2011年7月1日金曜日

[読書A1]ローマ法

木庭顕『ローマ法案内 ―現代の法律家のために』(羽鳥書店、2010年)

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 当然のことながら、まずは問題を把握するしかない。切迫した具体的な問題を捉え、そして何よりも、既存のツールがどのように、そしてできれば何故、破綻しているのか、を認識しなければならない。まさにこの破綻が問題状況であり、切り込むべき相手である。

 ということは、破綻を捉えるとき、まずは現代の社会における問題自体を繊細に感知していなければならないが、同時に、既存のツールに対して全く新たな目を向けなければならないことも疑いない。というより、この二つのことは同じことである。というのも、問題は、既存のツールが所与に対して機能しない、ということによって与えられている。他方、如何なる問題も既存のツールが何らかの形で関わった結果、多くの場合失敗した結果、形成されている。所与自体がツールとの関係で意味を与えられているのみならず、所与の現実の中に既存のツールの残骸が含まれている。すると、既存の道具とその失敗を一個の現実として把握し直し、これを踏まえて、新しい問題を位置付け、そしてこれに立ち向かうためにはどのようにツールを構築すればよいのか、と考える以外にない。まず初めに来るのはどうしても、既存のツールの一体どこが機能しないのかということを精密に測定する、ということである。

 そうであるならば、最初の作業は、既存のツールをもう一度点検するというものになる。それならば十分に知っている、知り尽くしている? しかしこの意識自体がここで問われてくることになる。本当に知りぬいたと言えるのは失敗を把握しえたことを意味し、次の構築に向かいうるということを意味する。ところがわれわれはここに至っていない。 [2−3頁]

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 最も避けなければならないのは、現代におけるのと似たような問題が有ったと性急に言うことである。行き詰った現代のローマ法学が低俗化の極として提供し始めている形態である。「消費者問題」や「環境問題」が有った? これは物笑いの種である。おそらく現代の問題さえ切実に捉えていないに違いない。精度が悪すぎる。

 既存のツールの破綻が問題であった。われわれの苦しみはローマの苦しみではない。しかしローマの苦しみが把握できなければローマの道具を把握できず、順次それが更新されていった意味が理解できない。すると現在の道具の更新ができないし、現在のわれわれの苦しみの意味が理解できない。[…]

 むしろ、ローマで何が問題にされたかは、現代におけるのとは全く違うという像が必要である。差異の厳密な認識こそがわれわれの精度を上げる。そしてこうすればこうするほど、われわれの問題自体が今までとは全く異なった様相でわれわれの前に現れる、というのでなければならない。問題が新鮮に見えてくれば、新しいツールの構築は間近である。 [6頁]

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 では、紀元前8世紀にギリシャにおいてポリスが成立して以来の土台とは何を意味するか。ギリシャの人々は、ポリスという社会編成を有しない人々と有する人々を厳格に区分した。緩やかに、前者の人々は「自由」(eleutheria)を持たないと考えた。[…]ポリスという社会編成を有することの決定的なメルクマールは、完全に自由独立な複数の主体が君臨しているということである。「完全に自由独立な」ということの意味であるが、それら主体間の関係を(或る高度な質を伴った)言語だけが媒介しており、実力や物的非物的取引が媒介しているのではない、ということである。「君臨する」ということは、彼らがこの言語つまり自由な議論だけで物事を決定したとき、この決定が社会全体に対してオールマイティーでありこれを覆すものがない、ということである。 [17−18頁]

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互いに自分の利益を十分に追求する自由が無ければならないと同時に、まさに相手のそれを保障するために、重要な情報を相手に開放しなければならない。「フェアに戦う」ということである。出し抜かない、隠さない、圧迫しない、等々のことが含意されるが、結局こうしたことは当事者の意識の問題である。現に意識が様々な不透明な力に支配されているときには透明性が生まれない。裏切ったり裏切られたりである。しかるに、そのような透明な意識は一朝一夕に形成されるものではない。極めて硬度で複雑な培養が前提となる。ギリシャではその培養をさしずめ文芸が担った。今日「ギリシャ神話」の豊富な内容として人々が知るものである。 [20頁]

