2011年12月1日木曜日

光のない。

エルフリーデ・イェリネク『光のない。』の翻訳を昨日提出しました。

2011年11月13日日曜日

近況

ここ2ヶ月、突然忙しくなっていました。

イェリネクの翻訳を進め、東京ドイツ文化センターでクライスト歿後200年企画で4つのイベントを行い、
Port B『国民投票プロジェクト』に通い、ベルリンでクライスト翻訳のシンポジウムに出席しました。

ブログには手がまわらなくなり、完全に放置してしまいました。
しかし先日、某イベントの際、「お子さんの写真のブログ、かわいいですね」とある方に言われ、
これは真剣に立て直さないといけないなと思っています…。

あらた7ヶ月










2011年10月15日土曜日

10/15 29歳

 29歳になったのでプロフィール写真をかえてみました。

10/14 国民投票2

 複数性。ただ一つではなく、複数の歴史/アーカイブを参照すること。子供たちの人格の複数性。友敵図式に陥らないための複数性。「ひとつのものが同時に複数であること」を受容すること。プロセス/裁判は複数のものの衝突/交差/遭遇においてしか生じない。

2011年10月14日金曜日

10/13 国民投票1

 ギリシャ喜劇・悲劇は共同体の制度のど真ん中にあった。シェイクスピアもラシーヌもゲーテも権力のど真ん中にあった。現代演劇はそうではない。特に日本では趣味の共同体にとどまりかねない。演劇がなにを「アーカイブ」として参照して作品化するかが重要。それはどこに観客席を見出すかとほぼ同義。

 演劇は現実政治のプロセスとは別のプロセスを描くことで政治を「制御/拡張」してきた。その実効性が認められていたからこそ、演劇は権力の制度のど真ん中に位置を占めていた。現代演劇はもはやそうした地位にない。だが社会で通用している合理性を拡張・補完する機能は果たせる。

 というか、フーコーが渡辺守章との対談で述べたように、そもそも現実政治自体が必ずしも合理性を徹底するものではなく、政治は「劇場」をつくる。演劇が合理性を拡張・補完するとは、政治やマスメディアがつくっている「劇場」とは別の「劇場」をつくるということ。

 今は「合理性の拡張・補完」のチャンス。お金より物語や詩に救われるとか、証明はできないけど死んだ人のことを考えた方が社会がうまくまわるとか、「新たな慣習」が生まれる可能性がある。「合理性」が本来秘めている豊かさの展開こそ、芸術や言論が現在取り組みうる最も面白いテーマの一つだと思う。

 今日は国民投票プロジェクトに行ってきて、直接の感想ではないけれど、最近の関心に引きつけて書いてみた。政治には政治の「観客論」があるわけで、それとは別の、あるいはそれを拡張/補完/制御する「観客論」の可能性を演劇はもっているということ。

2011年10月12日水曜日

10/12 家族のアルバム

10/11 クライスト・メモ

 大宮勘一郎「クライスト2001 / 2011 −21世紀最初の10年とクライストの諸作品」メモ

・政治的非対称性(機会原因的な国家自身の影・亡霊)

・自然と人間の非対称性(→カントの崇高)

・共感覚(Sympathie)、忘我と夢=理性的コミュニケーション以外の意思疎通能力
 → 啓蒙的理性による対話の公共性、ポリス的秩序とは別のなにか
 → 「状態」(Vgl. 「語るにつれて」)
 → 「わたし(たち)」はからっぽの入れ物ではない。
 → 「わたし(たち)」以前あるいは以後のなにかがあり、そこに「わたし(たち)」を流しこむ。
 → 共感覚はそのネットワーク。クライストにおける「病的」=「状態」への感受性の高さ
 → 「状態」の組織化=人間の生の別の秩序化(Vgl. 『ペンテジレーア』『ヘルマンの戦い』)

・非嫡出性、非正規性、みなしご性
 → クライストにおける「父の不確実性」(への肯定性)
 → 秩序の尽きたところに組み込まれており、歴史を動かす。
 → 「父権の尽きたところに生じる亡霊的秩序」の存在
 → 確定的な秩序を揺るがしばらばらにしてしまうものが秘められている

・幽霊を含む共同体、幽霊をその一員とする共同体

・クライストにおける両義性:非嫡出性の両義性、「群れ」の両義性

・不定形な力にどういう枠組みを与えていくか
 → クライストは反啓蒙主義ではない
 → むしろ啓蒙の救い難い豊かさ、言葉の拡がりを捉えている
 → 啓蒙の拡張、啓蒙の徹底

10/10 群馬県沼田市

10/9 あぶらげんしんくん

10/8 上村美栄88歳

2011年10月7日金曜日

10/7 シェイクスピアの史劇

 先月一気に読んだシェイクスピアの史劇についてある程度まとめておきたいと思っていたが、難しい。

 キーワードだけ列挙。演劇と歴史、時間の編集、アーカイブの参照、社会のどこに/なにがアーカイブとして参照しうるか、それによって演劇のあり方は変化する、同じ問題を何度もくり返し取り上げること、異なる角度から眺めること、歴史は個人の能力の限界を超える、シェイクスピアは人物をゼロから生み出したわけではない、創造神話の再考、結婚や王位継承の問題、どこに社会の核をつくる「プロセス」があるか、シュミットのハムレット論、カントーロヴィチ。

2011年10月6日木曜日

2011年10月5日水曜日

10/5 あらた半年










写真:蓮沼昌宏

写真:蓮沼昌宏

写真:蓮沼昌宏

写真:蓮沼昌宏

写真:蓮沼昌宏

2011年10月4日火曜日

10/4 戻す

 今日は大事な打合せを無事に終えることができてよかった。

 そしてブログのデザインを戻しました…。なにかと不具合がありました。

 もろもろ告知等もあるし、書きたいこともあるのだが、とりあえず今日もつなぐだけ。

2011年10月3日月曜日

10/3 つなぐ

 今日は翻訳をして、出かけて、翻訳をして、授業準備をした。

 もっと書きたいことはあるけど、時間がない。

 とりあえずつないでおけばペースができるだろうと思うので、つなぐ。

2011年10月2日日曜日

10/2 もろもろ

 友人たちと朝から北区区民まつりに行った。あらたを見せた。

 午後は翻訳をした。

 夜はドイツ語の読書会に参加した。

 明日も翻訳をする。出かける用事もある。

2011年10月1日土曜日

10/1 再開します

 先月は2回しか投稿しなかったようですね…。

 しかも知らない間にブロガーのデザインが一新されていました…。

 今月はもう少しマメに文章を書きたいと思います。

 今は非常に難しい翻訳の仕事をほそぼそと進めています。論文も一本書いています。そして「演劇理論」について勉強したり考えています。どれもなかなかうまくいきません。

 宣伝もいくつかあるのですが、また追って書きたいと思います。

 今後ともこのブログをどうぞよろしくお願いいたします。

2011年9月8日木曜日

ブログ一周年と告知

 9月1日にこのブログは一周年を迎えました。ばたばたしていて、更新できませんでした。

 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 「News」と「翻訳」に最新の情報をアップしました。

 今月から11月まで続く「ハインリヒ・フォン・クライスト歿後200年 揺れる時代の作家」(@東京ドイツ文化センター)で企画・構成を担当しています。

 これからどんどん内容紹介をしていきたいと思いますが、まずは来週9月15日(木)の映画上映会にぜひお越しください。映画『クライスト −ある作家の死の記録−』の上映(約50分)と大宮勘一郎・東京大学教授のクライストに関する講演がセットになっていて、しかも無料です。今のところ、日本でこの映画が上映されるのはこの一回限りの予定です。お見逃しなく!


