詞」とそこから派生した名詞である。「分離動詞」とは、前置詞・副詞と動詞が結びついてひとつになった語であり、「上へ-行く」「下へ-行く」「起き-上がる」など無数にある。「分離」と呼ばれるのは、動詞として用いた場合、両者が「分離」して文中に場を占める(動詞は文中第二位、前置詞や副詞は末尾)からである。

 クライストの分離動詞の使い方やその翻訳についても考えるべきことは豊富にあるが、それは来週以降にしよう。「衝突」と「均衡」についても次回より詳しく論じることとしたい。

2010年10月14日木曜日

経済学(2)

 ミシェル・フーコーの『言葉と物』によると、近代の経済のあり方が近代の「歴史的時間」を導入した。その分岐点はリカードであるという。

「リカード以後、労働は、表象との関係においてずれを生じ、表象のもはや力をもちえぬ区域におかれ、それ固有の因果性にしたがって組織されることとなる。

物の製造(あるいは収穫もしくは輸送)のために必要とされ、その価値を決定する労働量は、生産の諸形態に依存する。労働の分業化の程度、道具の量と質、企業化の自由にする資本の総量と工場設備に投資した資本の総量、そうしたものに応じて生産は変様させられるであろう。したがって、ある場合には生産は高価なものとなろうし、べつの場合にはそれほど高くはつかないだろう。

しかしながら、すべてこうした場合、そのような経費(賃金、資本と所得、利潤)は、すでに完了しいま新しい生産に適用されようとする労働によって決定されるのであるから、そこには、生産系列ともいえる線状で等質の大きな系列の誕生が見られるにちがいない。

どのような労働でも結果をもち、結果は何らかの形で、その労働が経費を規定している新しい労働に適用され、新しい労働はそれで、また何らかの価値形成にかかわっていくのである。

このように系列化された集積こそ、古典主義時代における富の分析においてもっぱら作用していた相互的諸決定を、はじめて断ち切るものなのだ。それは、まさにそうすることによって、連続する歴史的時間の可能性をさえ導入した。[…]経済はその実定性において、もはや相違性と同一性の同時的空間にではなく、継起的生産の時間につなぎあわされるのである。」

物をつくって売る→利潤が出る→投資する→より多くのorより質の高い物をつくって売る→利潤が出る→投資する→…以下繰り返し、というような「線状」の「生産系列」の誕生が、近代の「歴史的時間の可能性」を導入した、というのである。それは線状で連続的な「歴史的時間」である。線状で連続的な歴史的時間の観念もまた、ある文化や地域に恒常的なものではなく、歴史的産物とされるのである。

 経済学を学ぶと、まず「実証的分析」と「規範的分析」の区別を知る。「実証的分析」とは、「価値観を含まない純粋に論理的な分析」であり、「現実はどうなっているか、論理的にどうなるか」の分析である。「規範的分析」とは、「ある価値観のもとでどう問題が解決されるべきかの分析」であり、「どうあるべきか」の分析である。そして経済学の課題はまず「実証的分析」であるとされるが、フーコーであれば「価値観を含まない」「純粋に」「論理的な」分析など存在しないと言うだろう。「価値観を含まない純粋に論理的な分析」という考え方がすでにひとつの価値観であるし、経済学がもちいる「財」「稀少性」「労働」「資本」「貨幣」といった概念も、それぞれの歴史性をもっている。さらに経済をいかなるプロセスとして想像するかもまた、歴史的な「知の配置」の中でしか生じえないのである。

 経済のあり方、あるいは経済に対する考え方がひとびとの時間感覚や歴史観にまでつながっているとするなら、現代においてそれはどうなっているだろう。経済と時間、経済と歴史の結び付きは、いまだに近代の枠組みにとどまっているのだろうか。あるいはすでに経済に対するあらたな考え方と、それに影響されたあらたな時間感覚、そして歴史に対する態度がひそかに生まれているのだろうか。線状で連続的ではない時間と歴史が、いつのまにかわたしたちを覆っているのだろうか。

