当時わたしはイェリネクの「雲。家。」というテクストを翻訳していた。短いが、大部分が引用からなるテクストで、言葉の分裂と統合の過程をからだに通していた。
わたしは、朝早く起き、自宅で6~9時間ほど翻訳を続け、夕方になると都営三田線で水道橋へと向かい、ストローブ=ユイレの映画を1本か2本見て、家に帰って再び翻訳を進めた。毎日それを繰り返した。
イェリネクのテクストの分裂と統合をからだに通すと、自分自身がばらばらになりそうになる。それを無理にまとめると不具合が起きる。ストローブ=ユイレの映画を見ることができ、また見ることが必要だったのは、むしろ「わたし」の解体が進むからだった。それらの映画は、「わたし」のリミッターを無視して「わたし」を解体してしまう。しかし逆にそのことによって、なにかが開かれ、リセットされ、またからだに言葉を通すことができるようになった。
労働者たち、農民たちの時間。毎朝畑を見るように、また雪の降り方を、気温を、道の凍り具合をたしかめるように、「わたし」の時間ではない時間にしたがい、その一部となること。ストローブ=ユイレの映画の形式であり内容であり制作原理であるそうした時間との関係は、翻訳の時間と親和力をもつのだと思う。畑のようすを確認し、作物の育ち具合をみるように、言葉に付き合い、翻訳を進めようとこころがけている。
労働者たち、農民たちの時間は厳しい。「わたし」は「わたし」の解体を望まない。しかし労働者たち、農民たちの時間の中で、見るべきものは見え、聴くべきものは聴こえてくる。言葉や光や風や影がそれそのものとして存在し、そしてだからこそ互いに出会うことができる。そうした時間を誰もが生きられること、それが彼らのいう「自由」であり「共産主義」なのだろう。
「共産主義とは、まさに何一つとして断念しないことを学ぶことだ。何一つとして!」(ジャン=マリー・ストローブ)
写真:蓮沼昌宏 |
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