(このチラシはちょっとまだ誤植があるのですが、気付いた方はご容赦ください…)

あらた5ヶ月













2011年8月26日金曜日

8/20 アリストパネース2

アリストパネース『鳥』(久保田忠利訳、ギリシア喜劇全集 2、岩波書店、2008年)

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ペイセタイロスはこの新しいポリスをネペロコッキューギアーと命名する。これはネペレー(雲あるいはかすみ網の意)とコッキュークス(カッコウ、同時に愚か者の意)からなる。雲の中のカッコウであり、かすみ網にかかったカッコウであり、かすみ網にかかった愚か者である。[…]つまりは、ファンタジーから誕生し、言葉としてのみ存在し、現実には存在しないものということであろう。[379頁]

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 ペイセタイロスが翼を生やし鳥となり、花嫁となるゼウスの娘をともない、権力のシンボル雷電を手に持ち登場するとき、個人の最大の欲望――ゼウスの支配権を奪う――が実現し、主人公の勝利は独裁者になることを意味する。それはアテーナイ市民のトラウマとなった恐怖の対象であるけれども、この究極のファンタジーの中に登場する翼のあるテュランノスは現実から最も遠ざかっており、『アカルナイの人々』や『平和』のフィナーレと同様、伝統的な喜劇の祝宴のイメージと融合して終わるのであろう。詩人がファンタジーとともに提示するヴィジョンは、笑いを喚起する現実と融合し、その笑いの異化効果を絶えず受けながら上昇と下降を繰り返し、ダイナミックに展開するのである。アリストパネースには絶望も諦念も許されていないように見える。作品から浮かび上がるのはひたすら現実を冷徹に観察し、それを笑いに転化するアイディアを生み出すことを使命とする詩人の姿であろう。[386−387頁]

8/19 アリストパネース1

アリストパネース『雲』(橋本隆夫訳、ギリシア喜劇全集1、岩波書店、2008年)

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ソークラテース 雲は望むものになれる。[348行、236頁]

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 ソークラテースが雲や空気のようなものを信じており、しかも未知の神々を導きいれているとして、ソークラテースに反対する喜劇作品を発表した。この人物を告訴するために雲のコロスを用いた。[320−321頁]

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「優れた論法」「劣った論法」[…]これはまたプラトーンの『弁明』(18B以下)でも、『雲』のソークラテースが教えるものとして、弱論を強弁にする(劣った議論を優勢にさせる)論法と言われているものである。[364頁]

8/18 宮崎駿

宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』(岩波書店、2008年)

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これからどこに行くのか。これは人間に役に立つとか役に立たないとかじゃなくて、無駄に殺し過ぎているんじゃないかという、そういう気持ちを持てるかどうかだと思うんです。それは仏教だなんだというふうに宗教の名前を借りなくても、信仰心として、ある山奥に静かな泉があって、それは自分たちにとって非常に大事なものなんだと思っているという、なんとなくそういう感覚がある。そういう気持ちに気がついてみると、何も難しい哲学がなくても、他の生き物が生きるスペースを何とか少しずつ、リスクをしょって、この世界に残したい。それが実はこの島での環境問題とかいろいろな問題の根源になるべき問題であって、ドイツ人のように、環境をコントロールして人間を幸福にできると言って何でもやるということに対しては、違うやり方があるんじゃないかなというふうに、僕はつくづく思うんです。[61頁]

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儀式が形骸化してきたのは鎌倉時代からなんです。鎌倉仏教というのは日本にとって、とても大きな宗教改革だったんですが、鎌倉仏教というのは実は人間中心の社会に保証を与えたんじゃないかと思うんです。[66頁]

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 秀吉が刀狩りをやったからって、すぐ片づいたはずはない。なのに、時代劇に見る武装している侍と武装してない農民という図式はいったいいつごろ出てきたんですかね。[…]『七人の侍』というのは戦争に敗けて帰ってきた男たちが、食糧難で買い出しに行ったところでお百姓たちのいろんな態度にぶつかるとか、そういうリアリティをもった映画で。あまりにもおもしろくできているので、以後、呪縛のように日本の時代劇を縛ってしまって、常に侍対農民という階級史観が固定しちゃったような気がしてるんです。[73−74頁]

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網野 これまで農民が人工の八割以上を占めていたとされましたが、実際は、多く見積もっても四割くらいだと思います。それなのに農民一色に考えられてきたのは、明治政府が戸籍をつくるとき、士農工商で分けて、漁民も林業をしている人も、「村」の商人、職人も、「百姓」はみな「農」にしちゃったからですよ。[75頁]

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 日本のアニメはマンガを一番大きな源とするわけですが、その表現方法の最大の特徴は、“情念”が中心だということです。情念で表現するために、空間と時間が自由にねじ曲げられ、つまりリアリズムがない。アニメはマンガに影響されながら変化し、パターン化し、かなり特殊なタコツボのような世界になってしまった。だから「映画」を観るつもりの人がアニメを観てもわけがわからない。そんな作品が日本のアニメーションの未来を開くとは、とても思えません。[82頁]

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 日本人自身が気がつかないほど、マンガという表現形式は広く深く文化に浸透していると思います。もちろん、日本のマンガが切り開いた表現の可能性はとても大きい。ですからその遺産をすべて捨ててしまうのもバカなことです。かといって、マンガの世界がそのまま自分たちの教師だったり、自分たちの出発点だったりするのはどうか。それは、日本人が現実認識をするときのリアリズムの欠如につながっていると思うんです。人間同士が葛藤しなきゃいけない、むき出しでぶつかり合わなければいけない場所においても、どこかリアリズムに欠けている。僕はそれが、日本人の好きな部分でもあるんで複雑なんですが。[83頁]

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自然というのは人間が一度破壊したからといって、全部砂漠と化してしまうものではない。自然も繰り返し甦ってくる。そのとき人間が、そこから何を学ぶかだと思います。一度、過ちを犯したら二度と回復できないのだったら、多分、人類はもうとっくに滅亡しています。[103頁]

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マンガという形で世界を切り取るときに、非常に普遍性を失ってしまう。つまり、時間と空間を際限なくデフォルメできるものですから、どんどん現実世界を見なくなる。一部の感覚や心理を肥大化させて描くという傾向に入ってきているので、むしろ、そういうマンガに慣れてしまった目をもう一回、限定された時間や空間の中に戻す作業をやらないといけないところまでマンガは来ているなという感じがしています。[139頁]

