2010年9月30日木曜日

2010年9月から10月へ

 マティアス・ミスリークという友人が、リヒテンシュタインという小国に暮らしている。同い年である。

 2005年3月に日本で知り合い、アドレスを交換して別れたが、その後、彼から郵便が届くようになった。

 郵便に手紙はついていない。そもそも住所以外に一切文章が記されていない。いつも封筒に大量の写真が詰め込まれているだけだった。それも近況を知らせる写真ではなく、彼の子供のころの写真、赤ん坊のころの写真、生まれたばかりの写真、洗礼式の写真、お祭の写真、妹らしき女の子のやはり子供のころの写真、両親らしき男女の結婚式の写真、祖父母の若いときの写真、友人の写真、家の写真、庭の写真、ときには同じ写真が何枚も入っていた。のちには、彼がスキーの大会で獲得したメダルや、小学校・中学校時代の採点されたテスト(高得点)も送られてきた。その後リヒテンシュタインに彼を訪ねると、写真は家族のアルバムから内緒で抜き取って送っていたことが判明し、親には言うなと口止めされたが、数百枚を超えていたから内緒もなにもなかろうと思う。

 いつのまにか彼とのやりとりも途絶えてしまっている。

2010年9月29日水曜日

「チリの地震」(4)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(4)

 ホセファは、死へ向かい、すでに刑場の近くにいたのだが、そのとき轟音とともに建物が突然崩れてきて、引き回しの行列が散り散りになったのだった。彼女は恐ろしさのあまり、まず直近の市門へ走ったが、すぐに正気を取り戻すと、向きを変え、修道院へと急いだ。小さな、頼る者もないわが子が残されていたのである。

 彼女は修道院全体がすでに炎に包まれているのを目にした。そしてあの修道院長が、ホセファとの最後の瞬間、赤子の世話を約束していたのだが、今まさに叫んでいた、門の前で、助けを求めて、誰か赤子を救い出してくれと。ホセファは飛び込み、向かってくる煙にも怯まず、四方八方が崩れる建物を進み、まるで天使の庇護を受けたかのごとく、赤子と一緒に無傷で正面から出てきた。驚く修道院長の腕に抱きつこうとしたそのとき、修道院長は、修道女ほぼ全員とともに、倒れてきた修道院の切妻に潰され、不名誉なかたちで殺された。ホセファはこの恐るべき光景に震えた。修道院長の目をさっと閉じてやると、逃げた、恐怖に満たされ、大事な男の子を、天がもう一度贈ってくれたから、この破滅から逃れさせようと。

 数歩も行かないうちに大司教の死体にも出会った、潰れた死体が教会の瓦礫の中から引きずり出されたところだった。副王の宮殿は沈んでいた、判決の下った裁判所は燃えていた、かつての父の家は湖となって煮え立ち、赤味を帯びた湯気を上げていた。ホセファは力をふりしぼり、正気を保った。嘆きを胸から払いのけ、勇気をもって、収穫物とともに通りから通りへと進んだ、そしてすでに市門に近づいたそのとき、ヘロニモが悲嘆に暮れた監獄が瓦礫に埋まっているのを目にした。この光景に彼女はよろめき、正気を失い町角に倒れそうだったが、まさにその瞬間、背後の建物が倒れてきて、数度の揺れですでにもろくなっていたのだが、驚愕に力づけられ、ふたたび追い立てられるのだった。彼女は子供にキスをし、目から涙を拭い、もはや周囲の惨状を気にとめることもなく、市門に辿り着いた。外へ出て振り向き、すぐに結論付けた、瓦礫と化した建物の住人が必ずしも下敷きになったとは限らない。

 彼女は最初の分かれ道で立ち止まり、この世で小さなフィリップの次に愛しいあの人があらわれはしないかと待った。彼女は進んだ、誰も来ず、往来が激しくなったからである、先まで行き、そしてまた振り向き、待った。たくさんの涙を流しながら、松が影をつくっている暗い谷へと入ってゆき、消えたと信じた彼の魂に祈りを捧げた。その谷で恋人を見つけ、また幸福を見出したのだから、ここはまるでエデンの谷かと思われるのだった。

2010年9月28日火曜日

「我が体険記」(4)

上村義雄「我が体険記 トンネル工事のみ他」(4)

43年 其の年家を作り八月十三日に移つた翌日
笹島重役松田一郎氏が来てお前は他へやらないとにかく笹島へ来てくれ金は出すからと
云つて恵那山トンネル園原作業所へ十人連れて行つた。其れが運のつき始め其の始めて
金が家の借金をかえしても残る様になつた

高速トンネルを一冬に二も十人で完了したのには我乍らおどろいた 其れで重役にすつかり気に入られて上村にまかしておけば大丈夫と云われに様になつた。同じトンネルでも其后は割とうまく行かなかつたが社長も其の頃から上村上村と言つてくれる様になつた

其の工事が完了してからは横浜や東京と
移動して中山作業所へ行つてが新潟の上村と
言われて一作業所に七年始め大分金も取らしてもらつた。其の后青海の親知らず現場で福作業長として北陸高速の工事をさせてもらつて六十才になるのでいんたいさせて
もらふと宣言した

夏は森林組合の仕事を請負つて高名沢道院
方面の仕事をさせてもらつて冬は除雪隊にも仲間入りして働かせてもらつた
  約三年位冬も働いた

自分なりに良く体が續いたと思つて居る

此の約三十年間体が持つたと我乍ら思ふ

(了)

2010年9月27日月曜日

「物語るひと」

1.

Düsseldorf, 2003/10/12/21:08































2.

