2010年11月30日火曜日

クライスト(9)

悲劇『シュロッフェンシュタイン一族』(Die Familie Schroffenstein, 1803)

1.あらすじ

シュロッフェンシュタイン一族には二つの分家がある。ロシッツ家とヴァルヴァント家である。両家は「誰が始めたかわからない」奇妙な遺産相続契約を結んでいる。すなわち、片方の分家の血筋が絶えた場合には、その全財産を他方の分家が相続するのである。この契約が両家を疑心暗鬼にさせている。相互不信はやがて悲劇につながる。ロシッツ家の息子オトカールとヴァルヴァント家の娘アグネスが愛し合うようになり、両家の和解の可能性が見えたにもかかわらず、誤解、伝聞、不安、怒りがその成就を妨げ、オトカールとアグネスは、誤ってそれぞれ自分の父親に刺し殺されてしまうのである。


2.メモ

2.1 重要

・クライストのデビュー作であると同時に、クライストとしては例外的に「モデル」をもたない作品(「ロミオとジュリエット」に似た要素はもつが、Handbuchによれば直接の影響関係はないという)。したがって、この戯曲に現れている要素はクライストの問題意識を明確に反映していると(他の作品にもまして)考えてよいだろう。

・作品がコロスから始まっている。しかも「少年少女」のコロスにいきなり復讐を誓わせる合唱をさせている。

・遺産相続契約から全てが始まっている。誰が始めたかわからないその契約は、「堕罪におけるリンゴ」のようなものと喩えられている。近代の堕罪は「文書」によってなされるのか? あるいは、古代の悲劇が「運命」によって引き起こされたとするなら、近代の悲劇は誰が書いたかわからない「文書」によって生じるのだろうか。また、「遺産」がすなわち「土地」であること。土地をめぐる争いは『ケートヒェン』におけるクニグンデを想起させる。さらに土地=大地の相続が「秩序」と深く関わること。「チリの地震」の問題設定。

・作品冒頭からFehdeやKriegという言葉、さらに病、気絶、発作というクライストに典型的な出来事、Rechtgefuehlという問いなどがあらわれている。のちには鏡のシーン(水に映る自己)さえある。

・そもそもタイトルからして「家族」をテーマにしている。のちの作品にも繰り返し現れる問題。重要なのは、このFamilieが「家族」というよりも「一族」を意味しており、婚姻や養子縁組といったのちの作品における「家族」のあらわれ方よりも「血縁」の匂いが濃いことだろう。この処女作で「血族の崩壊」を描き、のちの作品ではそれ以後としての核家族や非血縁的家族を描いたと考えることもできるかもしれない。Familieは語源的には「集団」というくらいらしいが、もっと調べる価値あり。

・この作品もまた裁判劇である。さまざまな謎と秘密を明らかにしていく裁判劇であると同時に、いわばロシッツ家が原告、ヴァルヴァント家が被告の、当事者しかいない裁判。ルーペルトははっきりと「原告を被告にした」と台詞で言っている。第三者の審級がない、当事者だけの裁判こそ演劇の起源であるとしたのがベンヤミンだった。他方、キリスト教世界の裁判劇は、「有罪/無罪(Schuld/Unschuld)」を法的のみならず道徳的、宗教的にも捉えるため、裁判劇が同時に宗教劇、道徳劇になる。この二重性、三重性に留意せよ。

・信頼と不信(Vertrauen / Misstrauen)。開く/隠す。アグネスがオトカールを信頼したのは、同じ水を飲み、それが毒だったら一緒に死ぬことを示したからだった。行動によって信頼や愛は勝ち取られる。

・クライストにおける「気絶する(in Ohnmacht fallen)」こと。OhnmachtとはMacht(力、権力)がない(ohne)状態。このohnはfortやwegを意味するそうなので、「力から離れて」と考えられるか。すると「in Ohnmacht fallen」は「力から離れた状態へと落ちる」ことである。これが「気絶」。「力から離れた」状態でしか知らないこと、できない行為がある、というのがクライストの作品。もちろんメスマーの理論なども影響しているのだろう。

・人間と自然の重なりあい。クライストは重要な場面で必ず人間を自然の比喩で語る。民衆を大河や波と喩えたり、怒りに満ちた人間を雷を落とす雲に喩えたりする。その一つの根拠が『シュロッフェンシュタイン』では示されていた。すなわち、「自然(Natur)」と人間の「本性(Natur)」は同じ言葉なのである。したがって本性を示している人間を自然の比喩で語るのはごく自然なことなのだ。枯れた木は強風が吹いても倒れないが、強く健康な木は逆に倒れてしまうという有名な言葉もその一つ。また、『シュロッフェンシュタイン』においては、Stammという語が「家系」と「木の幹」を同時に意味することも重要。