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コンピューターの映像もある時期までは経済的に成り立っていくけれど、たちまち爛熟期が来て、食傷されて、CGも何もかも一定のモザイクの一つになっていくだろうと思うんです。ゲームにはすでにその気配がありますし、アニメーションやマンガも、もうとっくになっている。[141頁]

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 現実よりもテレビの中の世界の方が圧倒的に魅力があると子どもが思った瞬間が『ウルトラマン』です。[144頁]

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 妄想するのですが、小学校三つぐらいの範囲の地域を実験場にさせてもらいたい。そこの幼稚園では字なんか教えない。おとながありったけの知恵をあつめて、みんなそこが大好きで家に帰りたくないっていう場所をつくる。ビデオの『となりのトトロ』なんか見せない(笑)。[145頁]

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 自分の表現したいものと自分の腕とのギャップを、想いでカバーできると思っていたんだけれど、やっぱりちゃんと修行しないとだめだ。そうしないと自分の想いを表現することはできないんだということを、痛いほど思い知らされたんです。

 それから変わったような気がします。とにかく、全力投球をすること、どんなつまらない仕事でも何か発見して、少しでも前進すること。そうしないと、本当に大事な仕事に出会った時、力を発揮できないんです。[149−150頁]

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 日本文化の今の不思議な状況というのは、今、漫画が文化の発信元になっていることなんですよ。漫画がサブカルチャーじゃなくなっている。すべてが劇画化してしまっている。絵を描く才能があれば、漫画を描こうと思っている人が、絵が描けないからという理由だけで小説を書いたり、あるいは漫画が好きな人が、そのイメージで音楽を作ったりとか。それではいけないと思う。映画は映画としての粘り強い空間、粘り強い表現を持たないと。今の日本文化は全てが希薄で漫画的になってきていて、カットもアングルも役者もすべてが劇画的な薄っぺらさしか持っていない。[156−157頁]

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 僕は、ほんとにジレンマの固まりでやってるんですが、漫画映画を子供時代に一本か二本見るだけで終われたら素晴らしいなと思ってるんですよね。なんか不思議なきれいなものを見たな、あれ何だったんだろうと思いながら、子供時代を充実して過ごせるぐらいの空白が周りにあったら子供たちはもっとすこやかになれると思います。その隙間をかたっぱしから、ありとあらゆるものでよってたかって埋めて、その子の持ってるお金というより親の持ってるお金を狙ってるのが僕たちの仕事になってるものですから、これはいったいどういうふうにおさまっていくのかっていうのはちょっと見当がつかない。ただ、あるアメリカの青年と話したときに、彼は最新式のコンピューター・グラフィックスをやっている青年でしたけども、自分がテレビをみようとすると母親がパッと蓋をする。見られなかった。それでたまに見るものにドキドキしてました、と。映像に対して本当に自分がドキドキしたものだから、そのおかげで今の職についているのだろうと思う、映像の力をまだ自分は信じていると。ちょっと翻訳も入ってますけども。僕、それは正しいと思います。[245−246頁]

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物事が単純にはっきりしてくると思います。生きているって何だとか、家族って何だとか、飯を食うっていうのはどういうことなのかとか、物を持つというのはどういうことなのかとか。つくるというのはどういう意味があるんだろうということを問われる時代になっていくだろうと思うんです。世の中がうまくいかないからそうなってくるんですよね。それから取り残された映画はつくりたくない。同時にお客さんが、ああ面白いものを見たという映画をつくりたい。これでちょっとほっとしたとか、とりあえず三日ぐらいは元気になりますとかね。[287頁]

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 フランスにも、長編アニメーション映画を作りたいと考える若者達がたくさんいるのですが、おそらく作れないでしょう。労働条件やコストのことだけではなく、中央集権や船長の指示に従うことを個人の否定と考えるからです。特にマンガやアニメーションを目指す人達に、その傾向が顕著なのかもしれませんが。

 1950年代に、ソ連でいい長編が生まれましたが、スターリン批判の雪どけと共に、個人の芸術家の群に分解して、それ以降長編アニメーションは作られなくなりました。まあそのおかげで、ノルシュテインのような真の芸術家に機会が与えられたとも言えるんです。

 日本も、とうとうそこへ来たんです。[301頁]

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どこか大きなプロダクションに入らなくてはいけないとか、スポンサーを見つけなきゃいけないというんじゃなくて、「映画といえども一人で始められるんだ」というのは、たいへん大きなメッセージだと思うんです。それは日本でもとても大事なんじゃないかなと。ジブリに入ることに意味があるんじゃなくて、「自分の作りたいものをとにかく自分の努力で作り始めることが、とても大事なんだ」「そうすれば、ちゃんと道は開けるんだ」と。[377−378頁]

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 映画というのは、作り終わった途端に「ああ、しまった」ということの累積なんですよね。自分たちの作った映画を観ると、ダメなところばかりが気になって、まともに画面を見られない(笑)。自分の映画をまた見たいとは思わないんです。そうすると、次の映画でも作らない限り、その呪いから逃れられないんですよ。[387頁]

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 この十数年、日本はずっと政治のこととか経済のこととか論じ過ぎた気がするんですよ。もううんざりですね。[446頁]

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養老 要するに人間の文明というものは、対数曲線みたいになっていて、あるところまではビッと上がるんだけれども、そこから先はいくら努力をしてもたいして上がらないんですよね。そのフェーズ(局面)に入っちゃったら、それ以上労力を投入するのはやめたほうがいいんですよ。[451頁]

2011年8月25日木曜日

8/17 デモクラシー2

木庭顕『デモクラシーの古典的基礎』(東京大学出版会、2003年)

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 〈二重分節〉の社会構造を基礎として政治システムの再構築が完了したときに、しかしそれを根底から批判する概念体系が同時に社会構造として定着しなければ〈二重分節〉とデモクラシーは存続し得ない、政治そのものでさえそうではあるがそれよりはもっと精緻な態様でこの批判が内蔵されなければならない、ということを完璧に見透した、そしてほとんど意識の底に埋め込んだ、のは他ならぬSophoklesである。むろん批判の拠点はAischylosが用意したものの延長線上にある。Homerosを批判したKlytaimestraのIphigeneiaパラデイクマを批判し返すOrestesの立場である。しかしAischylosにおいては逆にOrestesの方こそ自らの狂気で贖わなければならない問題を抱え、そしてこれを克服していく。こちらの側にAischylosの関心が存した。ところがSophoklesは今やOrestesに、Klytaimestraの二重構造のequivocalな点を攻撃させるよりも、これを解消する使命を負った新しい連帯それ自体を深く省察させる。かくしてわれわれは、AischylosからこのSophoklesに渡された対抗緊張関係の太い梁がつくる構造物こそが、政治がデモクラシーへ移行することに伴う混迷と崩壊に大きく立ち塞がる堡塁となる、という基本的な了解のもとに最もよくSophoklesのテクストを解釈しうる。大きくPindarosに対抗し、切り返すようにむしろHomerosに再接近する。[255頁]