2010年10月13日水曜日

「チリの地震」(6)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(6

 目覚めると太陽はすでに天高く、彼らは近くにほかの家族がいくらかいるのに気がついた。ひとびとは火をおこし、簡単な朝食を用意していた。

ちょうどヘロニモも、どうやって自分の家族に食べ物を持ってきてやろうかと考えていたが、そのとき身なりのきちんとした若い男が、腕に子供を一人抱き、ホセファのもとまでやってきて、慎み深く尋ねるのだった、この可哀そうな子に、母親は怪我をしてあの木の下で横になっていますから、すこしのあいだお乳をあげてもらえませんか。ホセファがやや動揺したのは、彼が知人だとわかったからだったが、彼の方はその動揺を誤解して、さらに続けた、ほんの瞬間でいいのです、ドニャ・ホセファ、この子はわたしたち全員を不幸にしたあの時刻から何も口にしてないのです。そこで彼女は言った、「わたしが黙ってしまったのは――別の理由からです、ドン・フェルナンド。こんなおそろしいときですから、何を所有していようと、それを分け与えることを拒む人などいないでしょう。」

そしてこの小さなよその子を受け取り、自分の子は父親に渡して、胸に寄せた。ドン・フェルナンドは善意に感謝して訊ねた、みなさんもわたしと一緒にあちらの集まりに加わりませんか、ちょうど今、火のそばに簡単な朝食が用意されていますから。

ホセファは、お申し出、わたしは喜んでお受けしますと答え、彼のあとに従い、ヘロニモも異議はなかったので、フェルナンドの家族のもとへ向かった。そこで彼女は、心から温かく、ドン・フェルナンド夫人の二人の妹に、気品ある若い婦人と聞き知っていたが、迎えられたのである。ドニャ・エルヴィーレ、ドン・フェルナンドの奥方は、両足に大怪我をして大地に横たわっていたが、ホセファを、栄養不足の息子がその胸に抱かれているのを目にして、愛想良く招き寄せ、腰を下ろさせた。ドン・ペドロ、ドン・フェルナンドの義理の父も、肩に怪我をしていたが、ホセファに心をこめて会釈した。

 ――ヘロニモとホセファの胸に奇妙な思いが芽生えた。自分たちがこれほど親しみと善意をもって扱われるのを目にすると、過去のことをどう考えたらいいのかわからなかった、刑場を、牢獄を、鐘の音をどう考えたらいいのかわからなかった。夢を見ていただけなのだろうか? それはまるでひとびとの心が、あの恐ろしい衝撃の轟音に満たされて以来、しずめられたかのようだった。ひとびとは、あの衝撃以前の記憶に遡ることができなかったのである。

2010年10月12日火曜日

国際法(2)

 国際法について考えるならカール・シュミットの『大地のノモス』を読まねばならない。読まねばならないのだが、まだ読み切っていないので、国際法に対するシュミットの考えが簡潔に伝わる別の小論を紹介したい。「現代帝国主義の国際法的諸形態」(1932)という論文である。
 
 国際法はなぜ重要か。それは国際法が、国家同士が行うゲームのルールだからである。しかもこのルールは、「学ぶ」だけではいけない。なぜなら、ルール自体が変化しうるからである。国際社会には一国内のような「主権=至高の権力」が存在しないため、自国に有利なルールの解釈や新たなルールの創造が可能でありまた重要になる。学び、適用するだけでは、いつのまにか自分に不利なルールに包囲されているかもしれず、そうなった暁には何を学び何を適用しても無駄なのである。
 
 シュミットはこの点に極めて意識的だった。まず結論を引用してしまおう。
 
「広い概念を用いて全世界の人々にその尊重を強制する能力、これこそ世界史的重要性をもった現象である。決定的重要性をもった政治的概念において重要なのは、その解釈者・定義者・適用者である。即ち平和とは、軍縮とは、干渉とは、公序公安とは何かの具体的決断者が問題である。人類一般の法生活・精神生活において千鈞の重みをもつ現象の一つは、真の権力者とは自ら概念や用語を定める者であることである。[…]一大国民が他の諸国民の言語様式、さらには思考様式さえ支配し、語彙・術語・概念を自ら定めるに到ることこそ、真の政治的実権の表現である。」
 