・オトカールとヨハン。母親は別とはいえ、クライストにおいて兄弟が出てくるのはこの作品だけなので重要。アグネスを巡って対立するだけでない。ヨハンは注目すべき人物。「アグネスに殺されたい」という死の欲望を抱き、それに失敗すると発狂して道化と化す。「ヘルマン」における魔女のようである。しかも盲目のジルビウスを伴ってあらわれ、ある意味で「真実」を告げる。道化と盲者、すなわちシェイクスピアとソフォクレス! しかしそれは預言というよりも、結末における確認である。もっとも重要な台詞は、Versehen? Ein Versehen? Schade! Schade! である。そのグロテスクさ!

・fallenが「死ぬ」をも意味すること。一度死ぬこととしてのfallenを経由して、変化が起きる。他方で、キリスト教の洗礼を意味するTaufe、すなわち名付けの儀式ももともとは「水に深く潜ること(tief ins Wasser ein- oder untertaufen)」を意味している。キリスト教文化における「落ちること」「潜ること」の射程と意味とは?

・すでに「民衆(Volk)」が重要な要素としてあらわれている。ロシッツ家からの使者をヴァルヴァントの民衆が「石」を投げて殺してしまう。逆にヴァルヴァント家の意向を伝えにきたイェロニムスは民衆の「棍棒」で殴り殺される。石も棍棒も「チリの地震」に登場し、やはり民衆が使う武器である。ジルベスターが民衆について言う台詞「非行も行う精神も何かの役には立つ。もっと役立たせよう、利用しよう」は重要。

・結局、すべての根本原因であるような「悪」は存在しないということ。何らかのきっかけで誤解や不信が始まり、それがほとんど自動的に大きくなってしまう。ゲルトルーデの台詞はそうしたシステムにおいてしか語られえない、すなわち、Drehen freilich / laßt alles sich.ということ。原因の思考(ゲルトルーデ)と結果の思考(ジルベスター)が対立するが、結局はどちらも等価で決定と選択の問題でしかない。なぜなら特定の「内容」や「伝統」をひとびとはもはや共通了解としておらず、「言葉」あるいは「論理」そのものが問題となっているだからだ。個々人の考えや思いは一般化できない。何を言おうとも、常に「逆もまた然り」と反論されてしまう。他方で、自分で自分の論理システムを閉じてしまったルーペルトのような人物には何を言っても無駄になる。そのような時代の「論理劇」としての悲劇をクライストは書くのである。この点で重要な人物はルーペルトだ。彼の不安定さ、怒りと不安、復讐の確信と突然の自信喪失、彼こそクライストの時代の人物だ。一貫性のなさ、一貫性の不可能性が「もうひとつの演劇」の可能性だったのだ。共通了解がなく、一貫性が不可能だからこそ、クライストの人物たちは作中でいとも簡単に変化する。ジルベスターも最後は復讐に赴く。一貫した「善」などではない。理想化された、あるいは心理的に典型化された「性格」ではない。なぜならそんな「性格」として生きることは現実に不可能だったからである。こうしたことがいわゆる「カント危機」とどれだけ関係しているかはまだわからない。なぜなら、カントが問題にしていたのは究極的な意味での「物自体」の認識、人間の認識能力の限界であって、言語と「真実」の関係とは必ずしもいえないからである。

2.2 その他

・クライストにおける「抱きつく(um den Hals fallen=首のまわりに落ちていく)」こと。「チリ」のエルヴィーレなど。

・「死んだら誰も罪人ではない」というジルベスターの言葉。

・谷で見つけたアグネスを「マリア」と名付けたオトカール → 「チリの地震」

・有名な台詞:Das Leben ist viel wert, wenn mans verachtet.


