この映画が示すのは、バッハは仕事をした、レオンハルトは仕事をした、ストローブ=ユイレは仕事をした、ということである。
アンナ・マグダレーナの語りの中で、何人もの子供たちが死に、庇護者たちが死ぬ。しかし作中のバッハは絶望も苦悩もしない。ただ次々と音楽が完成し、演奏する。それは創造ではない。仕事である。抑えきれない内面を外へと表現するのではなく、機会に応じて提出する。空気は湿っていない。それは「わたし」の音楽ではない。バッハは「芸術家」ではなく、まして「アーティスト」ではない。彼は一つの仕事を続けた。強いて言うなら、彼は職人である。
アンナ・マグダレーナもまた、年代記作者であって小説家ではない。彼女は記録し、説明しない。
ストローブ=ユイレは死者を支配しようとしない。死者を感情で満たそうとせず、死者の死にゆく様を所有しようとしない。
仕事としてしか達成されないものがあることを、この映画は示す。仕事の時間の中でしか見せられないもの、聴かせられない音があることを示す。それはたとえば窓からひろがる光であり、木々の葉のそよぎであり、バッハの音楽であり、レオンハルトの演奏であり、ストローブ=ユイレの映画である。
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