「一国民は、法、特に国際法について他国の語彙と観念に服した時初めて被征服者となり、武器のみならず固有法の引渡しが成就するのである。[…]悪意の批判は無用であるが、外来の観念と外よりの『道徳的武装放棄』の要求に従順に屈服すべきでもない。これらは他国権力の手段にすぎないのである。概念や思考様式もまた政治的決断の問題でありうるというこの意識と感情こそ必須のものであり、我々は常にこれに目覚めていなければならない。」
(『カール・シュミット著作集1』所収、長尾龍一訳、慈学社、2007年)
 
シュミットのあやうさの露呈を読み取ることもできるかもしれないが、それもやはり彼の明晰さゆえだろう。シュミットに倣えば、たとえば「平和が大事だから平和に向けて一人一人が努力をしよう」と思ったとしたら、そう思わせたのはそもそも誰か、と考えねばならないのである。なぜなら、そうした観念もまた必ず誰かがつくったものであり、「平和が大事だ」とひとびとが自然に思うとき、実際にはその観念をつくった者がゲームに勝ち、現実に利益を得ているからである。
 
 『政治的なものの概念』においてシュミットは、「政治的なもの」とはそれによって「友」と「敵」が区別される問題のことであり、民主制国家ではあらゆるものが「政治的」になりうると説いた。「平和」や「人権」や「国家」といった概念をいかに理解するかによって「友」と「敵」が別れるとすれば、それらの概念は「政治的なもの」といってよい。したがって、国家が概念や用語を用いる場としての国際法は、きわめて政治的な舞台であり、そこでどのような言葉を使い、広め、それによって誰を「友」とし誰を「敵」とするかに鋭敏であることが必要なのである。
 
 言うまでもないことだが、「権力者とは概念や用語を定める者である」というテーゼは、法以外の分野においても適用されうるだろう。その言葉、その概念、その方法を使用すること自体が「政治的」であることを前提として、それぞれの「ゲーム」に参加しなければならない。概念や思考様式もまた、あるいはそれらこそ、政治的決断の問題だからである。

2010年10月11日月曜日

憲法(2)

 先週書いたことは間違っていた。
 
 間違っていて、しかも大事な間違いであった。どういうことかというと、そもそも「わたしたちはなぜ日本国憲法を守らなければいけないのか」という問い自体に問題があったのである。
 
 というのも、基本的に「わたしたち」は日本国憲法を守る必要がないのである。なぜなら、憲法というのは、たしかに前回書いたように「これがわたしたちだ」という宣言なのだが、その宣言が誰に向けられているかというと、「わたしたち」自身ではなく「国家権力」だとされているのである。つまり、「国家権力」が踏み越えてきてはならない「わたしたち」の権利を定め、また「国家権力」自身がとるべき形態を定めた文書が憲法であるから、その規定を守るべきは「国家権力」であって、「わたしたち」ではない。学説ではこの「契約としての憲法」が多数説とされており、その「契約」を遵守すべきは「国家権力」なのである。
 
 したがって、「わたしたち」はそもそも憲法に違反することさえできない。「わたしたち」を規制する法ではないからである。実際、憲法99条は、「憲法尊重擁護義務」を天皇・摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に課しているが、その条文に国民は含まれていない。
 
 これは先日、小室直樹氏が語っていたので気付いたが、渋谷秀樹『日本国憲法の論じ方』でも指摘されている点だった。
 
 さて、ところがしかし、この間違いから出発すると、よくわからないことが浮かび上がってくる。というのは、ここでいう「国家権力」とは誰か、ということである。「国家権力」が国王や皇帝だった時代であれば、憲法によって「わたしたち」と「国家権力」が「契約」を結び、「国家権力」の暴走を規制する、という対立の図式は明確だっただろう。しかし今や、「国家権力」を担当するのも選挙で選ばれたり国家公務員試験に合格した国民であるから、「国家権力」もまた「わたしたち」なのであり、すると憲法は「わたしたち」が「わたしたち」自身と結んだ「契約」ということになる。
 