3.今後

・クライストは裁判劇であると言うだけでは仕方がないので、いよいよもう一歩。

2010年11月29日月曜日

時間・歴史・演劇(9)

1.ベルトルト・ブレヒト「感情同化について」(『ブレヒト演劇論集1』、河出書房新社)

君らはけっして農民から、農民であることを
地主から、地主であることを剥ぎとって
しまってはいけない。そうなればかれらは
君や私と同じ、人間そのものになり、君も私も
かれらの感情に参加できるようになろう。
君と私だって同じではない。農民であるか
地主であるかすることで、はじめて人間になるのだ。
だのにどうして感情を分けあえるなどと言えるのだ。
農民は農民のままにしておきたまえ、俳優さん
そして君は俳優のままでいたまえ! そして農民を
他のあらゆる農民とは違ったままにしておきたまえ。
地主だって、他のあらゆる地主とは相当に違っているのだ。


2.ベルトルト・ブレヒト「精神の不在」(『ブレヒト演劇論集1』、河出書房新社)

こうして私の精神は不在になり、なすべきことを
そらでやってのける。私の理性が
そのあいだを、整理してまわる。


3.ヴァルター・ベンヤミン「ベルト・ブレヒト」(『ベンヤミンコレクション1』、ちくま学芸文庫)

この反社会的な存在、ならず者を、潜在的な革命家として描くこと、これこそブレヒトがたえず目指しているところなのだ。そこには、このタイプに通じるものをブレヒト自身がもっていることだけではなく、理論的な契機もひと役買っている。マルクスがいわば革命を、まったく異質のもの――つまり資本主義――の内部から出現せしめるという問題を、それに対する倫理感への要求を完全に抜きにして提起したとすれば、同じ問題をブレヒトは人間的な領域に移しかえる。彼は悪しき利己的なタイプから、完全に倫理感抜きに、革命家を出現させようとする。 [530頁]

造り直しということ――ブレヒトがそれを文学の形式として告知するのを、私たちはすでに聞いた。書かれたものは彼にとって作品ではなく、装置であり、道具である。書かれたものは、高次のものであればあるほど、それだけいっそう変形、解体、転換のできるものになる。偉大な規範的文学、とりわけ中国文学を考察して、そこから彼は、書かれたものに対してそこでなされる最高の要求は引用可能性である、ということを学んだ。暗示的に言っておけば、剽窃の理論――これを聞けば駄洒落屋などたちまち息絶えだえになるだろう――はこの点にこそ基づいている。 [532頁]


4.ヴァルター・ベンヤミン「叙事演劇とは何か」(『ベンヤミンコレクション1』、ちくま学芸文庫)

この演劇が時間の流れに関係する、そのあり方は、悲劇の場合とまったく異なっている。緊張の照準は結末部分よりも、個々の場面でのそれぞれの出来事に合わされているので、この演劇の上演はきわめて長い時間にわたることが可能である。 [539頁]

ブレヒトの考えるところでは、叙事演劇は筋を展開させるよりも、状況を表現しなければならない。だが、ここに言う表現とは、自然主義の理論家たちがいう意味での再現のことではない。むしろ、なによりも重要なのは、まずもって状況を発見することなのだ。(状況を異化すること、と言ってもよいであろう。)状況のこの発見(異化)は、出来事の流れを中断することによってなされる。 [542-543頁]


5.ヴァルター・ベンヤミン「生産者としての作家」(『ベンヤミン著作集9』、晶文社)

作家の仕事は、決して制作品にかかわる仕事であるだけでなく、つねに同時に生産の手段にかかわる仕事でもあるのだ。いいかえれば、かれの制作品は、作品という性格とならんで、あるいはその性格をそなえるまえに、組織化の機能をそなえなければならない。そして、作品を組織化に役立てるということを、決してプロパガンダに役だてるということに限定すべきではない。傾向だけではダメなのだ。[…]まず自分以外の生産者に生産のための支持をあたえ、つぎによりよい装置をかれらの自由にまかせられるようにする生産モデルとしての性格が、決定的に重要になる。しかもこの装置が、消費者をますます多く生産の側にひきよせること――手みじかにいえば、読者あるいは観客から共同制作者をつくりだすこと――ができるようになれば、それだけその装置はより有効なものとなる。 [182頁]

「音楽家や作家や批評家のあいだを支配している自身の状況についてのこの無知は」と、ブレヒトはいっている、「とほうもない結果を生みだしているのに、これはあまりにも過小評価されている。なぜなら、現実には自分の方がその機構に所有されているのに、自分がそれを所有していると思いこむことによって、自分たちがもはやコントロールしえない機構を擁護しているからである。しかもその機構は、かれが信じこんでいるのとはうらはらに、もはや生産者のための手段ではなく、生産者に敵対する手段と化している。」 [183頁]