 一年間ドイツに留学し、帰ってきてからちょうど6年が経過した。この間、一度もまともに留学期間を振り返ってこなかった。日本に戻っても毎年のようにドイツを訪れたから、思い返す必要を感じなかった。今回は思い立って始めたが、やはり気は乗らず、ろくな総括になっていないことは、みていただければわかる。

 「物語はみずからを出し尽くしてしまうということがない」(ベンヤミン)。ドイツの時間と経験は、保存しておき、ときどき再利用すればいいのだろうと思っている。

 写真をみたり、あるいはたんにドイツのことを思いおこすと、匂いや空気がよみがえってきて、現在の時間を一瞬離れられるのは貴重なことだと思う。それはドイツだけでなく、実家でもギリシアでもベトナムでも同じである。

 一人でもなにかすればいいのにしないまま、妙に退屈を感じ、今いる場所から離れたがり、できるかぎりたくさんの知らないものや知らない場所を経験したがっていたのが自分だったなと思う。

2010年9月26日日曜日

「ベルリンの幼年時代」

1.

Düsseldorf, 2004/4/16/21:58

Düsseldorf, 2004/4/16/22:29
Düsseldorf, 2004/4/20/4:06




















































































































2.

 一年間の留学期間のうち、一番いろいろなことがつらかった時期の写真は一枚も残っていない。2003年9月と11月である。残った写真でわりとまともなものは、木と水と空ばかりだった。ひとの写真はそれほど多くなく、自分が写った写真は一年間で5枚もなかった。家や様々な国籍の同居人や友人たちや大学の写真もほとんどない。あってもなぜかぼけている。デュッセルドルフは空気が乾燥していてくせ毛が妙にさらっとしたのを覚えている。一年間快適だった。朝夕、大きな窓の重い鎧戸を開け閉めした感触を覚えている。台所に小さなテレビがあり、テニスとビリヤードをよくみていた。フェデラーが好きになった。ドイツに着いた晩に日本の歴史のことを細かく聞かれて困った。スペイン人の女の子の話すときの距離があまりに近くて嫌だった。一時期小さな映画館によく行った。一度大雨が降って地下室が水浸しになった。当時お世話になっていた人たちには全然連絡していない。同居人の一人は年金生活の元オルガン奏者だった。オルガンの歴史や仕組みを細かく講義してもらったが全て忘れた。フセインが地下に隠れていて発見されたニュースをトルコ在住のクルド人と一緒に見ていて、彼はものすごく興奮していたが、当時はその意味がわからなかった。同じ時期にトルコ人の女の子も家にいて、彼は自分がクルド人であることをその女の子には絶対言うなと口止めした。香港で宝石商をやっているジャッキーとは数ヶ月一緒に暮らした。彼はゲイで、医者をしている恋人サイモンが遊びにきた。二人とも親切だった。イタリア人で一緒に住んでいたのはニコロとアルベルト。性格は正反対だったが二人とも日本人の女の子が大好きだった。ホテルマンのニコロに日本食をつくってあげたら喜んだ。一番感動していたのはなぜか「ゆかりごはん」だった。大家のおばちゃんは煙草の臭いを嫌悪し、ハインリヒ・ハイネを愛読し、毎日数限りない皮肉っぽい冗談を飛ばしていた。生きていれば75歳くらいだろう。たぶん生きていると思う。ベルギーのドイツ語圏出身だった。大家のおっちゃんは親切さと気難しさの同居した教養あふれる変人だった。ゲーテの命日にはゲーテ博物館の講演会に連れて行ってくれた。カンディンスキーを一緒にみにいったことも覚えている。内容は全部忘れた。イギリス人のジョナサンのことはとても好きだった。彼は日本人の女の子に惚れていたが、全然うまくいかなかった。彼にはベトナム人の女の子の友達がいて、一度会ったがとてもすてきな人だった。ベトナム戦争のとき家族で移住したのだと言った。ドイツに着いたときの同居人だったフランス人のアドリーンは結婚してメキシコに行った。相手はフォルクスワーゲンで働くメキシコ人だった。メキシコの大学でカント哲学を教えているホアン・カルロスとは日本でも何度かスカイプで話したがそれきりだ。アメリカの哲学教授も2ヶ月くらい家に住んだ。50歳くらいだったがドイツ語はひどかった。それでも宗教や哲学関係の言葉をたくさん知っていて感心した。最初の同居人の一人だったロシアの女性の名前は忘れた。台湾の男の子の名前も忘れた。日本人の女の子が住んでいた時期もあったような気がするが、なぜか思い出せない。秋くらいからはほとんど毎日大家のおっちゃん、おばちゃんと夕方1時間くらい散歩をした。家の隣が公園だった。歯の矯正中だった感じのいい近所の女の子や、元小学校の校長先生で体調を崩して乳製品が食べられなくなった女性、犬たち、公園に2か所ある坂道、真ん中の池を覚えている。おっちゃんとおばちゃんは植物の育ち具合、草の伸び具合、池に集まる鴨や白鳥の数にいつも注意していた。数年前に死んだ犬の話をよくした。彼らは息子も亡くしていた。息子は9月1日生まれで、ぼくが彼らの家に来たのも9月1日だった。しかもおっちゃんとぼくの誕生日は一緒だった。だから誕生日もクリスマスも大晦日も週末の小旅行も全て一緒だった。おっちゃんに哲学愛好会みたいなものに連れて行かれたことも覚えている。日本に戻ってからはほとんど連絡していない。少なくともここ3年はしていない。結婚したことも子供が生まれることも知らせてない。電話もメールもかんたんにできるのになぜしないのか自分でも不思議に思う。

2010年9月25日土曜日

「ナポリ」

1.

Hamburg, 2004/5/7/0:25
Berlin, 2004/5/8/18:47

Prague, 2004/6/20/17:03

Prague, 2004/6/22/1:29


Santorini, 2004/7/5/17:29

Delfi, 2004/7/7/22:05













































































































































2.

 6年以上前の旅行の記録をみていると、おびただしい量のひどい写真がでてきて驚いた。ひどい、というよりも、今では絶対に撮らないようなものを妙に大事にしていたらしい。いわゆる観光名所を正面から捉えた写真やら、世界各国の子供の写真、それになぜか水たまりの写真が大量に。

 いまこうして、記録を現時点で必要な記憶へ再編集しているが、この成果もあと数年たてばやはり「ひどい」ものとみなされ、逆に観光名所や子供の写真が名誉を回復するのかもしれない。記憶は更新され続けてよいのだと思う。

2010年9月24日金曜日

「叙事演劇とは何か」

1.