 しかしながら、「わたしたち」が「わたしたち」と憲法によって「契約」を結ぶためには、憲法がつくられる以前に「わたしたち」が存在していなければならない。ところが、憲法こそは「これがわたしたちだ」という宣言であり、その宣言とともに「わたしたち」が実定的に生成するはずであるから、「わたしたち」の存在が憲法に先立つということはありえず、「契約としての憲法」というコンセプトは破綻するのである。だから、すでに存在する複数の「わたしたち」が「契約」を結んで一つの新しい憲法を成立させるという事態はありえても(連邦が一つの憲法をつくる場合)、ひとつの「わたしたち」が「契約としての憲法」を成立させることはできないはずなのである。
 
 実は以上もまたシュミットの主張である。しかしシュミットのように思想的、根本的に「国民」や「憲法」を思考する学者は少ないようだ。問題は、結局のところほとんどの学者が、「手続き」さえ正当化できれば憲法は成立すると考えていることであるように思う。戦後に「わたしたち」を思考することがいかに困難だったかは想像に難くないが、しかしそれでも、「わたしたち」を法手続き的に考えて済ませてきたことの代償が、現代の日常にさまざまな形で染み出てきているのではなかろうか。
 
 さてしかし、要するにわたしにはまだ憲法とはいかなるもので、これからそれとどう付き合えばいいのかがわからない。シュミットの説くところが論理的には圧倒的に正しいと思うが、だからといって今更「わたしたちづくり」みたいなことに加担したいとも思わない(そもそもシュミットも「わたしたち」をつくることができるとは言ってない)。それでも現在のような国家の形が続く限り憲法はなくならないし、憲法という歴史の産物にはなにか面白い謎とヒントが隠されている気がするので、せめてどこを掘りたいかをより明確にして、掘削作業を始めたい。

2010年10月10日日曜日

ドイツ文学史(2)

 ベルリンの都市大衆文化は、19世紀から20世紀への転換期に芽生え、1920年代半ば以降に花開いた。

 たとえば、急速な人口増加(1890年の157万から1910年の207万へ)を背景に、第一次世界大戦前にすでに数百のカフェが生まれ、それらが文化的な社交の場となっていた。

 さらに20年代半ば以降は、ヴァイマル共和国安定期の経済回復と、8時間労働導入による大衆の「余暇」の創出、労働者余暇組織がつくられたことなどに後押しされ、大都市の大衆文化はさらに拡がった。消費文化(デパート、チェーン店形式のレストラン)、大衆スポーツ(サッカー、自動車レース、ボクシング、自転車競技など)、映画やラジオといった非参加・受動型の娯楽などが提供されたのである。そこには「アメリカ」というモデルも大きく影響していた。
 
 ドイツ語で書かれた長編小説では、ヘッセ(1877-1962)、カロッサ(1878-1956)、ツヴァイク(1881-1942)らが、未だ19世紀の市民的教養の世界に深く根ざした作品を執筆した一方で、ムージル(1880-1942)、カフカ(1883-1924)、ブロッホ(1886-1951)らは、そうした市民的教養の無効性が明らかになった大衆社会の本質を見抜き、ヘッセらとは異なる現代意識で作品を残した。
 
 また、大都市そのものが主題であるような文学が生まれたのもこの時期の特徴である。小説ではデーブリーン(1878-1957)、エッセイではベンヤミン(1892-1940)が代表的である。
 
 他方、ベルリンは「演劇都市」の側面も備えていた。1889年、パリの自由劇場にならい、ブラーム(1856-1910)を中心に「自由舞台(フライエ・ビューネ)」が設立された。これは検閲で上演できない戯曲を会員に見せることを主たる目的とした協会だった。とくにハウプトマンの『日の出前』初演を成功させることで自然主義演劇の登場を印象付けたが、その後おなじ作者の『織工』を舞台にのせ、これがシュレージエンの織工一揆を(1844)をテーマにしていたため、「自由舞台」は要注意グループとしてプロイセン検閲当局の注目をひくことになった。当時、戯曲はしばしば取り締まりの対象になった。そうしたなかで「自由舞台」は検閲と取り締まりをはぐらかすために、一般公衆を観客にせず、会員だけを対象に社会批判劇も上演したのである。
 