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 Sophoklesは442年の“Antigone”においてデモクラシーを根本から支える屈折体に完成された形態を与えるに至る。政治が創り出して久しい透明な空間にこの作品は観念構造の磁場を敷き詰める。創り出す社会構造はほとんど自足的にデモクラシーを基礎付けるようにさえ見える。とはいえもちろん実は多くの屈折体の積み重なりと対抗によって初めてその磁場も凡そ概念されうるのである。

[…]専制と自由、政治的決定と神々の正義、実体法と自然法、ポリスと家・親族、といった図式によって簡単に作品を説明できるという錯覚を与えるに十分である。

 しかしKreonという人物を取ってみるだけでこれらの理解はしばしば全く的外れであることがわかる。登場するや否や彼は自分の政治信条を明確に語る(162ff.)。LaiosとOidipusの真っ直ぐな公正さを強く意識して、傍系ながら新たに権力の座に就いた彼はその実績で懐疑を払拭しなければならない。ジェネアロジクな関係を峻拒して祖国の救済を純粋に追求し、これに反する行為をする敵に対しては妥協の無い態度を取る、と言うのである。埋葬禁止はそのコロラリーであるということになる。しかし、このように政治の論理を徹底的に一貫させる、ように見えながら、実は彼はデモクラシーへの変化に押されて権力の座に就いたのではないか。早くも彼の言辞は少々ちぐはぐである。「ジェネアロジクな関係の前に政治を曲げる」(180)ということと「ジェネアロジクな関係故に敵と雖も埋葬する」ということは同義であろうか。埋葬禁止は公共的空間の簒奪を排除する警察的規制(161, 192)によるが、敵の埋葬はこれに本当に該当するか、その論証は十分か、敵の概念がむしろジェネアロジクなものになってしまっていて密かにジェネアロジクな憎悪を抱くからこそ埋葬まで禁ずるのではないか。Kreonの語彙は父―祖国(182, 199)と友と敵(187, 212)という種類に尽くされる。政治の語彙であるように見えて部族的観念をたっぷり呑み干したデモクラシー期特有の混乱である。[276−277頁]

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 Antigoneを動かす真の動機が最も鮮明に現れるのは512ff.のやりとりにおいてである。Kreonは鋭く、(自分の命令が兄弟の関係を侵害し神の正義に反すると言うのならば)Polyneikesはお前の兄弟であるEteoklesを殺した者である、その者に栄誉を与えればそれこそ神の正義に反するではないか、と斬りつける。Antigoneは「死者はそのように証言するだろうか」と答え死者を連帯の中に引っ張り込む(515)。「死者」とは両兄弟を共通に指す。Kreonは敵味方両方に平等に栄誉を与えるのかと苛立ち(516)、自分からAntigoneの核心のトポスに迷い込む。屈折体はかくして領域に降りる。兄弟は奴隷でない(517)というAntigoneの反論にKreonはこの地を蹂躙したではないかと返し(518)、部族的観念と空洞化した政治の論理を短絡させる例の軸の上を大慌てで滑り降りてくる。Antigoneの張った網は完璧に機能し、地下では等しく同一の規範が妥当する(519)という命題が鮮やかに命中することになる。Kreonの「敵は死んでも味方ではない」(522)に対してさらにとどめの一撃「互いに敵対するためでなく共に愛するために生まれてきた」(523)が突き刺さる。EteoklesとPolyneikesの間に全てを越える橋を架けるということは、決して「自然の」感情や「血」のなせる業ではない。これは〈神話〉的パラデイクマであり、その対抗を支える屈折体は極めて普遍的な連帯を指示している。450ff.の政治的決定に優位する規範の概念も、したがって、凡そ自生的な組織原理や超越的な倫理規範一般を指示しているのではなく、極めて特定的な内容の連帯の普遍性を指示しているのである。

[…]

もしこれが子や夫であれば市民の強制力に(907)立ち向かう労苦など取りはしない。夫の死後また別の夫を得て、また別の子を得ることもできる。これに反して既に死んだ父母からの兄弟の関係は唯一である。もう決して兄弟が生まれて来ることはない。だからこそPolyneikesに自分が連帯しなければ誰が連帯するのか、というのである。交換不可能であること、唯一であること、こそが却って連帯を要請する、ということになれば、échangeと不可分の部族的結合関係(「祖国」)を全てとするKreonの立場は全く無くなる。[…]HaimonにとってAntigoneは交換不可能であるからHaimonは運命を共にするであろう。Haimonの母にとってHaimonは交換不可能であるから彼女も後を追うであろう。Kreonが結局息子と妻を一時に失うのは論理的な帰結である。Teiresiasの予言におそれをなして遂に折れることになっても手遅れとなる。Polyneikesへの固執はagnatiqueな関係の優先では決してない。そういう対抗関係は働いていない。政治的決定と血縁という対抗関係も全く働いていない。AntigoneとHaimonの明晰な論拠付けがこれを否定している。Kreonの思考の自己矛盾と錯綜がこれを裏書きしている。[281−284頁]

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〈二重分節〉システムにおいてはわれわれは全て挙句の果てOidipousのように放浪する、というのである。このことで例解しうる意味連関に立つ、というのである。これを可能にするのはディアレクティカの高度な堆積のみである。事実Oidipousは、ディアレクティカが一つの極点にまで達した、原始の如きものまであぶり出した、地点に立つ。そしてAischylos以来追求されて来た新しい連帯はこれを基礎としてのみ可能である。これがSophoklesの到達した見透しである。[304頁]

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 いわば第一〈分節〉と第二〈分節〉の個別的排他的対応を拒否したOidipousはかくして〈二重分節〉単位の独立を宣言したことになる。しかしそれはAthenaiが割って入ったことによって実現したのであり、するとOidipousはAthenaiに帰属するのではないか、という疑念が生ずる。Oidipousはしきりに自分を保護することがAthenaiを救うと暗示する。否、むしろTheseusを見るや否や、自分の身体或いは屍(621)を贈与する、これがAthenaiの利得となるであろう、と明言する(576ff.)。しかし何故かということを慎重にも明かさない(624ff.)。それを知らずにTheseusがOidipousを保護することが求められているかの如くである。Theseusはもとよりそのつもりである。

 Oidipousは死の予兆が訪れると直ちにTheseusを呼び寄せる(1457ff.)。OidipousはTheseusに秘訣を授ける(1518ff.)。死の瞬間に二人だけで秘密の場所に行ってそこにOidipousが埋葬されるようにする、Theseusはその場所を決して誰にも明かさず、ただ後継者にだけ伝えていく、というのである。確かに、これによりAthenaiは絶対に奪われない形で持つことができる。がしかしそれは、Oidipousがただ単に誰のものでもないのでなく、誰のものでもありえないようになったことに基づくのである。こうして少なくともThebaiは決してAthenaiを侵略しえないのである。戦争、そして或る種の政治、は全て理論的にはOidipousの奪い合いである。が〈二重分節〉単位をそもそも奪えないように聖域化する、先験的なものにする、デモクラシーを完成する、ことによって初めてそうしたメカニズムに終止符を打つことができるのである。デモクラシーが連帯であるとすれば、その連隊はこれのためのものでなければいつか虚偽のものとなる、というのが死にゆくSophoklesが死にゆくOidipousに託した結論である。[321−322頁]

