2011年3月17日木曜日

地震の6日後

 今日で地震から6日。外でもネット上でもいろいろなことがあった。

 状況の変化のなかでいろんなことを感じ考えている。

 「一人一人が今できることをしよう」という流れがある。でもそれは、誰もが突然原子力についての「にわか科学者」になったり、反原発の「にわか活動家」になることではなく、これまでの活動を今の状況に活かすことだと思う。「地震以前/以後」という断絶なんてない。議論の枠組みとしては設定可能だけど、現実に全てがゼロにリセットされたわけではない。だからこれまでの時間を失わないことが大切だと思う。これまで生きてきた時間と現在の時間をどう接続するか。そこでアイディアが浮かんだら、実行できるひとから実行すればいいと思う。

 今、映画、演劇、美術展、イベント等の中止と延期が相次いでいる。その善意は否定しない。けど、「中止しました」「延期しました」、そこで時間を終わらせないでほしい。「これまでの時間」を終わらせる動きが加速するのは、結果として誰にとっても利益のないことだと思う。「これまでの時間」を「中止」や「延期」というブラックホールに吸い込ませて終わらせて、突然ゼロからにわか科学者/活動家になるのは馬鹿げている。それは単純に効率が悪いし、ひとはどんな状況でも一番好きなことを続けるべきだ。だから今こそ、「それまでの時間」と「今の時間」をつなげたい。そこから見えてくるもの、言えること、できることを、どんな分野の人でも少しずつ発信すればそれでいいと思う。陳腐な言い方だけど、ピンチをチャンスに変えて、逆転ホームランを狙いたい。

 ポジティブな力を支援したい。地震発生以来、ぼく自身も映画『ヒアアフター』の上映中止や東京電力記者会見での記者たちの態度や菅総理の言動など、怒りを覚えずにはいられないことがいくつもあった。ただ、そうしたときに対立をつくってしまうこと、「敵」をつくって一方的に批判することがどれだけ生産的なことなのか、疑問に思うようになってきた。「不謹慎だから自粛しろ」と言うひとたちも、被災地へ向けた「想像力」によってそうした発言をしているのだと思う。主観的には合理的だしポジティブなエネルギーを働かせているのだと思う。世界には「正しい想像力」と「誤った想像力」があるとぼくは断言できない。もしその区別が存在するとしても、押し付けることはできないから結果は同じだろう。ただ、「不謹慎だから自粛しろ」と言うひとの想像力が、そのとき一番役立つ場所で使われているとは、ぼくはまったく思わない。よりよいエネルギーの使い道はたくさんあると思う。主観的にはポジティブなエネルギーを、もっと生産的創造的な流れに合流させることができないものか。ハイナー・ミュラーによれば、ベルトルト・ブレヒトはそれを「スキャンダルによるイデオロギーの克服」と言った。ひとびとのエネルギーの使い方を批判・否定するだけなら簡単なのだ。しかし批判する人間が「より正しい」流れをつくれているかというと、必ずしもそうではない。よい流れをつくるのはまったく容易でない。しかしよい流れをつくることができないなら、どんな批判も、「ポジティブなエネルギーの無駄な使い方」という点では、「不謹慎だから自粛しろ」発言と同じなのではなかろうか。

 今はまだいろんなことがよくわからない。今書いた考えもまたすぐ変わるかもしれない。しかしハインリヒ・フォン・クライストがかつて書いたように、「わたしたち」が知っているのではなく、知っているのは、何よりもまずわたしたちのある種の「状態」なのだ。現場でしかわからないことがある。今の「状態」でしか知れないこと、感じられないことがたくさんある。それは確かだ。いろんなものを知覚し、何かを知ることができればいいと思う。危なくなったらすぐ逃げる。それも大事。

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