2010年9月26日日曜日

「ベルリンの幼年時代」

1.

Düsseldorf, 2004/4/16/21:58

Düsseldorf, 2004/4/16/22:29
Düsseldorf, 2004/4/20/4:06




















































































































2.

 一年間の留学期間のうち、一番いろいろなことがつらかった時期の写真は一枚も残っていない。2003年9月と11月である。残った写真でわりとまともなものは、木と水と空ばかりだった。ひとの写真はそれほど多くなく、自分が写った写真は一年間で5枚もなかった。家や様々な国籍の同居人や友人たちや大学の写真もほとんどない。あってもなぜかぼけている。デュッセルドルフは空気が乾燥していてくせ毛が妙にさらっとしたのを覚えている。一年間快適だった。朝夕、大きな窓の重い鎧戸を開け閉めした感触を覚えている。台所に小さなテレビがあり、テニスとビリヤードをよくみていた。フェデラーが好きになった。ドイツに着いた晩に日本の歴史のことを細かく聞かれて困った。スペイン人の女の子の話すときの距離があまりに近くて嫌だった。一時期小さな映画館によく行った。一度大雨が降って地下室が水浸しになった。当時お世話になっていた人たちには全然連絡していない。同居人の一人は年金生活の元オルガン奏者だった。オルガンの歴史や仕組みを細かく講義してもらったが全て忘れた。フセインが地下に隠れていて発見されたニュースをトルコ在住のクルド人と一緒に見ていて、彼はものすごく興奮していたが、当時はその意味がわからなかった。同じ時期にトルコ人の女の子も家にいて、彼は自分がクルド人であることをその女の子には絶対言うなと口止めした。香港で宝石商をやっているジャッキーとは数ヶ月一緒に暮らした。彼はゲイで、医者をしている恋人サイモンが遊びにきた。二人とも親切だった。イタリア人で一緒に住んでいたのはニコロとアルベルト。性格は正反対だったが二人とも日本人の女の子が大好きだった。ホテルマンのニコロに日本食をつくってあげたら喜んだ。一番感動していたのはなぜか「ゆかりごはん」だった。大家のおばちゃんは煙草の臭いを嫌悪し、ハインリヒ・ハイネを愛読し、毎日数限りない皮肉っぽい冗談を飛ばしていた。生きていれば75歳くらいだろう。たぶん生きていると思う。ベルギーのドイツ語圏出身だった。大家のおっちゃんは親切さと気難しさの同居した教養あふれる変人だった。ゲーテの命日にはゲーテ博物館の講演会に連れて行ってくれた。カンディンスキーを一緒にみにいったことも覚えている。内容は全部忘れた。イギリス人のジョナサンのことはとても好きだった。彼は日本人の女の子に惚れていたが、全然うまくいかなかった。彼にはベトナム人の女の子の友達がいて、一度会ったがとてもすてきな人だった。ベトナム戦争のとき家族で移住したのだと言った。ドイツに着いたときの同居人だったフランス人のアドリーンは結婚してメキシコに行った。相手はフォルクスワーゲンで働くメキシコ人だった。メキシコの大学でカント哲学を教えているホアン・カルロスとは日本でも何度かスカイプで話したがそれきりだ。アメリカの哲学教授も2ヶ月くらい家に住んだ。50歳くらいだったがドイツ語はひどかった。それでも宗教や哲学関係の言葉をたくさん知っていて感心した。最初の同居人の一人だったロシアの女性の名前は忘れた。台湾の男の子の名前も忘れた。日本人の女の子が住んでいた時期もあったような気がするが、なぜか思い出せない。秋くらいからはほとんど毎日大家のおっちゃん、おばちゃんと夕方1時間くらい散歩をした。家の隣が公園だった。歯の矯正中だった感じのいい近所の女の子や、元小学校の校長先生で体調を崩して乳製品が食べられなくなった女性、犬たち、公園に2か所ある坂道、真ん中の池を覚えている。おっちゃんとおばちゃんは植物の育ち具合、草の伸び具合、池に集まる鴨や白鳥の数にいつも注意していた。数年前に死んだ犬の話をよくした。彼らは息子も亡くしていた。息子は9月1日生まれで、ぼくが彼らの家に来たのも9月1日だった。しかもおっちゃんとぼくの誕生日は一緒だった。だから誕生日もクリスマスも大晦日も週末の小旅行も全て一緒だった。おっちゃんに哲学愛好会みたいなものに連れて行かれたことも覚えている。日本に戻ってからはほとんど連絡していない。少なくともここ3年はしていない。結婚したことも子供が生まれることも知らせてない。電話もメールもかんたんにできるのになぜしないのか自分でも不思議に思う。

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