山がある。言葉がある。山をみる。言葉をきく。山を描く。言葉を発する。それはどういうことか。
セザンヌは、「あの中にはまだ火がある」という。色のなかに、音のなかに、火が存在し、炎を上げるものがなければいけない。山のなかに、言葉のなかに、火をみ、火をきくことができなければならない。
2.
フリードリヒ・ヘルダーリン「あたかも祝いの日に… 」
あたかも祝いの日に、畑を見るため
農夫が出かけてゆく朝、
暑い夜からあたりを冷やす稲妻が一晩中落ちたあと、
今なお遠くに雷鳴が響き、
流れはふたたび岸にかえり、
いきいきと大地は緑して、
空からは喜びをもたらす雨が
葡萄にしたたり、静かな太陽に
輝きながら森の樹々が立つように、
あたかもそのように、一切が好意ある天候のうちにある、
いかなる巨匠も一人で育てることのできないそれは、
奇跡のように遍在し、そっと包み込んでいる、
力ある、神々しい美しさの自然。
それゆえ一年の折々に、自然が
空のもと、草木の下、あるいは人々の間で
眠っているように思われるとき、詩人たちの顔は悲しむ、
詩人たちは独りを感じる、だが彼らは予感しつづける。
自然そのものもまた、予感しつつ安らうものだから。
だが今こそ夜が明ける! わたしは待った、そして到来を目にした、
そしてわたしが目にしたもの、あの聖なるもの、それがわたしの言葉であれ。
なぜなら、もろもろの時代より古く、
西や東の神々のさらに上にあるもの、
すなわち自然が、いまや武具の音とともに目ざめたのだから、
エーテルの高みから深淵の底にいたるまで、
かつてと同じ不変の法に従って、聖なる混沌から生まれた
万物創造の熱狂は、
いまや新たな自分を感じる。
そして人間が高貴なことを企てるとき、
その眼に一つの火が輝くように、
いまやあらたに、世界の諸々の徴、数々の行為において、
詩人たちの魂に一つの火がともされた。
そしてかつてあらわれはしたものの、ほとんど感じられなかったものが、
いまやようやく明らかとなり、
わたしたちのために微笑みながら畑を耕してくれた者たち、
しもべの姿をとっていた者たちが認識される、
生ある一切のもの、神々の諸力が認識される。
君はその諸力のことを訊ねるのか? 歌にその精神は吹きかよう、
歌は、昼の太陽とあたたかい大地から、
また嵐の中から生いそだつ。だが大気の嵐とは別の嵐もある、
それは時の深みでより周到に準備されている、
その意味はより大きく、またわたしたちにとってより感知しやすいその嵐は、
天と地のあいだを駆け巡る、諸民族のあいだを駆け巡る。
万人に共通の精神から生まれる様々な思いは、
詩人の魂に静かにやどる、
そうして急襲を受けると、すでに久しきにわたり無限なものを
知る詩人の魂は、記憶に
揺さぶられ、また聖なる稲妻に火をつけられて、
愛の果実を産み落とす、そのとき神々と人間の産物として
歌が生まれる、両者の証となるように。
それと同じようにして、詩人たちが言うように、神を
見ようと望んだセメレーの家には雷が落ち、
神に撃たれたその女は、
嵐の果実、聖なるバッカスを産み落とした。
そしてそれゆえに、天上の火をいまや
大地の子らは危険なく飲む。
だがわたしたち詩人にふさわしいのは、神の嵐のもとに
こうべをさらして立ち、
父の稲妻そのものを自分の手で
つかみ、その天上の賜物を歌に
つつんで世の人々に差し出すこと。
なぜならば、わたしたちの心が清らかで
子供のように手に汚れがなければ、
父の清らかな稲妻はそれを焼くことがないのだから、
そして心を深く揺さぶられ、より強き者の苦悩を
ともに苦悩しつつ、高まり寄せ来る嵐の中、
神が近づくときも、心は確乎としてあり続ける。
だが苦しい! もし
苦しい!
たとえすぐにわたしが言おうとも、
天上の者たちを見る時は近いとわたしが言おうとも、
彼らが、彼ら自身がわたしを生ある者たちの中へと深く投げ入れる、
この偽りの司祭を、闇の中へと投げ入れる、そしてわたしは
ものわかりのよい者たちに警告の歌を歌うだろう。
そこで
3.
写真:蓮沼昌宏 |
4.
写真:蓮沼昌宏 |
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