 この運動はしだいに会員を拡大し、ブラームはベルリン・ドイツ座の芸術監督に迎えられたが、運動自体は世紀末には解散に至った。しかし他方、1890年、この運動の別の流れから、労働者観客組織ともいうべき「民衆劇場(フォルクスビューネ)」が生まれ、これは現在まで存続している。また、後年演出家として世界的名声を得るラインハルト(1873-1943)は、当初俳優としてブラームに見出されたが、ドイツ座の芸術監督としてベルリン演劇の中心となった。彼の演出方法はのちに大衆操作の技法としてナチスに模倣されたと言われている。
 
 その他、自然主義とは別の芸術の潮流としては、印象主義、象徴主義(マラルメに影響されたゲオルゲの詩など)、表現主義(絵画、映画、ハイム、ベン、トラークルの詩など)が興った。その後、第一次世界大戦後には、冷静な観察と日々の現実に働きかける実用性を重んじた新即物主義があらわれ、ケストナー(1899-1974)やブレヒト(1898-1956)が登場した。ブレヒトはさらに演劇の革新者となり、叙事演劇を構想した。

2010年10月9日土曜日

翻訳論(2)

翻訳に関してわからないこと

 先週紹介したハイナー・ミュラーの翻訳論にわたしは賛同するが、実はわからないことも多い。というより、わからないことだらけだ。

 たとえば、ミュラーは「逐語的 wörtlich」な翻訳を評価するが、しかしまず「逐語的」とは何か。「逐語訳」は誰でもできる。文法を知り辞書があればできる。コンピューターでもできる。だがミュラーの評価する翻訳はそうしたものではないだろう。

 あるいは、「オリジナルとは何の関係もないような形式に押し込めようとしていない」翻訳をミュラーは尊重する。しかし「オリジナル」とは何か。「オリジナル」と「翻訳」は明確に区別されうるのか。常にされてきたのか。「オリジナルとは何の関係もないような形式に押し込めようとしていない」翻訳ということは、むしろ「オリジナル」と「翻訳」が「形式」において溶け合うような事態がありうるということか。それをミュラーは擁護しているのか。翻訳が「全体性」に拘らず、「完全なテクスト」であることに固執しないとは、そうした意味か。

 さらにミュラーは、「語(単語)」と「形式」にこだわり、「文」の「意味」を遠ざける。「意味」はなぜ斥けられるのか。「語」と「形式」を復権させようとするのはなぜか。翻訳が言葉の「奈落」を埋めてしまわないことがどうして重要なのか。

 これらすべての問いを考えるために、「翻訳は近代の問題である」という仮定から出発してみようと思う。もちろん近代以前にも翻訳行為はあった。しかし現在のように「オリジナル」と「翻訳」、「外国語」と「母語」、「形式」と「意味」、「文」と「語」といった対立のなかで「翻訳論」が思考されるためには、ミシェル・フーコーが『言葉と物』で論じた「近代的な知の配置」が不可欠であるように思われるのである。つまり、複数の言語が水平的に比較されうること、そしてなによりも、「客体としての言語」が出現し、それによって言語が「中性化」され、何らかの内容の純粋な「媒介」として機能しうるようになったこと。それらが決定的だったはずであり、それらは歴史的な現象なのである。「翻訳」、それはひょっとすると、「文学」と同じくらい新しい日付をもつものなのではないか。

 そのように考えると、「逐語的」に関しても、まさに近代の産物たる「文法と辞書」とどう付き合うかが問われるだろう。(だがこれはとても難しいことだ。)「文法的に正しい」とはそもそもどういう事態なのか。あるテクストにあらわれるひとつの言語の「語」が、「辞書」に記載されている別の言語の「語」に翻訳されてよいと考えられている、そのような状況はいかにして可能になっているのか。翻訳の可能性を深めるためにも、わたしたちにとって「自然な」翻訳行為がどの程度歴史的な「知の配置」の上に成立しているかを検証する歴史研究が必要だろう。

 「ある時代がもつ歴史的感覚の程度は、その時代がどのように翻訳をし、どのように過去の時代や書物の吸収同化に努めているかという点に照らして、評価することができる」(ニーチェ)。わたしたちの翻訳の存在あるいは不在は、歴史とともにしか思考されえないのである。

2010年10月8日金曜日

ドイツ語(2)

