2011年3月29日火曜日

3/29 臼井くんの原稿を読んだ

 以下、ぼく自身の文章ですが、臼井くんのブログからの転載です。

 彼が「アーティスト・イン・児童館 コンセプトブック」の原稿を公開し、コメントを募集したのに応じて書きました。もともとの文脈を知りたい方はぜひ臼井くんのブログをたずねてみてください。

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 ぼくには、文章を書いている臼井くん自身の立ち位置が少しあいまいな気がしました。個人的には、臼井くんがもっと自分の色を、我を出すべきだと思いました。自分の責任で、自分の思想として「コンセプト」を表明すべきだと思いました。

 どういうことかというと、まずこの文章では、「アーティスト・イン・児童館」という場所で、あたかも子供たちとアーティストが自然な化学反応で引き寄せ合い、つながり、作品制作が行われたかのように書かれています(「児童館で遊びたい子どもたちとつくりたいアーティストが出会い」など)。どのようなアーティストが、どのような過程で選ばれたのか。またそもそもなぜアートなのか。その「出会い」の裏側はあまり描かれていません。しかし現実には、自然に子供たちとアーティストが接点をもったのではなく、「何か」がその両者をつなげたわけでしょう。そしてその「何か」こそ臼井くんなのでしょう。だから臼井くんは、「これこれの理由から、他ならぬおれがこの二つをつなげたんだ」という態度になってもいいはずです。

 こんな部分にこだわるのには理由があります。ぼくは主語のあいまいな文章や「自動詞」的な文章をあまり信用しません(「AがBをCする」という「行為への意志」が含まれるのが「他動詞」的文章。「AがBになる」という「自然な変化」が「自動詞」的文章)。そこにはあたかも「こうなるのが自然なんだ/理想なんだ/流れなんだ」というような、個人の趣味嗜好を離れた事柄であるかのような、一種の「客観性の外見」があらわれるけど、実はそれは客観性ではなく、ただのあいまいな物言いや責任の所在の不明瞭化だったりするからです。

 実際、臼井くんが「おれが子供とアーティストという二つをつなげたんだ」と言えば、必ず誰かが「どうしてそんなことするんだ? そんなことに価値があるのか? おれには価値があるとは思えない」と突っ込んでくるでしょう。そのとき臼井くんは「おれは価値があると思う」と答えるでしょう。相手に対して、「お前が知らない価値があるんだ」と答えなければならないでしょう。いわゆるパターナリズム(上から目線)の問題です。これを背負うと、ひとは最終的には必ず「社会思想」を語らなければならなくなる。そしてそれがいいことだとぼくは思うのです。ぼくは、もっとはっきりとした「臼井くんの社会思想」が聞きたいです。

 「現在、現代美術の分野では、人々と積極的に関わりながら新しい表現を試みるアーティストたちが続々と現れています」も「私たちは今、生活を支える仕組み自体を組み立て直していく変革期を迎えています」も、ぼくはずるい物言いだと思います。最初から「おれはひとと関わるアーティストに価値があると思って招いている、なぜなら…」とか、「おれは今こそ生活を支える仕組みを組み立て直すべきだと思う、なぜなら…」と書いてほしい。そこが積み上げられてないから、最後に「分類・管理の社会から脱分類・協働の社会へと組み替えていく」と言われても、臼井くんが後者に価値を認めていることは伝わるし、読者も後者に価値がありそうだと自然に思うだろうけど、どうしてそれに価値があるのか、ぼくにはよくわかりません。説明されてないし、表明されてないと思います。

 「コンセプトブック」である以上、活動の「記述」だけでなく「コンセプト」こそ知りたい。その「コンセプト」は、やっぱり個人の強烈な思想でしかありえないんじゃないかと、ぼくは思います。客観性を排して、自分の意志として語ってほしいと思いました。そうじゃないと、誰がその「コンセプト」に責任をもつのかわからない。ぼくは誰を応援すればいいのかわからないし、誰に反論すればいいのかわからない。「アーティスト・イン・児童館」は「主語」たりえないでしょう。それは「日本」や「市民」や「被災者」が主語たりえないのと同じことです。「主語」が限定されないところに対話は機能しません。臼井くんの巨大な署名が載った思想を、ぼくはもっと聞きたいです。

 長くなりましたが、細かい内容の問題ではなく、大きな「構え」の部分に関してコメントさせていただきました。

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