2003/10/12/20:56

2003/12/31/9:45
2004/1/20/21:46








































2.

 小学校高学年から中学生にかけて(1993~1997頃)、わたしはカセットテープレコーダーが好きだった。当時、大晦日にひとつの習慣をもっていた。一人で終わりゆく一年間を振り返り、声に出して録音するのである。だいたい20分くらい吹き込んだと記憶している。内容は、その年にあった重要な出来事について、そしていま好きな女の子について。なにを録音したのか細かいことは覚えていないが、後者が大半を占めたことは言うまでもない。

 数年にわたって続いたこの「自画像」は、誰に聞かせることもなく、数本のテープはいつのまにか紛失した。自分で捨てたのか親が捨てたのか知らない。

 上記2枚目の写真はひとりで撮ったものである。なぜセピアで撮影したのかわからない。そもそも7年前の大晦日にこんな自画像を残したことさえ忘れていた。9月1日にドイツに到着して、4ヶ月が経過したころである。

 大晦日は父方の祖父・林幸一(1921-2004)の誕生日だった。

2010年9月23日木曜日

「一方通行路」

1.

 2003年8月末の2週間、中国からドイツまで鉄道で旅行した。一年の日本留学を終えドイツに戻るドイツ人、アジア・ヨーロッパを旅したいベネズエラ人、イギリスに留学する日本人、10月からドイツ・デュッセルドルフ大学の交換留学生となる日本人のわたしの4人だった。北京、イルクーツク、モスクワでそれぞれ3~5泊した。数時間停車したウランバートルは、多少散歩した程度である。


2.

2003/8/15/16:47


2003/8/19/17:41

2003/8/21/20:25

2003/8/23/20:58

2003/8/23/21:29

2003/8/27/22:04


2010年9月22日水曜日

「チリの地震」(3)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(3

ヘロニモはひとびとのなかへ混じって行った、ひとびとはいたるところ、せわしなく私財を確保しつつ市門から飛び出していて、彼はおそるおそる、アステロン家の娘のことを、その死刑執行がなされたかどうかを訊ねた。しかし一人として詳細を聞かせる者はなかった。ある女が、うなじを地面につけるほどの恐ろしい量の食器を背負い、子供を二人胸にぶら下げながら、通りすがりに、まるで見て来たかのように言った、あの娘は首を刎ねられたよ、と。

ヘロニモは向きをかえた。時間を考えれば彼も刑の執行は疑えなかったので、あるひとけのない森に腰をおろすと、そこで苦痛に身をゆだねた。彼は自然の破壊力があらためてわが身に襲いかかってほしいと願った。彼自身がつかめなかった、なぜ自分は死を、苦悩に満ちた魂が探し求めていた死を、まさにそれが全方位から救いに来てくれたような瞬間に、みずから逃れてしまったのか。彼は、いまこの樫の木が根を失い、梢が倒れかかってきても一歩も動くまいと決意した。

さてその後、泣くだけ泣くと、熱い涙の中からふたたび希望が湧いてきたので、彼は立ち上がり、あらゆる方角に野原を歩きまわった。ひとが集まる山の頂はどれでも訪れ、避難の大河がなおうごく全ての道でひとびとに近づいた。女の服が風に揺れれば震える足で向かったが、どれ一つ愛するアステロン家の娘を包んでいなかった。

太陽が傾き、太陽とともに彼の希望も沈みかけたころ、ある岩のへりを歩いていくと、わずかなひとたちしかいない広い谷への視界が開けた。彼はどうするか決めかねたまま、ひとつひとつの集団のあいだを歩き抜け、ふたたび別の方向へ向かおうとしたまさにそのとき、谷を潤す湧水のそばに突然一人の女を目にした、女はせわしげに流れで子供のからだを洗っていた。彼の心はこの光景に躍りあがった。期待に満ちて岩を飛び降り、彼は叫んだ、ああ聖母さま、聖なるあなた! そしてそれがホセファであることを認めたのは、彼女が物音におそるおそる振り向いたときだった。いかなる幸福感とともに二人は抱き合ったことだろう、天の奇跡が救ってくれた、この不幸な二人は!

2010年9月21日火曜日

「我が体険記」(3)

上村義雄「我が体険記 トンネル工事のみ他」(3)

 店先に菓子が出始めた食べたくて食べたくて皆が食べた 東京と云ふ所は便で良すぎて働くには良いところでは無い 残すには山の中とか不便な所が良いと思ふ様になつた

其の次に名古屋の駅前郵便局工事へも行つたが親方が悪くてぴんはねが多くて飯代が高くてとても残らないので早目に引上げた

その後和平の手引で笹島建設湯河原作業所へ行つたのが笹島との付合のはじまりでした 35年秋から38年迄 そこが終つて現場関係者は全部香港へ行つてしまい仕事が無く清水トンネルの現場へ菅畑の斉藤良一君をたよつて行つた 41

一年で又笹島が日本へ来て九頭龍川の電発工事へぜひと言われて福井県へ秋と春 42年から 雪が深くて冬は仕事がストツプして 靜岡の日本坂工事東海道有料高速道路へ三年行つた最後の仕上工事もした

其の頃俺があんまり眞目目にやるので
上役の西川さんが気に入らずとなりの室で
酒を呑んでくだくだ云ふのでけんかしない内に止めた方良いと重役に話して俺が止める
つもりが重役が西川は翌日六甲現場へ飛ばしてしまつたけれど先ぱいなので俺が身を引いた方が良いと翌年は大坂の方の世話で 七八名で大坂東ゴムへ行つて働いた

2010年9月19日日曜日

「アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記」

1.