知的生産手段を社会化するという要求を、知識人は有効にはたすことができるであろうか? かれは、生産過程そのもののなかで、頭脳労働者を組織化する方法を発見するだろうか? ロマンやドラマや詩の機能を転換するためのプランをもつだろうか? 作家がこの課題にこたえる活動を完遂する能力をそなえればそなえるほど、それだけ作家の傾向も正しいものとなり、それにつれて作家の仕事の技術的な質も必然的にたかめられるのである。そして他方、生産過程における自分の立場をめぐる事情について正確に知れば知るほど、「精神的人間」などと自称する考えからは、ますます遠のいていくだろう。ファシズムのふりまくことばとしてはっきりきこえてくる精神という名称は、消えなければならぬ。そして、自己の神通力をあてにしてファシズムに反対するような精神などは、消えてしまうだろう。 [189頁]


6.ルイ・アルチュセール「ベルトラッチとブレヒト」(『マルクスのために』、平凡社ライブラリー)

同一化という古典主義的な形式は、観客を「主役」の運命から離れられぬようにし、彼らのあらゆる感情の働きを演劇によるカタルシスでつつんでしまっていたが、ブレヒトはこの同一化の古典主義的な形式と縁を切ろうとした。 [253頁]

古典劇においては、すべてが単純なすがたをとることができた。すなわち、主役の時間性が唯一の時間性だったし、他のすべては主役に従属していた。主役の敵対者でさえも主役にあわせられていたし、敵対者が主役の敵対者であるためには、その必要があったのである。彼らは主役自身の時間、主役自身のリズムを生き、主役に依存し、その付属物にすぎなかった。敵対者はまさしく主役の敵対者だった。すなわち、争いにおいて敵対者は、自分自身が自己に属すると同様に主役に属していた。主役の複製、その反映、その対立物、その暗闇、その誘惑、主役自身に逆らう主役の無意識だった。じっさい、主役の運命こそは、ヘーゲルが記したように、敵の意識であると同じく自己の意識だった。その結果、争いの内容は主役の自己意識と同一だった。で、ごく自然に観客は、主役、すなわち主役自身の時間、主役自身の意識、――観客にしめされる唯一の時間や唯一の意識と「同一化」することによって、その戯曲を「生きている」ように思われた。ベルトラッチーの戯曲やブレヒトの大作においては、その構造の分裂という理由そのものによって、上述のような混乱は存在しえないのである。 [255-256頁]

ブレヒトは正しかった。つまり、演劇というものが、自己のあの不動の認知-非認知にかんする、「弁証法的」でさえある注釈である、ということ以外の目的をもたないとすると、――あらかじめ観客は音楽を知っていることになる。それは観客の音楽なのだから。反対に演劇があのおかすことのできぬ姿をゆり動かすこと、人をまどわす意識という空想的世界のあの不動の領域たる動かざるものを動かすことを目的とする場合、戯曲はまさしく観客における新しい意識の形成と生産、――あらゆる意識と同様に未完成ではあるけれども、あの未完成そのもの、あの距離の制服、あの無尽蔵の現実的な批評行為によって動かされる、意識の形成と生産なのである。しかも戯曲はまさしく新しい観客、つまり芝居がおわるとき演じはじめ、芝居を完成させるためにのみ――ただし実人生においてだが――演じはじめる俳優をつくりだすものなのである。 [261-262頁]


7.ハイナー・ミュラー「ドイツ 所在不明」(『悪こそは未来』、こうち書房)

ブレヒトの『ファッツァー』断章に含まれる、次のなにやら不可思議な言葉は、わたしの頭に取り憑いたまま離れようとしません――かつて幽霊は過去から立ち現われたが/いまそれは未来からもやって来る。 [138頁]


8.ヴァルター・ベンヤミン「ブレヒトとの対話」(「ベンヤミン著作集9」、晶文社)

ブレヒトはいった、「あいつは気狂いだったと取沙汰されるのは、自分でもよく判っているよ。この現在の時が後々にまで伝えられて行くなら、ぼくの狂気に対する理解も一緒に伝えられて行くだろう。時代が狂気の背景となるだろう。しかし、ほんとうにぼくが願っているのは、いつか、あいつは中くらいの気狂いだった、といわれることなのだ」 [216頁]

ブレヒトの箴言の一つ。「よき古きものにではなく、悪しき新しきものに結びつくこと」 [218頁]

2010年11月28日日曜日

政治・経済・生活(8)

1.クリスティアン・マラッツィ『現代経済の大転換』(青土社)

フォーディズム期には、労働時間や生産方式は厳格な計画に即して決められていたが、今日われわれすべてが生きているポスト・フォーディズム期には、いずれもはるかに計画性を欠いているのであって、市場がもたらす諸状況、逸するべからざる時期にますます依存せざるをえなくなっている。なぜなら、熾烈な競争と市場の飽和の時代には、需要のほんのわずかな変化次第で、企業にとって、企業が生産を存続する上で、それが致命傷になりもすれば、起死回生にもなったりするからである。 [14頁]