クライストのドイツ語と時間

 ハインリヒ・フォン・クライスト(1777-1811)のドイツ語では時間が奇妙に前後する。たとえば短編「チリの地震」の冒頭。以下は拙訳と原文である。

チリ王国の首都サンチャゴで、1647年に大地震がおきたとき、幾千の人間が死んだなか、ある罪に問われていたスペイン人の若者、ヘロニモ・ルヘラは、牢獄の柱のそばに立ち、収監されていたが、首を吊ろうとしていた。

In St. Jago, der Hauptstadt der Königreichs Chili, stand gerade in dem Augenblick der großen Erderschütterung vom Jahre 1647, bei welcher viele tausend Menschen ihren Untergang fanden, ein junger, auf ein Verbrechen angeklagter Spanier, Namens Jeronimo Rugera, an einem Pfeiler des Gefängnisses, in welches man ihn eingesperrt hatte, und wollte sich erhenken.
 
この文章では、最後に突然あらわれる「そこに収監されていたのだが」という部分だけがいわゆる過去完了形になっており、それ以外の部分より前に生じたことが示されている。しかしながら、牢獄の柱のそばに立っている者がそれ以前に収監されていたのは当然であるから、一見いかにも無駄な補足のように思われる。もう一例挙げたい。上記の文に続く冒頭第二文である。
 
ドン・エンリコ・アステロン、この町有数の富裕な貴族は、一年ほど前、彼を家から、家庭教師として雇っていたのを、追い出したのは、彼がドニャ・ホセファ、一人娘と、親密な関係になったからだった。

Don Henrico Asteron, einer der reichsten Edelleute der Stadt, hatte ihn ungefähr ein Jahr zuvor aus seinem Hause, wo er als Lehrer angestellt war, entfernt, weil er sich mit Donna Josepha, seiner einzigen Tochter, in einem zärtlichen Einverständnis befunden hatte.
 
ここでも、「貴族は彼を家庭教師として雇っていた。しかし追い出した。なぜなら…」と時系列で語るのではなく、「彼を家から、家庭教師として雇っていたのだが、追い出した」として、過去のことを語りながら、その途中で瞬間的に過去の習慣に遡り、再び戻ってくるのである。
 
 このようなクライストの表現は、雑音を聴かされ、異物につまずかされるようで、読む側になめらかな物語の進行を許さない。しかし重要なのは、ここでは言語が物語を表現するための道具とされているだけでなく、言語(散文)そのものに固有な時間表現が試されていることである。物理的な時空間と異なり、言語空間においては、まず過去があり、そこに突然さらなる過去を侵入させ、ふたたび暴力的に時間を引き戻すような操作も可能であり、ドイツ語の関係代名詞節はそうした表現との親和性が高い。言語には言語の秩序がある。クライストは言語や言語が可能にする時間を物語表現に従属させるのではなく、物語の秩序と言語の秩序をぶつけあいながら語るのである。

2010年10月7日木曜日

経済学(1)

 経済学を勉強したら面白かった。しかし個人的な体験としてのその面白さは、いくつかのレベルに分けて考えることができるので、まずはそれを整理してみたい。

 第一に、「世の中」のことがこれまでよりも少しわかった気になれた。たとえば、「金融緩和政策」や「拡張的財政政策」といった、新聞やテレビにもあらわれる言葉たち。「景気回復のためにするナニカだろう」という曖昧な理解ではなく、いかなる条件のもと、いかなる目的で行い、いかなるプロセスを生じさせ、いかなる結果をもたらすかまで、経済学の理論として学ぶことは、「世の中」という複雑な機械内部の歯車の噛み合わせを確認するようだ。それによって少し仕組みがわかったような気持ちになると、なんとなく「世の中」という機械自体も楽しくかわいいような気がして気分がよかったのである。