 この映画が示すのは、バッハは仕事をした、レオンハルトは仕事をした、ストローブ=ユイレは仕事をした、ということである。

 アンナ・マグダレーナの語りの中で、何人もの子供たちが死に、庇護者たちが死ぬ。しかし作中のバッハは絶望も苦悩もしない。ただ次々と音楽が完成し、演奏する。それは創造ではない。仕事である。抑えきれない内面を外へと表現するのではなく、機会に応じて提出する。空気は湿っていない。それは「わたし」の音楽ではない。バッハは「芸術家」ではなく、まして「アーティスト」ではない。彼は一つの仕事を続けた。強いて言うなら、彼は職人である。

 アンナ・マグダレーナもまた、年代記作者であって小説家ではない。彼女は記録し、説明しない。

 ストローブ=ユイレは死者を支配しようとしない。死者を感情で満たそうとせず、死者の死にゆく様を所有しようとしない。

 仕事としてしか達成されないものがあることを、この映画は示す。仕事の時間の中でしか見せられないもの、聴かせられない音があることを示す。それはたとえば窓からひろがる光であり、木々の葉のそよぎであり、バッハの音楽であり、レオンハルトの演奏であり、ストローブ=ユイレの映画である。


2.

写真:蓮沼昌宏





2010年9月18日土曜日

「セザンヌ」

1.

 山がある。言葉がある。山をみる。言葉をきく。山を描く。言葉を発する。それはどういうことか。

 セザンヌは、「あの中にはまだ火がある」という。色のなかに、音のなかに、火が存在し、炎を上げるものがなければいけない。山のなかに、言葉のなかに、火をみ、火をきくことができなければならない。



2.

フリードリヒ・ヘルダーリン「あたかも祝いの日に… 」

 あたかも祝いの日に、畑を見るため
農夫が出かけてゆく朝、
暑い夜からあたりを冷やす稲妻が一晩中落ちたあと、
今なお遠くに雷鳴が響き、
流れはふたたび岸にかえり、
いきいきと大地は緑して、
空からは喜びをもたらす雨が
葡萄にしたたり、静かな太陽に
輝きながら森の樹々が立つように、
あたかもそのように、一切が好意ある天候のうちにある、

 いかなる巨匠も一人で育てることのできないそれは、
奇跡のように遍在し、そっと包み込んでいる、
力ある、神々しい美しさの自然。
それゆえ一年の折々に、自然が
空のもと、草木の下、あるいは人々の間で
眠っているように思われるとき、詩人たちの顔は悲しむ、
詩人たちは独りを感じる、だが彼らは予感しつづける。
自然そのものもまた、予感しつつ安らうものだから。

 だが今こそ夜が明ける! わたしは待った、そして到来を目にした、
そしてわたしが目にしたもの、あの聖なるもの、それがわたしの言葉であれ。
なぜなら、もろもろの時代より古く、
西や東の神々のさらに上にあるもの、
すなわち自然が、いまや武具の音とともに目ざめたのだから、
エーテルの高みから深淵の底にいたるまで、
かつてと同じ不変の法に従って、聖なる混沌から生まれた
万物創造の熱狂は、
いまや新たな自分を感じる。

 そして人間が高貴なことを企てるとき、
その眼に一つの火が輝くように、
いまやあらたに、世界の諸々の徴、数々の行為において、
詩人たちの魂に一つの火がともされた。
そしてかつてあらわれはしたものの、ほとんど感じられなかったものが、
いまやようやく明らかとなり、
わたしたちのために微笑みながら畑を耕してくれた者たち、
しもべの姿をとっていた者たちが認識される、
生ある一切のもの、神々の諸力が認識される。

 君はその諸力のことを訊ねるのか? 歌にその精神は吹きかよう、
歌は、昼の太陽とあたたかい大地から、
また嵐の中から生いそだつ。だが大気の嵐とは別の嵐もある、
それは時の深みでより周到に準備されている、
その意味はより大きく、またわたしたちにとってより感知しやすいその嵐は、
天と地のあいだを駆け巡る、諸民族のあいだを駆け巡る。
万人に共通の精神から生まれる様々な思いは、
詩人の魂に静かにやどる、

 そうして急襲を受けると、すでに久しきにわたり無限なものを
知る詩人の魂は、記憶に
揺さぶられ、また聖なる稲妻に火をつけられて、
愛の果実を産み落とす、そのとき神々と人間の産物として
歌が生まれる、両者の証となるように。
それと同じようにして、詩人たちが言うように、神を
見ようと望んだセメレーの家には雷が落ち、
神に撃たれたその女は、
嵐の果実、聖なるバッカスを産み落とした。

 そしてそれゆえに、天上の火をいまや
大地の子らは危険なく飲む。
だがわたしたち詩人にふさわしいのは、神の嵐のもとに
こうべをさらして立ち、
父の稲妻そのものを自分の手で
つかみ、その天上の賜物を歌に
つつんで世の人々に差し出すこと。
なぜならば、わたしたちの心が清らかで
子供のように手に汚れがなければ、

 父の清らかな稲妻はそれを焼くことがないのだから、
そして心を深く揺さぶられ、より強き者の苦悩を
ともに苦悩しつつ、高まり寄せ来る嵐の中、
神が近づくときも、心は確乎としてあり続ける。
だが苦しい! もし

苦しい!



 たとえすぐにわたしが言おうとも、

天上の者たちを見る時は近いとわたしが言おうとも、
彼らが、彼ら自身がわたしを生ある者たちの中へと深く投げ入れる、
この偽りの司祭を、闇の中へと投げ入れる、そしてわたしは
ものわかりのよい者たちに警告の歌を歌うだろう。
そこで



3.

写真:蓮沼昌宏




























4.

写真:蓮沼昌宏

2010年9月17日金曜日

「和解せず」

1.

