物語を読んだ読者が、その物語に対して「個人的な投影」をすることができる、ということと、「個人的な投影」が物語となって読者に提供されている、ということ。これら二つの事態は、決定的に異なります。
たんなる「事実」と、すでに説明をつけられた「情報」のあいだにも、似たような違いがあるでしょう。「事実」からは自分にとっての個人的な「教訓」を引き出すことが可能ですが、「情報」は一つの社会的・政治的・心理学的「解釈」を提供してくるものです。
(最初の意味での)「物語」や「事実」における「プロジェクション」は、ただ一方向的なものではありません。
2007年の春だったと思います。わたしはヴァルター・ベンヤミンの著作(「一方通行路」か「ベルリンの幼年時代」のどちらか)のなかで、切手の話を読みました。切手が好きだ、というとてもいい文章です。
すると、子供のころ、実家の店番をしていたときに、まだ手つかずの切手シートを半透明のプラスチックの袋から抜き取ったときの感触や、整然と並んだ切手の表面を手で触れたときの質感などが、鮮やかに強烈によみがえってきたのです。それはとても身体的で感覚的で具体的な経験でした。
ところが、そのあとよく考えると、わたしは子供のころ、そんな体験などしていなかったのです。どう考えても、その時点までのわたしには、「わたしは子供のころ手つかずの切手シートが好きだった」という記憶はなかったのです。
これは、わたしがわたしの記憶をベンヤミンの文章に「個人的に投影」すると同時に、ベンヤミンの文章もわたしの記憶の中に「個人的に投影」された結果、両者が混ざり合い、「記憶」があらたにつくられた、ということなのではないかと思います。
すぐれた芸術作品は、つねにこのように「インタープロジェクティブ」なのではないでしょうか。
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