フォーディズムのシステムでは、コミュニケーションが生産に直接入りこむと、生産業務の阻害、不安定化、障害につながっていた。寡黙に労働にとりくむか、さもなければ、コミュニケーションをとりあうなら、生産活動を一時中断していたのである。ポスト・フォーディズムのシステムでは逆に、コミュニケーションをくみこむことは、直接、生産的な価値をもっている。 [18頁]

コミュニケーションが生産に関与し、言語機械――機械の物理的な殻、固定資本(ハードウェア)よりもデータ集積プログラム(ソフトウェア)のほうがはるかに重要である――を利用して話しあいながら生産する。こうした方式は、生産分野と流通分野のあいだの古典的な関係の危機が招いた歴史的な帰結である。 [19頁]

新しい労働方式では、企業の目標に対する硬い忠誠心が必要とされる。 [43頁]


2.

 「消費」も「コミュニケーション」も否定的に捉えるのは簡単だから、それを明るく楽しくストレスの少ない生活につなげることを考えたい。どうみても流れ作業の一部になるよりコミュニケーションのある仕事の方がましなんだから。

2010年11月27日土曜日

クライスト(8)

悲劇断片「ロベール・ギスカール ノルマン人たちの王」(Robert Guiskard, 1808)

1.あらすじ

ノルマン人たちは戦争中だが、仲間内でペストが流行してしまう。民衆は不安になり、戦争をやめたい。しかもノルマン人たちの王ロベール・ギスカール自身もペストに冒されたという噂が流れ、動揺は一層高まる。ギスカールの王子二人が民衆に対応するが、一方は民衆に愛されておらず、他方は民衆をさらなる不安に駆り立ててしまう。ついには王があらわれ、健在を印象付けようとするが、病に冒されている事実を隠すことが出来ない。民衆の代表者たる老人は、王に向かって祖国へ戻ることをあらためて訴え、断片は終わる。


2.メモ

・演劇と裁判の根源的関係を更新し、民衆を彼の時代に見合ったかたちでふたたび「裁判官」の地位につけようとした点に、近代演劇におけるクライストの特異点がある。重要なのは「主人公」ではなく民衆なのだ。この「演劇」は「裁判」と同時に「政治」にも近い。それは当然である。すべては民衆の「声」に関わる。判決も「声」であり、人民の投票も起源においては「声」であった(現在でも「票」と「声」は同じ単語だ)。『ギスカール』においては、「声を率いる Stimme fuehren」ことが問題となる。王が「声」を聴くか否か。法、民主主義、代表制。あるいは民主主義以前の共同体の組織。

・クライストとソフォクレス。クライストがソフォクレスを継承しているのは、『ギスカール』において『オイディプス王』のように人々がペストに襲われている、というようなレベルだけでない。演劇が本来裁判であること、演劇においては共同体における法の更新が問題となり、その法の更新には犠牲が伴われること、法には国家の法、神の法など様々な側面があることなど、演劇の本質に関わることをクライストは受け継いでいる。

・「流体」としての民衆。民衆は波、大河として表現される。すなわち無定形。それは「かたち」としての秩序と対立する。民衆に「かたち」がないわけではない。しかし常に揺れ動く。民衆が「声」として表現されることも無定形性を意味する。

・民衆はコロスである。しかし冷静に状況を観察し客観的な判断を下すコロスではなく、不安定である。シラーやヘーゲルらのコロス理解と比較せよ。

・カタストロフ。ペスト、地震、戦争。秩序が動揺をきたすとき、共同体がどのような事態に直面するか。その思考実験。ペストに毒された民衆は、もはや行為できず、呪いの言葉を吐くだけ。無事な者たちは一刻も早く祖国に帰りたがる。

・二人の王子。ロベールとアベラール。分身? 「チリ」や「拾い子」と比較せよ。二人はその価値観において対照的。伝統と感情によって王にふさわしいと自認するアベラールと、その身分によって王になる権利を主張するロベール。この「双子」の善悪は揺れる。あるいは善悪で評価できない。

・言葉の問題。「真実」は告げるべきか、その必要があるか。民衆は噂(=言葉)で動揺し、秩序を揺るがす。王は「言葉」によって損なわれた秩序を回復しようとするが、彼の身体は言葉を裏切ってしまう。言葉と秩序(政治)。