(DVD「和解せず」解説リーフレット抜粋)

 以下は1984年2月21日のベルリン映画祭コンペでの映画『階級関係』上映後の記者会見の一部である。原作となったカフカの小説『失踪者』では、主人公が平手打ちを受ける記述が出てくるが、客席から実際に平手打ちを受ける映像が見たかったという意見に対して、ストローブは怒りを込めて反論した。

 「もし映画作りでそこまでやってしまったら、つまり本当に平手打ちをしたなら、それが行きつく先はあのフランシス・コッポラという小悪党がヴェトナムについて作った映画みたいなものだ。この若者はヴェトナムについての映画を撮るために、フィリピンのどこかの場所へと出向いた。そこで彼は何をしたか? よく聞いているかね? 彼はナパーム弾で森を焼いたのだ。どうだね。…一本の映画には森一つの価値はない。つまり映画を撮るなら、カメラの前では森を焼かず人を本当には平手打ちせぬことだ。それはあり得ないことだ。同じく拷問を撮ることはできないし、撮ってはならない。シュピーゲル誌やパリ・マッチ誌には拷問写真が毎日載っているがね。そうではなく…、ジャン・ルーシュはある時ライオン狩りの映画を撮った。その時ライオンが襲ってきて、撮影に関わっていた者が負傷した。彼はそこで撮影を中止した。なぜならば、ライオンに襲われている人がいるときには撮影するものではないからだ。トラ狩りでもいいのだが。その時にはライオンを落ち着かせて遠ざけ、傷を負った者の介抱をしなくてはならない。その場で撮影などできない。そこが違いなのだ。」


2.

 ストローブ=ユイレは嫌悪するものと「和解」しない。しかし相手と同じ方法、同じ身振りで攻撃することもない。なぜならそれもまた一種の「和解」であり、そしてむしろその水準における「和解」こそ、なによりも嫌悪すべきことだからである。

 「和解せず Nicht versöhnt」。「和解 Versöhnung」とは「息子 Sohn」になることである。ストローブ=ユイレは嫌悪すべき対象の息子になることを拒否する。遺伝子を引き継ぐことを拒否し、環境によって同じように育てられることを拒否する。


3.

写真:蓮沼昌宏

2010年9月16日木曜日

「労働者たち、農民たち」

 2006年11月7日火曜日、アテネ・フランセ文化センターで「ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2006」がはじまった。前月10月9日月曜日にダニエル・ユイレは亡くなっていた。

 当時わたしはイェリネクの「雲。家。」というテクストを翻訳していた。短いが、大部分が引用からなるテクストで、言葉の分裂と統合の過程をからだに通していた。

 わたしは、朝早く起き、自宅で6~9時間ほど翻訳を続け、夕方になると都営三田線で水道橋へと向かい、ストローブ=ユイレの映画を1本か2本見て、家に帰って再び翻訳を進めた。毎日それを繰り返した。

 イェリネクのテクストの分裂と統合をからだに通すと、自分自身がばらばらになりそうになる。それを無理にまとめると不具合が起きる。ストローブ=ユイレの映画を見ることができ、また見ることが必要だったのは、むしろ「わたし」の解体が進むからだった。それらの映画は、「わたし」のリミッターを無視して「わたし」を解体してしまう。しかし逆にそのことによって、なにかが開かれ、リセットされ、またからだに言葉を通すことができるようになった。

 労働者たち、農民たちの時間。毎朝畑を見るように、また雪の降り方を、気温を、道の凍り具合をたしかめるように、「わたし」の時間ではない時間にしたがい、その一部となること。ストローブ=ユイレの映画の形式であり内容であり制作原理であるそうした時間との関係は、翻訳の時間と親和力をもつのだと思う。畑のようすを確認し、作物の育ち具合をみるように、言葉に付き合い、翻訳を進めようとこころがけている。

 労働者たち、農民たちの時間は厳しい。「わたし」は「わたし」の解体を望まない。しかし労働者たち、農民たちの時間の中で、見るべきものは見え、聴くべきものは聴こえてくる。言葉や光や風や影がそれそのものとして存在し、そしてだからこそ互いに出会うことができる。そうした時間を誰もが生きられること、それが彼らのいう「自由」であり「共産主義」なのだろう。

 「共産主義とは、まさに何一つとして断念しないことを学ぶことだ。何一つとして!」(ジャン=マリー・ストローブ)

写真:蓮沼昌宏

2010年9月15日水曜日

「チリの地震」(2)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(2

 ヘロニモ・ルヘラは、恐ろしくてからだが固まった。そして意識が砕かれたかのように、今度は柱にしがみついた、そこで死のうとしていた柱に、倒れないように。

大地が足下で揺れた、牢獄の壁が全て裂けた、建物が傾いた、通りのほうへと倒れた、そのゆっくりとした倒壊に、反対側の建物の倒壊が出会い、偶然のアーチをつくったため、完全な横倒しは防がれた。震え、髪を逆立て、ひざを震わせ、ヘロニモは斜めになった床を滑り下り、開口部へと向かった、二つの建物の衝突が牢獄の前壁に開けていた。

 彼が外に出るやいなや、すでに一度揺れを受けたこの通りは、大地の二度目の運動で、完全に地中へ落ちた。みなを巻き込むこの破滅からいかにわが身を救おうかと考えることもなく、彼は瓦礫と残骸を越えて急ぎ、その間にも死が全方位から攻撃を仕掛けたが、一番近い市門の一つへ向かった。家が崩れ、彼を追い立て、瓦礫を撒き散らし、脇道へと駆り立て、炎が漏れ出し、煙の中で光り、家屋から噴き出し、彼を恐怖させ、また別の道へと連れ込み、マポカ川が岸から溢れ、水が押し寄せ、うなりを上げ、彼を第三の道へと引きずり込んだ。死者が山をなし、瓦礫の下で声がうめき、燃える家から人々が叫び、人間と動物が波と戦い、勇敢な男が懸命な救助を行い、死のように蒼ざめた別の男は立ちつくし、言葉もなく、震える手を天に向かって伸ばしていた。ヘロニモは門に辿り着き、門を出た先の丘に登ると、その上で気絶し、沈んだ。