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頂点を構成すれば下位の〈分節〉系が成り立たない――これが問題である。実は〈二重分節〉の概念自体この問題を強く意識している。第一に、上位の頂点となるか下位の構成員となるかが決定されているときにのみ、この問題は生ずる。ならば、上位の頂点と下位の構成員が不断に循環し交替すればよい。確かに頂点は一義的に構成される。しかし下位の構成員はこれに服するという関係に立つのではない。否、頂点が下位の構成員に服するのであるかもしれない。第二に、各単位が時々に入れ替わって下位に立つとき、特定の〈分節〉頂点との間に排他的交換関係を持つのではなく、それを取り替えたり、同時に多重的に関係を設定しうる。第三に、下位の〈分節〉単位間には、上位の〈分節〉体系と無関係に、自由で無差別的・解放的な〈分節〉体系が複数形成される。この〈分節〉体系はしかも上位の〈分節〉体系と闊達に連動しつつこれから自由である。言わば、〈分節〉の二つの審級の間にまた一つ〈分節〉的関係(自由)が達成される。以上のようなときに〈二重分節〉があると言うことができる。

 諸々のテクストは、まるで〈二重分節〉という道具概念を既に備えているかのように、循環、交替、二つの次元間の〈分節〉的関係、といった事柄に極めて意識的で敏感であった。

 しかし何故これらのテクストは読み手にこうしたことを考えさせる独特の屈折を示すのか。〈二重分節〉に一体何の意義があるのか。

 これを最もよく知るであろう人物はHesiodosであろう。領域の人員は、その領域に属する限り、相互に自由である。都市の貴族達に対しては、その領域の組織に結集して団結して自由を守る。しかしこの領域の組織を離れてもなお自由でどうしてありえないのだろうか。自分達相互の間で自由であるばかりか、自分達自身からどうして自由でありえないか。全ての装置をかなぐりすてればよいというのではない。むしろ既存の装置を巧みに二重に組み合わせることによってのみ、つまり同時に二重に自由であることによってのみ、初めて、自由達成の道具である〈分節〉システム即ち政治システムからもさらに自由であることが可能になるのではないか。

 もっとも、そればかりではない。以上のような二面的な関係は、〈二重分節〉システムにおいてはあらゆる場面で形成される。つまりは、〈二重分節〉は、〈分節〉と同様に、特定の目的や理念に奉仕するものではなく、一層複雑で多様で独創的な思考を可能にする、様々な事柄の一層多重的な保障をもたらしうるようになる、ということである。二重の自由はその可能性の一つにすぎない。

 つまり、〈二重分節〉によって開かれた可能性の総体というものが、われわれの視野に重要なものとして入って来ざるをえない。われわれはデモクラシーの基礎をこういうものとして再定義できるのではないか。[409−410頁]

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 Areopagosが廃止された形跡は無く、起訴陪審にも手が付けられた様子が無い、基礎となる民会の構成が変わったにせよ政務官制度にも変更が無い、にもかかわらずbouleのみがほとんど初めて創設され、これがデモクラシー元年を画す。初めて裁判と区別される最狭義の政治的決定に関与する合議体が、直接demosを基礎として形をなしたのである。民会の存在や役割そのものでなく、いわば民会のパートがこうして二つに分節し狭義の民会に対抗する機関が現れ二重になること、これがデモクラシーの登場を告げるということである。[835頁]

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 そもそも裁判の基本パラデイクマは、政治システムの破壊に対して、厳密にそれのみに対して、政治システムが政治システムたることを一切やめずに対処修復するというものであった。弾劾主義はこのことの厳密なコロラリーである。[847頁]

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 デモクラシーの概念の全体像を再確認するとき、極めて印象的であるのは、パラデイクマのparadigmatiqueな分節の高度な発達である。政治は既にこのことを含意するが、デモクラシーになるとその分節は分厚くなり、パラデイクマのparadigmatiqueな作用そのものが解体されるかの如くでさえある。まず、人々の意識について二重に反省する営みが体系的に展開される。それが厳密に制度化され、社会の構成員の全体を深く捉える。反省はもとより処方箋追求の対極である。次に、二重のディアレクティカが高度に発達する。syntagmatismeはパラデイクマのparadigmatiqueな分節を極大化するための最も特徴的な手段である。さらに、言うまでもないが、これを通じてパラデイクマのヴァージョン対抗は常に極大化される。但し截然と二重に。

 この結果、医学や倫理学のように「処方箋」に辿り着く場合にも、そのパラデイクマは独特の波長を帯びるようになる。何よりも、こうした「第一線の」パラデイクマの外側に凡そ直接の帰結を截然と拒否するパラデイクマが膨大に(十重二十重に)発達する。これがデモクラシーのさしあたりの条件である。これは、もしデモクラシーを持ちたいのならばまずは直接デモクラシーを実現し(演じ)ようとするな、最大限に迂回せよ、ということを意味する。政治およびデモクラシーを根幹で支えるディアレクティカからさえ時に退避しなければならない。ディアレクティカはやはり政治的パラデイクマ本体に結びついているからである。デモクラシーはこの忍耐力(patience)にかかっているということになる。[885頁]

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 複雑で粘り強い思考を要求される中でも最大の難関はディアクロニーである。ところがおそらくデモクラシーにとって最も重要なのはディアクロニクな感覚である。デモクラシーが常に二つの層の積み重なり、つまり同時に鳴り響く二つの意味、を必要とする以上当然である。たとえば、〈二重分節〉は領域のéchangeを大規模に掘り起こすことになる。これは一見枝分節に固有のéchangeと区別が付かない。後者は政治にとって危険であり、政治の側からの拒否を帰結しやすい。しかもこれはまたディアクロニクに古い層を有し、枝分節組織の両義性に関連している。するとデモクラシーの側は二重三重に政治を敵に回してéchange擁護に傾く。しかもそうすればそうするほど、デモクラシーに固有のéchangeから遠ざかり単なる枝分節のéchangeにのめり込むことになる。つまり混乱に拍車がかかっていく。

 これを避けるためには厳密なディアクロニーを以てする以外にないが、この場合、その鍵を握るのが〈二重分節〉の概念である。もっともそれだけでは不十分であり、社会構造に委ねるだけでなく、ディアクロニクに新しいéchangeを支える様々な補強的第二次的政治システムが要請される。ギリシャはこの方向では第二の政治システムを発達させることなく、むしろローマに範を取った制度にヨリ大きな可能性があるが、いずれにせよこれこそが近代の課題であり、また不十分ながらわれわれは様々な手段を有している。逆に、社会構造を構築する部分はその分弱いかもしれない。[886頁]

8/16 順列都市

グレッグ・イーガン『順列都市』(下)(ハヤカワ文庫、1999年)

