上村義雄「我が体険記 トンネル工事のみ他」(2)
春に成つ歸つて来た時親が喜んで借金全部なしたと言つて其の年十月三十日母はぽつくり行つてしまつた
せめて七十代位迄生きて居ればと思ふるが有る
享年四十才昭和十七年十月三十日
其の時金三百円持つ来たと思ふ
往復一文も使わずに歸つてからスキ位は
買つてもらいるか?・・・ 思つて居たが
昭和十七年12月
其の后冬施設士として東京の羽田の穴守に
行つたが日給九五銭也の給料でがまんならず歸つて来て今度遊んでいられず新潟の港仲士に行つた金には成るが二ヶ月でやめてくる
其れからは河仕事 山師の木出し等荒仕事をこなして翌年横浜ゴムへ行つてスポンジ製作をして居たが其の后出稼は止めて当時は毎年川が荒れて堤防工事等が多かつた
当時は男手は皆兵隊へ行つて男手が足りずどうにもならない時代でした
都会は空襲で皆田舎へ帰つてくる 戰死者ばかりふいて栃堀だけで約六十名位死んだ
其れでついに戰争は負けた
其れで良かつた 日本が勝つたら大変だつた
その頃は皆田舎に集つて炭焼き全盛時代に入つた栃堀で窯が百七十位立つて出稼も無く
昭和二十七年始めて東京へ出稼へ行つた
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