 彼は十五分ほど深く意識を失っていたかもしれない、ようやく目を覚まし、町に背を向けたまま、大地に上半身を起こした。自分の額や胸に手を触れてみても、なにがどうなっているのかわからなかった。言いようもない恍惚感に襲われたのは、西風が海から、戻ってきた彼の生に吹き寄せ、彼の目が、華やかなサンチャゴを見渡したときだった。心乱した人々の山だけが、いたるところに見られたが、彼の心に違和感を与えた。彼にはわからなかった、なにが自分と彼らをここへ連れて来たのか、そしてようやく振り向き、背後の町が沈んでいるのを目にしてはじめて、彼はみずからの体験した恐ろしい瞬間の数々を思い出したのである。

 彼は額が地面に触れるほど深くひざまずき、奇跡的に救われたことを神に感謝した。そしてあの恐ろしい印象が心に刻み込まれ、それ以前の全ての印象を追いやったかのように、彼は喜びに泣いた、多彩な出来事に溢れたこの愛すべき人生をこれからも楽しむことができるのだ、と思って。そのあと、指にはめた指輪を目にすると、彼は突然ホセファのことも思い出した。それとともに牢獄も、そこで聴いた鐘の音も、牢獄崩壊直前の瞬間のことも思い出した。深い憂いがふたたび彼の胸を満たした。彼はさきほど祈りを捧げたことを後悔しはじめ、雲の上で世を統べる存在が、恐ろしいように思われた。

2010年9月14日火曜日

「我が体険記」(2)

上村義雄「我が体険記 トンネル工事のみ他」(2)

春に成つ歸つて来た時親が喜んで借金全部なしたと言つて其の年十月三十日母はぽつくり行つてしまつた
せめて七十代位迄生きて居ればと思ふるが有る
  享年四十才昭和十七年十月三十日
其の時金三百円持つ来たと思ふ
往復一文も使わずに歸つてからスキ位は
買つてもらいるか?・・・ 思つて居たが

     昭和十七年12月
其の后冬施設士として東京の羽田の穴守に
行つたが日給九五銭也の給料でがまんならず歸つて来て今度遊んでいられず新潟の港仲士に行つた金には成るが二ヶ月でやめてくる
其れからは河仕事 山師の木出し等荒仕事をこなして翌年横浜ゴムへ行つてスポンジ製作をして居たが其の后出稼は止めて当時は毎年川が荒れて堤防工事等が多かつた

当時は男手は皆兵隊へ行つて男手が足りずどうにもならない時代でした
都会は空襲で皆田舎へ帰つてくる 戰死者ばかりふいて栃堀だけで約六十名位死んだ
 其れでついに戰争は負けた
  其れで良かつた 日本が勝つたら大変だつた

その頃は皆田舎に集つて炭焼き全盛時代に入つた栃堀で窯が百七十位立つて出稼も無く
昭和二十七年始めて東京へ出稼へ行つた

2010年9月12日日曜日

「ピストルズ」

 母方の祖母・上村美栄(1923-)は四姉妹の長女として生まれ、のちに母として四姉妹を産んだ。

 彼女が産んだ四姉妹は、五人の男、五人の女、十人の孫を産んだ。

2010年9月11日土曜日

「グランド・フィナーレ」

 2008年11月、母方の祖父が倒れた時、医者は手術をすればあと半年から1年はもつと言ったそうです。意識が戻るかどうかは保証できないが、とつけくわえたとのことですが。

 祖母の判断で、祖父はそのまま死にました。2008年11月18日火曜日の午前中です。

 この祖母は若いころ、東京・北千住に家族で住んでいました。1945年3月9日金曜日に新潟に戻ってきたため、10日土曜日の大空襲をまぬがれました。1923年生まれの彼女がいうには、空襲というのは「花火よりもずっときれい、本当にきれい」なものだったそうです。新潟県栃尾市で終戦を迎えたとき、玉音放送は「言葉が悪くて」ほとんど意味がわからなかったそうです。

2010年9月10日金曜日

「ミステリアスセッティング」

 母方の祖父・上村義雄(1927-2008)は、よく金の話をした。

 「村長が月に68円もらったころ、俺は14歳で月に60円稼いだ」とか、「昭和40年頃は銀行に100万預けておくと一年で110万にも120万にもなった」とか、「平成12年のお寺の改修のときは俺も100万寄付した」といったように、(わたしの記憶は曖昧だが)いつも正確な日付と金額を口にした。

 金の話をすることは、つねに「はしたないこと」だったのだろうか。金が、メディアとして、あるひとの生を、シンプルに、からっと物語ることも、あるのではないか。自慢にもならず、湿度の高い欲望も示唆せず、善でも悪でもないありかたを示すことも、あるのではなかろうか。彼は自然に、しかし堂々と、金の話をした。

 一方で、商店を営むわたしの実家には、つねにほかの家よりも多くの現金があり、わたしも日々たくさんの硬貨や一万円札の束を目にしていたが、商店主であった父方の祖父・林幸一(1921-2004)は、わたしの前では決して金の話をしなかった。

2010年9月9日木曜日

「インディヴィジュアル・プロジェクション」

 物語を読んだ読者が、その物語に対して「個人的な投影」をすることができる、ということと、「個人的な投影」が物語となって読者に提供されている、ということ。これら二つの事態は、決定的に異なります。

 たんなる「事実」と、すでに説明をつけられた「情報」のあいだにも、似たような違いがあるでしょう。「事実」からは自分にとっての個人的な「教訓」を引き出すことが可能ですが、「情報」は一つの社会的・政治的・心理学的「解釈」を提供してくるものです。

 (最初の意味での)「物語」や「事実」における「プロジェクション」は、ただ一方向的なものではありません。

 2007年の春だったと思います。わたしはヴァルター・ベンヤミンの著作(「一方通行路」か「ベルリンの幼年時代」のどちらか)のなかで、切手の話を読みました。切手が好きだ、というとてもいい文章です。

