2011年3月4日金曜日

配電盤としての悪

 村上春樹は、河合隼雄との対談「『アンダーグラウンド』をめぐって」の中で以下のような発言をしている。

僕は昔から自分の小説の中で、悪というもののかたちを書きたいと思っていました。でもうまくしぼりこんでいくことができないんです。悪の一面については書けるんです。たとえば汚れとか、暴力とか、嘘とか。でも悪の全体像ということになると、その姿をとらえることができない。 [『約束された場所で』、文春文庫、273頁]

村上春樹が「悪の一面」しか書けてないとはわたしは思わない。非常にクリティカルで、かつ消化できない異物感を与えるポイントが、彼の書く「悪」にはある。それは「悪がポジティブに働くこともある」という部分だ。『ねじまき鳥クロニクル』の加納クレタと綿谷昇の関係がそうだし、暴力もそういう機能をもつことがある。

 村上春樹を読む上で重要なキーワードのひとつは「配電盤」だ。それがはっきりあらわれたのは第二作『1973年のピンボール』である(だからこの本が海外で読めないことを残念に思う)。さて、「配電盤」の何が重要なのか。「配電盤」とは、「電気回路の開閉や電気系統の切換えを行うための設備」である。電気を通過させ、配置するためのメディウム。そして村上春樹の登場人物たちは、「通過のメディウム」というこの意味において、みな多かれ少なかれ「配電盤」なのである。主人公や脇役といったヒエラルキーは関係ない。誰もがメディウム=媒介=巫女なのだ。例えば『羊をめぐる冒険』のキキ(この名前が判明するのは『ダンス・ダンス・ダンス』においてだが)。彼女は作中で突然消える。彼女は主人公の「僕」を通過してしまったのだ。そこに見られるのは、「脇役は主人公を通過させるための配電盤である」というような中心を持つ秩序ではない。誰もが誰かの配電盤であり、誰もが誰かを通過して成長し、誰かにただ通過されて傷つくのである。配電盤は一つではない。それは無数に存在する。

 そして「悪」もまた一つの配電盤で、「悪」を通過することで決定的に損なわれる者もいれば、「悪」を通過することで回復し、成長する者もいる。「悪」は絶対的なものではない。誰もがそこから一つの同じ影響を受けるわけではない。村上春樹の物語とそこにおける「悪」は硬直していない。だからこそ村上春樹の小説は大きな動揺をもたらす。そこに描かれている「悪」がひとを救うという事実をどう考えたらいいのかわからなくなるのだ。しかしそれこそ「悪」の本質的な一面である。もし「悪」が一方的にたたきつぶせばよい何かなら、人類がこれほど長く「悪」の問題に囚われることなどなかっただろう。

 村上春樹の物語にはゴールがない。中心もない。誰もが誰かを通過し、誰かに通過され、何かに出会い、出会われる。電気は絶えず行き交い続け、終わりはない。物語は線的ではなく、ネットワーク的である。だからこそ、一度「悪」によって損なわれたからといって、それが決定的な終わりを意味するとは限らず、どこか留まることのできる場所に到達したからといって、そこに居続けられるとは限らない。それは希望であると同時に不安である。答えはない。救済の可能性と崩壊の可能性は背中合わせになっている。それが世界の構造なのだ。

 ほんとうはクライストにおける「悪」について書くために、その導入として村上春樹のことを書きだしたのだが、予想より長くなってしまったのでここで一旦切る。

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