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巨大な格子状に配列されたコンピュータ群。ランダムなノイズの海にまかれた、秩序の種子ひと粒。それが、内在するロジックの力だけで、一瞬一瞬、それ自身を拡張していく――時空間を定義するというまさにその行為によって、非時空間のカオスから、必要な建設用ブロックを“融合”させながら。[24−25頁]

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通常の宇宙の拡張は、エントロピーを増大させる。なにもかもが分散し、無秩序化するばかり。しかし、TVCセル・オートマトンの建設が進めば、生まれるのは、より多くのデータの置き場所と、より多くの計算能力と、より多くの秩序です。通常の物質はいずれ崩壊しますが、このコンピュータは物質でできているのではない。セル・オートマトンのルールの中に、このコンピュータが永続するさまたげになるものは、なにもありません。[60−61頁]

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創造者という考えかたのなにもかもが自壊したのよ。意識をもつ存在のいる宇宙は、塵の中にそれ自身を認識するか……それとも認識しないか、どちらかなんだわ。その宇宙は、自己完結した全体として、それ自身の意味をそれなりに見出すか……でなければ、まったく見出さない。神は決して存在しえないし、これからも決して存在しない。[269頁]

2011年8月24日水曜日

8/15 デモクラシー1

木庭顕『デモクラシーの古典的基礎』(東京大学出版会、2003年)

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ギリシャの悲劇は周知の如く〈神話〉をのみ素材とし、それ以外のパラデイクマ、〈神話〉化されない神話や神話化されうる現実の大事件、を決して取り上げることが無かった。その〈神話〉をすら、〈神話〉として語るのをやめて一回限りの事件にしようというのである。〈神話〉と不可分の関係にある政治の再構造化のために、それを〈神話〉に対する全面的で方法的な批判の道具にしようというのである。その前提の上で、悲劇は儀礼と〈神話〉の間で意識的に完璧に儀礼の側に立って見せる。このことに全く予想外のしかも純度の高い意味が生ずる。もちろん特殊な前提故に、儀礼自体政治システムとの関係で言わば完全に形式的にのみ作動するように性質が予め換えられているということがある。悲劇はなおその特殊な儀礼とさえ区別されてさらにその向こうに接続されるのである。すると、儀礼を隔てて政治システムとディアレクティカの反対側に、隔絶された不思議な空間が現出する。むろんだからと言って非政治的空間と連続するのではない。それからは二重に隔てられる。つまり政治が「生の現実」から隔てられているとすれば、政治をはさんで反対側に、つまり政治よりもさらに「生の現実」から隔たったところに、しかし「第二の生の現実」が構築されるのである。[179−180頁]

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悲劇は自らをもっぱら一回限りで問題だらけの所与として投げ出して見せる。かくして悲劇の目的は単なる〈神話〉の再構造化であるのではない。M1 – P1に替わるのはM2 – P2でなく、M2 – X – P2である(〈神話〉と政治的パラデイクマの関係がもう一段遠くなる)、ということがはっきりと構想されたのである。[182頁]

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 少なくとも6世紀末にはAthenaiにおいて悲劇は厳密な意味における政治制度の一翼として確立される。[…]

 第一に都市中心の物的装置の中で厳密に定まった形態の空間が定着する。Dionysos神殿が創るオープンな空間にあらためてこの特殊な儀礼のための空間が厳密に区切られて設営されるのみならず、さらにその内部はパラデイクマ再現実化のための空間と単なる儀礼参加者のための空間に厳密に仕切られる。初めて後者は外の一般の政治的空間から区別される。しかもパラデイクマ再現実化のための空間内部に無い。むしろこれと向き合ってたとえば批評をするための空間である。そういう新しい形態の儀礼空間である。しかも、批評のチャンスが皆に完璧に平等に開かれるようにこの空間は円対称、否、音と光が三次元の存在たる限りにおいて球対称、の構造が与えられ、かつよく区切られる。

 もちろん上演自体が完璧に公共的な性質の事柄である。それは等しく皆の事柄である。したがって完全に共和的財政原理に則って実現される。公共的な性質を一層際立たせるのは必ずコンクールの形式において上演されるということである。複数のパラデイクマ再現実化が公開で競うagonという形態は、多元性と対抗的要素、およびその年に一つという一義性(皆のもの)、の両方を保障する。政治はディアレクティカであり、ディアレクティカは評価であるから、コンクールという形式は、審判人の判定を通じて、まさに裁判と同じように、政治システムに極めて適合的である。しかも不可避的に批評という不可欠の要素を引き出す。悲劇は儀礼そのものとは異なって批評に曝されなければ何の意味も持ちえないのである。既に述べたように、悲劇はディアレクティカに参加し(Solonと出会い)、しかもディアレクティカの前に立つ(Solonの吟味に曝される)。それからまたagonはそれ自身儀礼の再現実化であるから、コンクールは悲劇を脱儀礼化するのに資するであろう。本気でパラデイクマを現実へと近づけるのである。諸々のヴァージョンが鋭く立体的に対抗する場へと。要するに以上のことは全て政治という前提の上に悲劇が立つことに基づく。[193−194頁]

8/14 復活

 今日は8月24日(水)です。

 最近はまともに更新していないのに、読んでくださっている方がいるようで、ありがとうございます。

 昨日で仕事と休暇に一区切りついたので、また少しずつ更新したいと思います。

 それと、9月でブログ開設1年になるので、これまでの記事ももう少し参照しやすくしたいと考えています。

 今後ともどうぞよろしくお願いします。

 林立騎

2011年8月13日土曜日

8/13 丸山眞男

丸山眞男『自己内対話』(みすず書房、1998年)

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 Kulturをtragenしてゐる者が大衆でないために結局圧倒されてしまふ。(付)東洋のKulturの構造そのものがどうしても大衆に浸透して行かない様に出来てゐる。だから単純に東洋的Kulturを「普及」させるといった簡単な問題ではない。(昭20・10・25)[4頁]

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 東洋精神に欠けてゐるものは時間との対決だ(歴史哲学)。時間をうつろふもの、仮相とみるかぎり、人間精神の形成が時間を通じてのみ実現されるといふことは、一つの単なる偶然、止むをえざる廻り道にすぎなくなる。かくては思想史といふものは無意味なものとなり、人間はかつて数千年の昔にソクラテス、孔子、釈迦、キリストの到達した精神的高みから一度顛落して以後、徒らなる混迷と低徊を繰返してゐたにとどまる。[7頁]

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 あるアイディアがひらめくと、すぐそれを論文にしなければ気のすまない人がある。これは恰度、性欲を感じたらその度に性行為にまで行くのと同じことで、結局体を害する。適度の禁欲の後の発散が真にfruchtbarな結果をもたらす。[23頁]

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 日本に独裁者がいないのは、日本が個人から成る国家ではなくて蜜蜂の集団のようなものだからだ。ここにはpublic opinionはない。デモや大衆集会があっても、それは世論を表すものでなく、蜜蜂の本能的なブンブン騒ぎと同じようなものだ。グループのバランスによって日本の政治は動く。