 すると、子供のころ、実家の店番をしていたときに、まだ手つかずの切手シートを半透明のプラスチックの袋から抜き取ったときの感触や、整然と並んだ切手の表面を手で触れたときの質感などが、鮮やかに強烈によみがえってきたのです。それはとても身体的で感覚的で具体的な経験でした。

 ところが、そのあとよく考えると、わたしは子供のころ、そんな体験などしていなかったのです。どう考えても、その時点までのわたしには、「わたしは子供のころ手つかずの切手シートが好きだった」という記憶はなかったのです。

 これは、わたしがわたしの記憶をベンヤミンの文章に「個人的に投影」すると同時に、ベンヤミンの文章もわたしの記憶の中に「個人的に投影」された結果、両者が混ざり合い、「記憶」があらたにつくられた、ということなのではないかと思います。

 すぐれた芸術作品は、つねにこのように「インタープロジェクティブ」なのではないでしょうか。

2010年9月8日水曜日

「チリの地震」(1)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」

 チリ王国の首都サンチャゴで、1647年に大地震がおきたとき、幾千の人間が死んだなか、ある罪に問われていたスペイン人の若者、ヘロニモ・ルヘラは、牢獄の柱のそばに立ち、収監されていたが、首を吊ろうとしていた。

ドン・エンリコ・アステロン、この町有数の富裕な貴族は、1年ほど前、彼を家から、家庭教師として雇っていたのを、追い出したのは、彼がドニャ・ホセファ、一人娘と、親密な関係になったからだった。密告が、この年老いたドンに、娘にしつこく言ったのに、性悪息子の悪意でなされ、ドンは怒って、娘は山中のカルメル派修道院に入れた。幸運な偶然でヘロニモは、ここでも連絡をとることに成功し、静まり返ったある夜、修道院の庭を幸福の舞台としたのである。

 聖体祭の日、修道女、続いて修練女の厳かな行列がはじまると、不幸なホセファは、鐘が響くなか、教会の階段で陣痛をおこして倒れた。この事件は異常な注目を集めた。若い罪びとは健康状態もかまわず牢獄へ入れられ、お産がすむと、大司教の命で、苛烈な裁判にかけられた。町の者は憤然としてこのスキャンダルを語り、舌鋒は修道院に向けられたため、事件の現場であったので、アステロン家のとりなしも、女子修道院長自らの願いでさえも、普段は立派な娘を好んでいたが、修道院の掟の厳格さをやわらげることはできなかった。なんとか、火焙りが、宣告されていたが、サンチャゴの婦人と乙女を憤激させることになる、副王の独断で、斬首刑に変更された。

 ひとびとは賃料をとって、引き回しの行列が通る道では、窓を貸し出し、家々の屋根を取り払い、町の敬虔な乙女たちは友人を招き、神の復讐に捧げられたこの演劇を、なかよしと一緒に見ようと思うのだった。

 ヘロニモは、この間同様に収監され、正気を失いそうになったのは、事態の展開を知ったときである。救出案を練っても無駄だった。思考の翼はつねに閂と門にぶつかり、鉄格子を切ろうとするが発見され、さらに狭い房へ入れられた。彼は聖母マリアの肖像画の前にひざまずき、ひたすら熱心に祈った、今なお救いを求めうる、唯一の相手と思って。

 しかし恐れていた日になり、胸中、彼は望みが断たれたことを確信した。鐘が、刑場へ向かうホセファに連れ添い、鳴り響き、絶望が彼の魂を支配した。人生が厭わしく、彼は一本の縄で、偶然が残したものだが、自殺しようと決心した。まさに彼が、すでに述べたように、壁面の柱のそばに立ち、縄を固定した、嘆きの現世から連れ去ってくれるはずだった、かすがいに、蛇腹に嵌め込まれた、そのときだった。突然この町のほとんどが、空が落ちたかのような轟音とともに沈み込み、生ある全ては、瓦礫の下に埋まってしまったのである。

2010年9月7日火曜日

「我が体険記」(1)

 以下に、母方の祖父・上村義雄(1927.2.2-2008.11.18)が2007年に書き遺した「我が体険記」を公開する。


上村義雄「我が体険記 トンネル工事のみ他」

はじめに

平成十九年一月二十五日満八十才を迎いるに当り前に記した事が有つた筈が見当たらないので思いつくままに記して見ようかと始める

 昭和二年二月一日昔は本当の正月元旦
 父の貯金会仲間の苦労して教員と成つた
 島元治郎先生が若い頃から我が仲間は毎月
 一日が例会日で虫がやめると言ふのを聞いて歸つた事を覚いて居たがお前だつたか?とよく云われたものでした。その先生も二、三十年前に彼の世に行つて他に知る人は無いが?
 其の当時我が生家は栃堀一の金も土地も持つた資産家で有つたと人に云われるが。

 どこで風が変つたか子供はわからないが
 昔の子供は一般はつぐらに入れられて
 うごきの取れない様にしておくのがふつでした。
しかし私はそんな事はなくたん生には呆れるほど早く歩きだしたと聞かされて居る
其れで昭和四年四月半ば分家に出てから
 生活は一変したらしい
そのことは今は言わない方が良いだらう

 小学校三年生位から弟と二人で畑や田んぼに出て家の仕事を手傳つた事は良くおぼえて居る 今の子供は老えられないだらうが
一番きらいな事はお祭等だつた
  他の子供は一銭か二銭小遣もらつて
(するめ)の足等買つて食べて居るのを
見て居るのがいやだつた 村一番の家に生れて人並に出来ないあわれさ
 そのくやしさが子供心に焼きついて
 今にみろ俺だつて?・・・

 それが実際に出て来たのが昭和十六年の十二月世界戰争に突入してから
 一月五日從兄の酒井謙一郎が兵隊に行つた日に始まつた体の弱い兄が修行に行と云ふので駅でお前も行けばよいだらうと叔母さんが云つた事から始まつた
子供で駄目。と云われて居たのに生いきに
北海道でも満州でも人のすることならなんでもすると言つたもんだ。それから話が始まつて歸り天理教会へ親が寄り此の子もつれて行つてもらいないか?・・

