2011年2月18日金曜日

何を共有できるか

以下、「くそ勉強」ブログより転載です。

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 いま、『シェア』という本をたいへん面白く読んでいます。

 ここ数年、世界中でさまざまな物・場所・人・技術を「シェア」する取り組みが起こっているそうです。いらなくなった服の交換、自動車や自転車の共有、工具を揃えた作業スペースの共有など、具体的な事例が本の中で無数に報告されています。わたし自身に身近なところで言えば、ツイッターも情報のシェアとして捉えることができるし、このブログのコンセプトも意見交換を小さな輪で閉じるのではなく、より広く「シェア」することでアイディアを発展させていこうというものでした。

 21世紀になって人類が飛躍的に善良になったということは考えられません。たしかに環境問題や食の安全に対する関心は高まっていて、それが「信頼できる範囲でのシェア」を促している面はあると思いますが、おもに「シェア」を支えているのは思想ではなく技術でしょう。つまり、これまでであればシェアしたいと思う人がいてもそのための「コスト」(金銭的、時間的、心理的コスト)が高すぎてシェアできなかったことが、今では情報技術(ネット環境や携帯デバイス)の発達によってその「コスト」が劇的に下がり、人々がごく自然にシェアを始められるようになった、ということです。ここまでは前提。

 もう一つのポイントは「近さ」だと思います。これも「善良さ」とはあまり関係のないことです。どういうことかと言うと、私見では、ひとは「どのみちもともとやろうと思っていたこと」に関して、特にシェアへと動いていきます。どのみち赤ちゃんの服は誰かにあげようと思っていた→それならネットでほしがるひとにあげよう、とか、どのみち作業スペースが必要だと思っていた→それならひとと共同で使おう、とか、どのみちバカンス中は誰かに家を貸そうと思っていた→それなら世界中の旅行者に利用してもらおう、とか、そういうことです。「もう一歩」進むことができるのは、身近なことに関してのみです。いくら高尚な思想でも、それが「遠い」ものならひとを動かすことはできません。

 この本を読み始める一ヶ月くらい前から、わたしは自分がネットでしている情報収集の一部をツイッターで発信し始めていました。それは「これを役立ててほしい」とかそういうことよりも(そうした気持ちが全くないわけではないですが)、どのみち情報収集はするし、しかもたまたまReederという非常に便利なアプリケーションを知ってまさに「コスト」(時間的・心理的コスト)が著しく下がった時期だったので、「発信してもしなくてもほとんど変わらない→じゃあ発信したほうが自分にも他人にも利益がありそうだ」ということで始めたのでした。これは先日の「問題13」のあとの議論とも関係していて、「たくさん映画を観てきたのだから映画評をネット上でアップしてほしい。あなたの知見をシェアさせてほしい」と言っても、相手がもともと映画評を書いていないのであれば、その一歩を踏み出すことに対するコストはとても大きく、いくら「シェア」のコストが低くてもそう簡単ではないのかもしれません。

 長くなってすみません。こうした「シェア」の現状とそれに対するわたしの意見を前提として、まず、1)「シェア」にどのような可能性を認めるか/認めないか、さらに、2)どのようなものをシェアしたいか、これについては、2−1)「シェアさせてほしい」という他人に対する欲望/必要と、2−2)「シェアしてもらってかまわない」という自分の能力/習慣/所有物の両面で議論できればいいと思います。2に関してはわたしもさらに書きたいことがありますが、長くなったのでこのあたりまでを問題提起として、あとは議論で続けていきたいと思います。よろしくお願いします。

林立騎

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