 日本の政府は家族制度が浸透しており、日本は家族制度の国である。[30−31頁]

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 国立劇場の設立趣旨に「古典を保存する」というコトバがあった。古典は「保存」の対象なのか!? これほど古典というコトバの日本的な意味を露呈している例はなかろう。ギリシャ古典は「保存」されているのか。モーツァルト・ベートーヴェンの音楽は「保存」されているのか。

 しかし日本思想の「原型」をなす直線的な時間像からすれば、「古」は「今」ではない。物理学上の定理ではないが、一つのものが二つの異なった位置に同時に存在することは不可能である(少くも三次元空間では)。古典が「規範」ではなく、過去の、「いにしえ」の文化的産物であるところでのみ、古典を「保存」するといういい方が自然にひびくのであろう。[121−122頁]

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 生きざま死にざまに人間の深淵をかいま見ることだけに感動し、そこにだけ「ほんもの」「にせもの」という――実は単純な――人間の分類法を見出す、ほとんど処置なしのロマン的思考の氾濫![142頁]

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 明治初年の自由民権運動、ジャーナリストの抵抗には投獄を当然のこととし、投獄をむしろ誇りとする気風があり、それは民衆の心理のなかにもあった。そこで合法性のワクをひろげる努力、政府投獄の措置そのものを批判し改善する方向には十分発展しなかった。「来れ牢獄、絞首台」の伝統。[144頁]

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 日本人の行動評価。

 うつくしき心、きよき心、あかき心 ⇔ きたなき心

 ピュリティの尊重から、正反対の行動様式がでて来る。

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 官僚と庶民。

 官僚と庶民で構成されていて市民のいない国――それが日本だ。ジャーナリズムの批判性は庶民の官僚批判の典型的パターンである。庶民的シニシズムには原理がない。

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 「蜜蜂の集団」と「グループの寄合世帯による統治」とが、大日本帝国とその社会の構造についてのヒュー・バイアスの観察であった。これはいわば望遠的に見た日本であるが、ズーム・レンズをつかって、これに接近して社会的人間関係を見ると、それは「もちつもたれつ社会」、といえる。「こっくりさん」の社会である。誰もが自立せずに、他者にそれぞれ寄りかかっている。[147頁]

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 日本はサムライの衰滅とともに名誉感は失われて行ったが、戦後の平等社会は急速に有名性の価値をのし上げ、いまや「名誉」の意味さえ理解されないようになった。名声や功名がもっぱら他人の評価に依存するのにたいし、名誉はヨリ個人に内面化された価値である。(むろん「良心」のように純粋に内面的価値ではないが…)マス・コミによってつくられる「有名性」が、圧倒的に人々のあこがれの対象となるのは、画一化社会にふさわしい現象だ。それに反比例して「権威」は権威を失う。[150頁]

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 身分は名誉感を伴い、身分的特権はこの名誉感に裏打ちされて義務意識を伴うこととなる(いわゆるノブレス・オブリージュ)。トクヴィルによれば、フランス革命はまさに貴族がノブレス・オブリージュを失って、たんなる「特権」に堕したところにおこった。身分への教育は、この特定の名誉感の培養である。

[…]

職人の特権、仕事への誇り、排他的閉鎖的性格、一定のしつけによる行動様式の陶冶――はすべて、貴族やさむらいの「身分」を特徴づけている諸要素と共通している。逆にいうならば、たんに身分的なるものの否定からは、画一的な平等社会――砂のように平坦で、他者とのけじめのない等質的な社会しか生れない。近代市民社会は、「職業に貴賎なし」の原則によって、各職業にパティキュラリスティックな名誉感を培養することによって、または、他者とのけじめを身分でなしに、文字通り一人一人の「かけがえない個性」にまで分解することによって(つまりジンメルのいうIndividualismus der Einzigkeit)、右のような砂漠の出現をくいとめようとして来たのである。しかも、やはりトクヴィルによれば、量的個人ではなく、「個性」のトリデとなるのは、身分=自主的集団(ゲマインデ)であった。[156−157頁]

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 民衆は偉大だとか、民衆の力を評価せよ、とかいう日本のインテリのポピュリズムほど、滑稽なものはない。自分は民衆の一人だということを一時も考えたことがないのだろうか。自分は偉大だとか、自分のエネルギーを尊重せよとか書きたてる無神経さ![157頁]

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日常的には、キリスト教徒と教会とは地上の権威に従順であり、これを「神の立てたるもの」として基礎づけさえした。しかし例外状態には、つねに前者の原則が貫かれた。そこでは、良心の自由にもとづく権力への抵抗が義務とされる。例外状態とは、地上の権威への忠誠と、主なる神への忠誠とが矛盾したディレンマの状況である。こうしたディレンマは事実としてはレア・ケースに属する。しかし、キリスト教の核心的な原理はまさに、事実的傾向性としては稀な例外状態において発現されたのである。およそ原理というものはそうしたものである。頻度数(frequency)の問題と、原理の問題とを混同してはならない。[173頁]

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「スキル」の習得は、知識の暗記とちがって、熟練した経験者に親近して「見えざる」教育を受ける過程を必要とするという、当然の事理がコンピューター時代にあまりにも忘れられていないだろうか。[191頁]

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 「自由とは他人とちがった考えをもつ自由だ」(ローザ)というコトバには、脈々とした西欧の伝統が流れている。[195頁]

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彼等にとっては[…]多数決(満場一致制に対立するものとしての)も、他人の権利の尊重も、すべて「形式」にすぎず、したがって「内容」の方が価値的に優位する。なんと「伝統的」な考え方か。まさに彼等がこういう「内容主義」を一歩も抜け出ていないからこそ、教育者としての私は、彼等にたいして「形式」を固執しなければならない。「手続」や「形式」は何のためにあり、いかなる存在理由をもつか、それが欠けたとき、人間生活は恣意の乱舞に陥り、リンチが日常化され、「ジャングルの法則」だけが支配する、という常識を、情けないことながら大学生の彼等に何度でもくりかえし強調しなければならないのだ。[196−197頁]

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 もっとも、さらにつきすすめていえば、現代流行の「自己否定」とは、昨日までの自己の否定(したがって昨日までの自己の責任解除)と、今の瞬間の自分の絶対肯定(でなければ、なんであのような他者へのパリサイ的な弾劾ができるのか!)にすぎない。何と「日本的」な思考か。[233頁]

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 アカデミズムは学問についての「型」、「形式」、それへの訓練としつけの場である。[240頁]

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 イマジネーションの力を不断にためすには、自分にもっとも慣れたものを、あたかもその都度はじめて接したかのようなみずみずしい新鮮さで感受できるかどうか、試みてみるのがよい。「古典」によって想像力が喚起されるというのはこのことである。[244頁]

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 日本が停滞的なのは、日本人があまりに時々刻々の変化を好むからである。日本にある種の伝統が根強いのは、日本人があまりに新しがりだからである。日本人が新しがりなのは、現在手にしているものにふくまれている可能性を利用する能力にとぼしいからである。目に見える対象のなかから新たなものを読みとって行く想像力が足りないからである。したがって変化は自発性と自然成長性にとぼしく、つねに上から、もしくは外部から課せられる。

 つまり、保守主義が根付かないところには、進歩主義は自分の外の世界に、「最新の動向」をキョロキョロとさがしまわる形でしか現れない。[247頁]

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認識の客観性とは、「クソ実証主義」とも、またたんなる論理的整合性とも異なること、認識することは自己の責任による素材の構成という契機をめぐって不可避的に思想と価値判断の領域にふみ入る自覚しなければならない。[249頁]

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 混沌への陶酔でもなく、秩序への安住でもなく、混沌からの秩序形成の思考を!