其の時代人の手は足らなくてどうもならない時代勤労報国隊員として炭鉱へ報国隊?・・一月八日新潟県ちやうで結団式をやりすぐ汽車に乗り青森まで眞すぐ夜は連絡船は出ず夜明に函館に上陸して三日がかりで大夕張へ着いた
栃堀の猿渡りの様ながけを電車で行き
大夕張についた翌日登録するに十五じゃなあ?と云われて駄目で募集員が良し年を三つごまかせと云われて十八にして入鉱することになつた
とにかく見ればわかるけどそれほと人間が足りない時代でした半分以上が朝鮮人で
内地人と仲が悪くてけんかが毎日でした初めは
こわかつたけど毎日になれば又始まつたと。なれてしまつた
其れて何とかつとめて給料もらつた
名前は勤労報国隊だけれど一般作業員と全然変わらない様でした

二ヶ月勤めた訳で八十人行つて最後に残つた人は五十人満勤したのが僕と魚沼の田村さん二人だけ途中で妻キトク。親病気の電報が良く来たもんだキトク電報もらつて喜んでにこにこして歸る姿を見て子供の俺が見てもニセ電報位はわかつた
 人間つまると本性が出て人間あつかいぢやないとか文句ばかり最後はキトク電報で喜んで歸るそれが人間だと思つた
家では大半は天理教の先生と言われて居る人が。今はあまり言わないが悪い事ばかり言ふ
人間の眞の姿はつまつてこないとわからない

2010年9月5日日曜日

「変な音」

 郷里の風習で、火葬の日まで死者には寝ずの番がつき、夜明けまでろうそくの火を絶やしません。

 2008年11月に母方の祖父が亡くなったとき、わたしも一夜、なきがらの枕もとに座りました。死体の冷たさというのはたいへん独特なものですね。死んだ祖父のひたいや、ほおや、ひげの残ったあごをさわると、「これもいいな」と自然に思われるのでした。

 妙な音がすると思ったら、祖母のいびきでした。わたしの目の前には死んだ祖父が横たわり、右では祖母が生きて眠っていたのです。その小さなからだをどう使ったらそんな音がでるのかと思うほど、祖母はごうごうといびきを立てはじめました。

 わたしは、60年連れ添うとはこういうことか、と思いました。「失意」とか「悲嘆」とか「哀惜」とか、そんなものとは無縁に、となりで夫が死んでいるのにいびきを立ててぐっすり眠る。そこにはなんとなく真実があるような気がしました。うすっぺらな「感情」ではなく、「生活」と「時間」が感じられました。巨大ないびきが、なにかを徹底的にぶち壊す音に聴こえました。

 真夜中、祖母が急に目を覚まし、わたしたちは死んだ祖父の目の前で、夜が明けるまで死んだ祖父の話をしました。そしてたくさん笑いました。

2010年9月4日土曜日

「坑夫」

 母方の祖父・上村義雄(1927-2008)は坑夫だった。

 14歳で北海道の炭坑に出て以来、戦争があれば朝鮮人労働者とともに石炭を掘り、オリンピックがくれば東海道新幹線のトンネルを掘り、田中角栄が権勢を誇れば上越新幹線のトンネルを掘った。場所も目的もさまざまな穴を、日本中で掘った。

 彼は最後に自分の穴を掘った。2004年の秋、自宅の裏に自分と妻が入るべき穴を掘り、墓を建てた。墓は二人の寝床の窓から見える。彼らは毎日自分たちの墓を眺め、花を供えた。

 昭和2年2月2日水曜日に生まれた上村義雄は2008年11月18日火曜日に81歳で病院で死んだ。大正12年10月12日金曜日に生まれた妻・美栄は2010年10月12日火曜日で87歳になる。

2010年9月3日金曜日

「こころ」

 1998年の冬、横山先生が亡くなり、高校1年のわたしは初めてお葬式に参列しました。横山先生は中学の社会の先生でした。

 とても尊敬していましたが泣きませんでした。棺の中を覗いても現実感が薄かったのです。

 2001年9月11日火曜日の夜、テレビをもたなかったわたしはラジオでアメリカの様子を知りました。翌朝、コンビニで新聞を買って写真を眺め、大学の休憩室のテレビで映像を見ましたが、何の衝撃も受けませんでした。むしろラジオで聞いた時よりも出来事が遠ざかっていくのを感じました。

 この写真が、この映像がなんだというのか。注釈と文脈にしたがって現実と映画を区別し、驚愕したり楽しんだりしろというのか。そんなふうに感じたのです。

 その後、この話をしたらある人にたいへん怒られました。怒られるような問題ではないと思ったので反論しましたが、理解してもらえなかったのは残念なことです。

2010年9月2日木曜日

「門」

 新潟県栃尾市天下島2−1−12でいまも営まれる「ミニスーパー・ハヤシヤ」は、正式名称を「林屋商店」という。「むかしのコンビニ」ふうの店である。煙草増税と「タスポ」導入に打撃を受ける一方、自動ドアのセンサーが不調で、客が入ろうとしても入口が開かないことがある。

 創業者であるわたしの祖父・林幸一は、わたしがドイツに留学していた2004年4月28日水曜日に亡くなった。野球が好きで、銀行のタッチパネル式ATMを死ぬまで触らなかった。わたしが小学6年の頃、「中学校で英語を勉強したらテレビで一緒にオリンピックを見てくれ」と言われ、意味不明だったことを覚えている。

 この地区が「天下島(あまがしま)」と呼ばれる由来をわたしは知らない。川と山に挟まれ「島」状をなすのは、隣の地区も同様である。「天の下の島」と呼ぶにふさわしいほどの輝かしい歴史は特にないと思う。

2010年9月1日水曜日

「それから」

2010年8月31日火曜日の外務省専門職員採用試験不合格を記念してこのブログを始めます。