2011年7月16日土曜日

7/15 近代政治は文書を争う

 今日の演劇時評。

*菅首相:脱原発「私の考え」

 菅直人首相は15日の衆院本会議で、「脱原発」社会を目指すとした13日の発言に関し、「私の考え」と述べ、政府方針ではないとの認識を示した。首相が記者会見で表明した重要政策を、私的見解に後退させた形になる。[毎日新聞]

 13日、わたしは、「首相の意思」が消えても「国民の意思」を存続させる仕組みが必要だと書いた。それが現実的課題になりつつある。

 官僚制に支えられた近代国家において、政治とは文書を巡る争いだ。憲法、法律、政令、条例、どんなかたちであれ、最終的に文書=書き言葉にならなければ、決定は強制力をもちえない。仮に1億2千万人全員が一つの広場に集まり、菅総理の「脱原発」演説に対して巨大な喝采を送ったとしても、それが法的拘束力ある文書に姿を変えなければ、直接には何の意味ももたない。それが民主制のあるべき姿なのかどうか、議論は分かれるだろう。しかしいずれにせよ、今現在わたしたちはそのような国制のもとに生きている。まずはそこから出発せざるをえない。

 したがって、菅総理の話し言葉に一喜一憂するだけでは近代国家の国民として不十分だ。それがいかに制度化され法的拘束力をもつのか、その点を追求することが不可欠であり、支持・不支持はそのレベルでのみ成立する。

 今回、菅総理に「私の考え」と言わせた政治家たちを仮に「脱原発」慎重派と呼ぶならば、彼らは政治が文書とその法的拘束力を巡る争いであることを知悉している。そして早期に対処することに成功した。首相が交代したタイミングで「脱原発」社会を目指すという方針を反故にすることが可能になった。「脱原発」を目指すなら、菅総理の暴走気味な発言を利用し、そこから文書を勝ち取らねばならない。

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