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第一に、委任はしても決して代理はさせないから、批准するかどうかは本人の自由である(レフェレンダムの効用)。これがお前の欲したところだ、引き受けろ、という者の専断と傲慢(代表理論の(不正確な理解の)弊害)は排除される。「皆の決定」=「お前も同意した」に対して懐疑的でありうる。第二に、委任構成でありながらなお、本人もまた居ない、ないし本人を誰も名乗りえない。つまりレフェレンダムに対してさえ懐疑的たりうる。にもかかわらず本当に手続きが尽くされていれば皆は趣旨をよく理解してその通りに動くであろう、という自信である。政治的決定の単一性・一義性を担保するためには、却って手続を尽くすことがよく、単一性だからといって「誰か一人の意思」のようなものを擬制することなど忌避する、という思考である。周知の如く、「主権」の概念はそのような擬制(と決して等価ではないが、それ)を導きやすい。 [25頁]

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自由で独立の主体が存在するということと、その人々が軍事的に動くということは正反対である。政治の空間からは実力の要素は完全に排除されていなければならない。にもかかわらず、この体制を外から実力によって破壊しようとするその実力に対して、軍事組織を以てするしかない場合がある。ちなみに、内側において実力で政治システムを破壊しようとする動きに対しては、実力を用いずにこの実力を破砕できるのでなければ、政治システムたるの資格がない。これは後述の刑事司法の問題となり、このとき実力を用いずに訴追が行われる。[…]軍事化の結果出現した軍事組織が内側に向かって人々を支配しないとは限らない。これをどのように抑止するかは政治にとって最大の課題である。 [28−29頁]

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一年任期は、実に暦のメカニズムの利用であった。暦にはアジェンダが書き込まれ、これは人々の協働を統御する力を持つ。休日は人々を労働から解放し、祭日は身分を無礼講によって解消する。労働の予定、特に著しい協働の予定、は暦に書き込まれている。他方、太陽のリズムと月のリズムを調整するために暦には空白を設けなければならない。二月の末に設定されるが、ローマの場合、この期間は極大化される。暦の空白は協同組織の空白を意味する。人々は流動化する。ここで選挙を行い、軍事編成し、三月になっても編成された社会的一部はそのままの状態に置かれ、日常の隊形に戻らないこととする。これがローマ流の軍事化である。暦に完全に依存するため、一年後にはこの編成は完全に一旦解消される。選挙の結果を含めて。 [28−29頁]

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政治の存立ということに沿って全てが行われるという点は人々の意識の中にビルティンされた判断力が担保する。実態規範はもとより手続規範も原則として書かれない。書いてしまえばそれが自己充足的な権威となって自由な批判を阻害すると考えられた。あくまで実質で思考するのである。 [31頁]

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裁判の場合、決定の機縁は、政治システムの基礎が破壊されたという事実のみに限定された。たまたま誰かが誰かの自由を制約したというのでなく、その事実が放置されればその後そこに政治があるとは言えなくなる、という事実である。 [31頁]

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実現は個別主体の手に委ねられ、しかし同時にその事業は完全に透明で皆のものである、という二重の意味の樹立が生命になる。これは後に委任や組合の概念に生かされるから、わかりにくければむしろ委任のロジックを想起すればよい。かくして「国庫」などを決して概念させない。これを握ったものが全てを牛耳るであろうから。代理人を観念させないに似る。さてそうすると、実現する主体は私人であるということになる。このとき贈与に通常伴う交換や負担の観念を完全に断ち切る必要がある。それはまさに相手が「誰でもない」(そしてまたすぐに述べるように、神々である)ということによってなされる。 [40−41頁]

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一定の財物を失う覚悟であるならば、逃亡して構わないということになる。領域を有し得ないということは追放を意味するが、しかし亡命さえすればそれ以上罪は問われないということでもある。亡命エクシリウムexiliumの権利はこうして保障されるようになる。ということは身体刑スップリキウムsupplicium、その最大のものsupplicium maximumとしての死刑、は違法になる。死刑廃止はデモクラシーや弾劾主義の重大な帰結である。デモクラシーと言えるためには死刑を違法とするのでなければならない。共和末のローマで市民を死刑とする権力濫用はまさにスキャンダルであった。[…]政治システムとしての構成原理を思想として拒絶したからといって犯罪ではないし、裁判が何か反省や改心を求めたりそれによって量刑が左右されるということは断じて許されなかった。精神を罰してはならないというのは今日に至るまで刑事法の基礎である。ふわふわと漂う無分節のものを罰することになるからである。政治はあくまで理念のレヴェルに存するが、だからこそ、物的なレヴェルからの超越が生命であり、だからこそこのレヴェルからの侵食だけを問題とした。だから物的な帰結のみに関わり、したがって身体のみに関わるが、しかし悲しいかな、身体を抹殺すると、精神まで抹殺してしまうことになる。 [51−52頁]

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