第二に、経済思想史というものが、いわゆる「歴史」よりもずっと面白かった。戦争や条約の締結、領土の拡張といった出来事の歴史や、あるいは偉人たちの固有名からなる歴史に比べて、著名なところではハイルブローナーの経済思想史などは、より時代時代の「生活」に密着している(経済活動を扱う以上そうせざるをえない)。そしてだからこそ、現在の感覚や考え方にとって新鮮で生産的な「断層」を見せてくれる。たとえば、「生計を立てる」という観念がなく、金を得て物を買うために仕事をするという考え方が存在しなかった時代があった。あるいは、媒介としての貨幣が存在しないひとびとの間では、釣針とバナナの価値を比較しようと思いつく者さえないし、そんな交換は決して行われない。しかしこれらの経済も、それなりに充実した生活を実現し、それなりに安定していたのである。こうした事実に直面することによって、それでは現在の世界はどうしてこのような形になる必要があったのか、どこにどのような変化があったのかということが、より一層巨大で興味深い謎としてあらわれてくる。それは、いわゆる「歴史」教育が行うように、過去の人物たちも現在のわたしたちと同じように合理的な思考をした結果、かくかくの戦争をし、しかじかの国制を整え、現在に至っているのだと語られることよりも、好奇心をそそり、サスペンスに満ちているのである。

 第三に、上記二点を総合するような側面として、現在の経済とそれを支える仕組みが、まったく普遍的なものではなく、歴史的なものであることがわかった。それと同時に、「経済」をつくっているのは「わたしたち」だが、「わたしたち」もまた「経済」によってつくられている、という点を確認できた。そこには相互作用がある。

 どういうことかというと、たとえば、ミシェル・フーコーの1978-79年講義録『生政治の誕生』によると、個々人の「利害関心」のメカニズムとしての「主体」=「ホモ・エコノミクス」が生まれ、それに伴って「自由」を生産し「自由」を消費する場所としての「市民社会」が生まれたのは、ようやく近代になってからであり、そうした「主体」と「社会」のあり方は、「経済」のあり方と密接に関連していた。その近代「市民社会」においては、「自由」を生産するための「コスト」として「安全(セキュリティ)」という原理が登場し、以降、「自由と安全」が統治にとっての問題となった。また、「投資と生産」はいまや生の原理そのものとなり、教育投資、投資としての移住、子供の生産における遺伝的投資の問題などが生じている。つまり、「わたしたち」が「経済」をつくっているだけでなく、「わたしたち」が「経済」によってつくられている度合はとても大きくて、「経済」の分析は「わたしたち」の分析でもあるのである。面白いはずである。

 経済を学ぶことによって「世の中」や「歴史」や「わたしたち」についてまで考えることができるというのは、やはり楽しい。木曜日は経済学です。

2010年10月6日水曜日

「チリの地震」(5)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(5

 こうしたすべてを、彼女はいまや心動かされつつヘロニモに物語り、彼に、彼女はし終えていたので、キスしてあげるよう男の子をさし出した。――ヘロニモは受け取ると、言葉で言えない父の喜びを感じつつ男の子を撫で、子供の、見知らぬ顔に泣き出したので、口を終わりない愛撫で閉じさせた。

 そのあいだに、実に美しい夜が降りてきていた。優しい香りに満ちあふれ、銀色に輝いて、ひっそりとして、詩人のみる夢のようだった。いたるところ、谷のわき水沿いに、かすかな月明かりのなか、ひとびとが場所を決め、苔と葉でやわらかい寝床をつくり、苦しみに満ちた一日を休もうとしていた。

 あわれな人たちはなお嘆いていたので、ここの男は家を、あちらは妻子を、三番目はすべてを失ったと嘆くので、ヘロニモとホセファは、濃いめの茂みに忍び入り、自分たちの魂がひそかに歓声をあげても誰も悲しませないようにした。彼らは見事な石榴の木を見つけた。香る果実をいっぱいにつけ、枝を大きく広げていた。ナイチンゲールが梢の中で官能的な歌をさえずっていた。ここにヘロニモとホセファは場所を決め、ホセファはヘロニモの、フィリップはホセファのふところにもたれ、ヘロニモの外套をかけ、休んだ。

木の影が伸びていった、月光を散らしながら、三人の向こうへ。月が朝焼けに白んでくるころ、彼らはようやく眠りに落ちた。なんといっても語り合うことが尽きなかった。修道院の庭のこと、監獄のこと、互いを思ってつらかったこと。そして思えばひどく心打たれるのだった、どれだけの悲惨がこの世界を襲わねばならなかったことだろう、自分たちが幸せになるために!

