2011年7月22日金曜日

7/17 意思決定・社会・演劇

 演劇時評。

*核というメタファー

 池田信夫氏のブログを読んだ。

 納得できない部分もあったが、「大衆の動向を決めるのは論理ではなく感情」というのが問題の焦点であることはよくわかる。記事は以下のように結ばれている。

こうしたメタファーを論理で是正することは、彼らがそのバイアスを自覚しないかぎり不可能だ。メタファーは身体にかかわることが多いので、戦争や原発事故といった生存にかかわる恐怖によって形成されたバイアスは強力で、論理を受け付けない。人々が自覚していないバイアスを「脱構築」するには、大停電のような身体にかかわる演劇的な装置が必要だろう。

 「身体に関わる演劇的な装置」。「演劇的」とは「多くの人を同時に巻き込み、影響を及ぼす」という意味か。

 これからの演劇が啓蒙=論理に賭けることはないだろう。それは明白だ。これからの演劇は何をするものになるのだろう。どこに存在するのだろう。

 社会のいたるところで「演劇」という言葉の使用が消えない。小泉政治、エジプト、原発。なぜ「演劇」という言葉は消えないのか。「演劇」という言葉を使う者たちが、ほとんど演劇とは無関係にも関わらず? 演劇の規模はどうなるのだろう。主題は?

 社会が演劇化するなかで演劇は脱社会化したのか。社会と演劇の関係はどうなるのだろう。もし「社会」や「演劇」が存在するのならば?

 普段はできるだけまとまった考えを主張するようにしているが、今回はつい書きたくなってしまったので、結論がつかない。しかしわたしにとって大切な問いだ。

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