 底辺の混沌からの不断の突き上げなしには秩序は停滞的となる。けれども秩序への形成力を欠いた混沌は社会の片隅に「異端好み」として凝集するだけで、実は停滞的秩序と平和共存する。[251頁]

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 今の日本に必要なのは「未来学」ではなく「過去学」だ。[251頁]

8/12 リービ英雄

リービ英雄『我的日本語』(筑摩書房、2010年)

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 歴史的に見て、日本は固有の文字をもっていなかった。自分の言葉――「土着」の感性――を書くために、異質な文字――「舶来」の漢字――を使わなければならなかった。日本語を書く緊張感とは、文字の流入過程、つまり日本語の文字の歴史に否応なしに参加せざるを得なくなる、ということなのだ。[20頁]

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 人麿はここで、究極の公である天皇家のプライベートな心情をあえて詠むということをした。

 ぼくが若いときに人麿を読んで、いちばん強烈な印象を持ったのは、きわめて形式的な美しさだった。公の文脈の中で天皇を褒める。公の中の公の文脈の中で、天皇家の誰かが亡くなるとその挽歌を詠む。しかしそれにとどまらず、少しずつ天皇家の人物のプライベートな心情を書くようになる。かつて人麿は御用詩人といわれたこともあるように、天皇家に頼まれて褒め、頼まれて嘆き悲しむのだが、ただ御用にとどまらない。それだけではなくて、天皇家の人たちを主人公にして、人麿はその心情をあえて書こうとした。ぼくは、ここが日本文学のひとつの誕生だと思うのだ。

 つまり公の役割として、天皇家に頼まれて卓抜なレトリックを作り上げた。作り上げた上で、それをリリカルな方向に結晶することができた。[72頁]

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 日本人としてドイツ語を選択するという行為には、アメリカ人として日本語を選択する、あるいは日本から中国へ行き日本語で中国を書くというぼくの行為とは違って、そこに近代百年の国家間の力関係が基本的に入っていない。日本がドイツを侵略したこともなければ、日本がドイツに占領されたこともない。国際的な力関係がそこにはない。[112頁]

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 アジア近代史の中では、中国も、韓国も、ベトナムも、苛酷で悲惨な体験をした。そのため、日本より過激なナショナリズムに走ったのだが、なぜか、彼らは言葉を問題にしなかった。

 二十世紀のさまざまなナショナリズムの中で、日本語だけが目立って、言葉そのものを民族アイデンティティにしようとした。[116−117頁]

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 北京の軍事博物館に行ったとき、近代戦争展示室の展示物に、1944年の新聞記事があった。繁体字だった。そのときまで、文字は共通していた。「戦前」の日本の漢字と「解放」前の中国の漢字が、同じだった。1500年間、同じだった。それが、日本ではGHQのマッカーサー、中国では毛沢東、ふたりのMによって変わってしまった。[147頁]

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 ぼく自身がやろうとしたことは、もう一度「翻訳」ということに、日本語を戻したことだと思う。ぼくは英語で何かを聞いて、翻訳できる・翻訳できないということを体験し、それを表現しようとした。[181頁]

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日本の文学者は「老荘思想」の影響を受けるが、老荘思想だけでは答えられない。「和歌」で答える。しかし和歌では、「道とは何か」という問いには答えられない。[207頁]

2011年8月12日金曜日

8/11 家族

 今月が終わるとこのブログは一周年になるのだが、わたしの奥さんはいまだに存在さえ知らない。

 ツイッターをやってることも知らないし、翻訳の内容も博士論文のテーマも何も知らない。

 ネット上で彼女やあらたの写真を公開していることも知らない。とにかく何も言ってない。

 家族というのは面白い。

8/10 提出

 翻訳を仕上げて提出した。

2011年8月11日木曜日

8/9 推敲

 ずっと翻訳の推敲をしている。

8/8 広島・長崎と福島

「広島・長崎の教訓を今われわれは活かせているか」

残留放射線の影響を無視したり、過小評価したりした理由は大きく分けて2つある。ひとつは、アメリカが軍事戦略上の理由から残留放射線の影響がないものにしなければ、核兵器を正当化できず、その意向に日本政府が従ったこと。もうひとつは、残留放射線による被害を補償することになってしまった場合、日本政府の負担額は非常に大きくなるので、それを防ぎたかったということ


1960年代に日本学術会議が「被爆者への影響についてABCCなどに任せるのではなく、日本独自の研究所を作りなさい」ということを政府に勧告しました。しかし、日本政府はなかなか認めなかった。ようやく原爆放射線医科学研究所を広島大学に、長崎大学に単なる研究施設を認めましたが、研究所の規模が小さいから、広範囲の被爆者を調べて研究しようと思えば、ABCCから資金面でのサポートを受け、共同研究を行わざるを得ない。そんな状況で育った学者が学会を占めているんです。


広島原爆計画についての記述も驚きでした。アメリカはあえて原爆を広島の真ん中に落とす必要があった。なぜなら彼らは標的を「直径4キロ以上の都市」で、「爆風によって効果的に被害を与えられなければダメ」で、「8月まで通常爆撃をされずに残っている都市じゃなきゃダメ」だと考えていたからです。[…]原爆の破壊力を調べるため、わざと広島を温存したわけですね。それを考えると事実上、アメリカは人体実験をしたといえる。そういうことを知らないまま、毎年8月6日を迎えていたことを恥ずかしく思いました。

2011年8月9日火曜日

8/7 川久保玲

 翻訳の合間に川久保玲のドキュメンタリーを見た。具体的なヒントがいろいろあった。



 「生地を開発することは、新しい形をつくることと同じ重要性をもつ」。これはいろいろ応用できる。「生地」を「文体」にしたり「劇場」にしたり「テクスチャー」にしてみたらどうだろう。生地の開発って何だろう。


 川久保はコンセプトを与え、服を作るというゴールだけを共有した上で、複数のセクションをわざと隔離する。互いに気を使わないでクリエーションを進めさせ、最終段階でデザインと生地をぶつけて、そこでもう一度化けさせる。「創作をいかに組織するか」ということにとても気を遣っているようだった。これも大切だ。



 そもそも服って面白いと思った。ファッションショーは演劇。でもモノとして買われる。しかも複製されて。ローカルとグローバルが入り組んでいる業界でもあるようだ。


8/6 翻訳

 ずっと翻訳している。