 彼らは決めた、大地の揺れがおさまったらすぐ、ラ・コンセプシオンに行く、そこにはホセファの信頼する女友達がいて、少し資金を借りられるだろうから、そこからスペインに出航する、ヘロニモの母方の親戚がいるのである、そしてかの地で幸福な人生を終える。こうして、たくさんのキスに埋もれ、二人は眠りに落ちた。

2010年10月5日火曜日

国際法(1)

 ハインリヒ・フォン・クライスト(17771811)の戯曲に『ヘルマンの戦い』という作品がある。これは、ローマ帝国による支配が拡大しつつあったかつてのゲルマニアで、ヒェルスカー族の族長へルマンがゲルマン諸部族の蜂起を画策し、ローマ軍を破るまでを描いた作品である。

 その一場面を以下に紹介する。ヘルマンの手に落ちたローマ人ゼプティミウスは、自らの剣を渡して抵抗の意思がないことを示し、捕虜にしてくれと申し出る。ところがヘルマンは彼を殺そうとする。ゼプティミウスは驚く。

ヘルマン     どうして殺してはいけない?
ゼプティミウス  (堂々と)――なぜならわたしはあなたの捕虜だからだ!
          勝者の義務を忘れないでいただきたい!
ヘルマン     (ゼプティミウスの剣に身をもたせかけながら)
          義務、法、権利を語るとは! 驚かせてくれる。
          この男はキケロの本でも読んだのだろう。
          その本ではわたしにどうしろと言っている?
ゼプティミウス  本だと? 嘲笑ばかりの哀れな男め!
          あなたの眼前に無防備に晒されたわたしの首が、
          あなたの復讐を受けることなど許されないのだ。
          それゆえ、法と権利の感情を
          あなた自身の胸にも刻み込んでおいていただきたい!
ヘルマン     (相手に近づきながら)
          法と権利がいかなるものか、知っているらしいな、極悪人よ。
          そうであるなら、なぜ侮辱されてもいないのにドイツに来て、
          わたしたちを弾圧した?
          二倍の重さの棍棒で
          この男を殴り殺せ! 

 この場面で問題となっているのは、実は国際法である。より具体的には、戦争法である。

 ローマ人ゼプティミウスは、「戦争中に捕虜となることを申し出る者があれば、その者を殺したりしてはいけないはずだ」と訴える。しかしヘルマンは、「そもそもお前たちがこの戦争を始めたこと自体が不当だった。不当な戦争を遂行した者に法や権利を語る資格はない」と切り捨てる。これは、「戦争/戦争法とは何か」という問題を巡る二つの立場に、正確に対応しているのである。

 ヘルマンの立場は行為説と呼ばれ、戦争法を、「どのような戦争が法的に正当と認められるか」を定めるものとみなす。問題となるのは「戦争への法 jus ad bellum」であり、「正当原因」に裏付けられた戦争のみが許されると解する。これは正当戦争論と呼ばれる議論で、17世紀の考え方とされている。ちなみに、『戦争と平和の法』を著したグロティウスによれば、正当戦争の根拠となりうる「正当原因」とは、防衛・回復・処罰である。
 
 他方、ゼプティミウスの立場は状態説と呼ばれ、戦争法を、「戦争状態においてはどのような法が妥当すべきか」を定めるものとみなす。問題は「戦争の中の法 jus in bello」であって、戦争の開始に関しては正当原因を問わない。開戦の決定は法の外の問題であって、開戦手続きや戦闘方法のみが規律されていればよいとするこの考え方は「無差別戦争観」と呼ばれ、18世紀以降20世紀にいたるまで、この立場が主流となっていくのである。

 1808年にクライストがドレスデンでこの戯曲を執筆したとき、ドイツ地方の大部分はナポレオン率いるフランス軍に占領されていた。『ヘルマンの戦い』が解放戦争の寓話として構想されていることは明白である。しかしながら、上記の場面が示しているのは、クライストがたんなる「愛国的文学者」ではなかった事実である。『ヘルマンの戦い』には、19世紀初頭に戦争を巡って二つの異なる考え方が併存しぶつかり合った、その歴史的瞬間がたしかに刻印されており、むしろクライストは、国際法におけるその新しい戦争観、正当原因を問わない無差別戦争観と、それに基づく侵略を問題にしていたのである。