2011年3月2日水曜日

「悪」を抱えて生きる

河合 だからね、本物の組織というのは、悪を自分の中に抱えていないと駄目なんです、組織内に。これは家庭でもそうですよ。家でも、その家の中にある程度の悪を抱えていないと駄目になります。そうしないと組織安泰のために、外に大きな悪を作るようになってしまいますからね。 [「『悪』を抱えて生きる」、村上春樹『約束された場所で』所収、文庫版308頁]

村上 人間というのは自分というシステムの中に常に悪の部分みたいなのを抱えて生きているわけですよね。[…]ところが誰かが何かの拍子にその悪の蓋をぱっと開けちゃうと、自分の中にある悪なるものを、合わせ鏡のように見つめないわけにはいかない。だからこそ世間の人はあんなに無茶苦茶な怒り方をしたんじゃないかという気がしたんです。 [同上310〜311頁]

真実の瞬間 それは鏡に
敵の姿が映るとき    ―ハイナー・ミュラー

 なぜかここ数カ月でゆっくり村上春樹を読み返していて、『風の歌を聴け』から始めて、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『ねじまき鳥クロニクル』と進めてきた。次のクライスト論はある意味では村上春樹論にもなると思う。両者に共通する点の一つが、この「悪」の問題。

 こういう問題に取り組むからこそ、逆になんとなく笑える論文、ほほえましい論文にしたいと思っているけど、無理かな…。

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