上村義雄「我が体険記 トンネル工事のみ他」
はじめに
平成十九年一月二十五日満八十才を迎いるに当り前に記した事が有つた筈が見当たらないので思いつくままに記して見ようかと始める
昭和二年二月一日昔は本当の正月元旦
父の貯金会仲間の苦労して教員と成つた
島元治郎先生が若い頃から我が仲間は毎月
一日が例会日で虫がやめると言ふのを聞いて歸つた事を覚いて居たがお前だつたか?とよく云われたものでした。その先生も二、三十年前に彼の世に行つて他に知る人は無いが?
其の当時我が生家は栃堀一の金も土地も持つた資産家で有つたと人に云われるが。
どこで風が変つたか子供はわからないが
昔の子供は一般はつぐらに入れられて
うごきの取れない様にしておくのがふつでした。
しかし私はそんな事はなくたん生には呆れるほど早く歩きだしたと聞かされて居る
其れで昭和四年四月半ば分家に出てから
生活は一変したらしい
そのことは今は言わない方が良いだらう
小学校三年生位から弟と二人で畑や田んぼに出て家の仕事を手傳つた事は良くおぼえて居る 今の子供は老えられないだらうが
一番きらいな事はお祭等だつた
他の子供は一銭か二銭小遣もらつて
(するめ)の足等買つて食べて居るのを
見て居るのがいやだつた 村一番の家に生れて人並に出来ないあわれさ
そのくやしさが子供心に焼きついて
今にみろ俺だつて?・・・
それが実際に出て来たのが昭和十六年の十二月世界戰争に突入してから
一月五日從兄の酒井謙一郎が兵隊に行つた日に始まつた体の弱い兄が修行に行と云ふので駅でお前も行けばよいだらうと叔母さんが云つた事から始まつた
子供で駄目。と云われて居たのに生いきに
北海道でも満州でも人のすることならなんでもすると言つたもんだ。それから話が始まつて歸り天理教会へ親が寄り此の子もつれて行つてもらいないか?・・
其の時代人の手は足らなくてどうもならない時代勤労報国隊員として炭鉱へ報国隊?・・一月八日新潟県ちやうで結団式をやりすぐ汽車に乗り青森まで眞すぐ夜は連絡船は出ず夜明に函館に上陸して三日がかりで大夕張へ着いた
栃堀の猿渡りの様ながけを電車で行き
大夕張についた翌日登録するに十五じゃなあ?と云われて駄目で募集員が良し年を三つごまかせと云われて十八にして入鉱することになつた
とにかく見ればわかるけどそれほと人間が足りない時代でした半分以上が朝鮮人で
内地人と仲が悪くてけんかが毎日でした初めは
こわかつたけど毎日になれば又始まつたと。なれてしまつた
其れて何とかつとめて給料もらつた
名前は勤労報国隊だけれど一般作業員と全然変わらない様でした
二ヶ月勤めた訳で八十人行つて最後に残つた人は五十人満勤したのが僕と魚沼の田村さん二人だけ途中で妻キトク。親病気の電報が良く来たもんだキトク電報もらつて喜んでにこにこして歸る姿を見て子供の俺が見てもニセ電報位はわかつた
人間つまると本性が出て人間あつかいぢやないとか文句ばかり最後はキトク電報で喜んで歸るそれが人間だと思つた
家では大半は天理教の先生と言われて居る人が。今はあまり言わないが悪い事ばかり言ふ
人間の眞の姿はつまつてこないとわからない
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