2011年5月31日火曜日

5/31 プロセスの質

 本日の「演劇的ニュース」。

1. 「布川事件」で無罪判決

 1)ビデオニュース:刑事司法の欠陥を全てさらけ出した布川事件
 2)北海道新聞:布川事件無罪 証拠の全面開示を急げ

 今日のニュースではないが、今月の締めとしてこれを。

 わたしは今後の日本のキーワードの一つは「プロセス」だと思う。「正解・不正解」という結果だけを追い求めるのではなく、どのようなプロセスを組織できるかがポイントになる。政治も、メディアも、文化も、学問も、この点では同じだと考える。

 布川事件の際、マスコミは杉山卓男さんと桜井昌司さんを逮捕の時点から完全に犯人扱いした。しかし今回は検察によって犠牲になった無実の一般人として悲劇の主人公扱いをしている。そこには時間軸が欠けている。かつて犯人扱いしたことへの謝罪や反省は微塵もなく(北海道新聞は例外)、そのときどきの「正解」を提出し続けるだけだ。また、プロセスを認識できずその都度の結果に反応している限り、主権者たるはずの国民はたんなる傍観者にすぎない。プロセスを組織できてこそ、結果に対する責任を意識できる。

 今月は「プロセス」や「時間」という切り口から政治を考えることが多かった。

1)政治・プロセス
2)政治と時間
3)政治という時間
4)時間を与える
5)結果からプロセスへ
6)決定・責任・時間

 ところで、「プロセス」に関して一つ問題なのは、これまでの日本にプロセスがなかったわけではない、ということだ。布川事件でも、違法なプロセスの結果として冤罪が生じたのではなく、「合法」なプロセスが冤罪を生んだのである。行政も、司法も、形式的なプロセスは存在する。しかし実質的に欠陥がある。したがってプロセスの「質」が問題にされなければならない。

 しかしプロセスの「質」を最終的に根拠づけるような規範が日本社会に存在するだろうか。わたしは理念としては存在しないと思う。むしろ「利害」をテコにプロセスの「質」を変化させるべきではないか。プロセスが変わらなければ不利益をこうむる、危険である、利益が少ない、そういったかたちでしか日本は変わらないような気がする。日本の「再帰的近代」は、ある理念のもとにまとまった社会としてではなく、より一層利害に敏感な社会として実現されるのではないか。少なくとも、わたしには利害以外にこの国で通用しそうな合理的規範が、何一つ思い浮かばない。

演劇理論(5)

 演劇は根源的に死者と関わる。「死者とどのように付き合うか」は常に演劇の課題だった。3月11日以来、日本では多くのものが死に、福島では「埋葬できない死者」さえ生じている。「現在の都市で劇場が建設されうる唯一の場所、それは墓地である」とジャン・ジュネは書いた。演劇は3月11日以来の死者たちとどのように接するだろうか。

 民主制と死者はどのように関係するだろう。現在に影響を与えた多くのものはすでに死者だ。現在の法をつくったものはすでに死に、さらに死に続ける。民主制を支えるのは死者たちだ。死者との関係こそ民主制だ。

記念碑的な劇場――その様式はこれから見出さなくてはならないが――は、裁判所に、慰霊碑に、聖堂に、国会に、士官学校に、政庁所在地に、闇市あるいは麻薬売買の不法地帯に、天文台に等しい重要性を持たなくてはならない――そしてその機能は、同時にこれらすべてであることである。ただし、ある仕方で。つまり、墓地のなかで、あるいは、硬直し傾斜した、男根的な煙突のある焼却炉の間近でこれらすべてであること。
[ジャン・ジュネ「…という奇妙な単語」]

5/30 「場」を組織する

 昨日の「演劇的ニュース」。

1. 社会学者ウルリヒ・ベック「問題はわたしたちが反対派を説得できるかどうかです」

 Katastrophe von Fukushima: Sind die Deutschen hysterisch?

 ベックのインタビューを読んだ。

 ベックによれば、ドイツのメルケル首相が原発政策を転換したのは、原発問題が政治の「信用危機」を招きかねなかったからである。政治にとって信用を確保することがどれだけ重要か、日本ではここ3ヶ月、逆の意味で痛感することが多かった。政治の信用は「とにかく安全だから安心してください」といった言葉によって確保されるのではなく、徹底して合理的なプロセスによって実現される。「とにかく安心しろ」は非合理的な要求である。

 いわゆる「脱原発」に関しても、ベックがその合理性、経済性を主張し、決してモラルの問題にしていないことが重要だ。彼は脱原発反対派を「断罪」するのではなく、説得できると確信している。日本でも、宗教や集団ヒステリーとみなされることなく、現実的な可能性として脱原発を提起し、議論の「場」をつくるためには、合理的な立論が不可欠だ。合理性こそ「場」そのものであり、合理性を離れては対立する者たちが共有できる「場」はありえない。

 共通の基盤の上に相異なる立場がきちんと衝突するような、正統な意味でドラマ的な「場」を組織することは、どのようにして可能なのだろうか。あるいはそれはもはや不可能で、別の可能性を模索すべきなのだろうか。

2011年5月30日月曜日

あらたの誕生(5)

 今のところ書くべきことはもうない。水曜から東京で夫婦とあらたと猫2匹の生活。またいろいろあるだろう。

目にも留まらぬ高速チョップ

5/29 集団における個人の優先

 本日の「演劇的ニュース」。

1. FCバルセロナが通算4度目の優勝、欧州チャンピオンズリーグ

 1)FCバルセロナ マンU下し通算4度目の優勝、欧州CL
 2)マンU監督「これほど叩きのめされたのは初めて」
 3)輝いたメッシ、“抜群の”バルサを称賛


 普段ほとんどサッカーをみないのでただ知らなかっただけかもしれないが、サッカーというスポーツの進化を感じた。

 このバルセロナというチームでは、個人の技術の極限的な追求が集団としてのまとまりと対立しない。対立しないどころか、個人に技術があるからこそチームとしてまとまっている。しかしまとまりが優先されているわけではない。飽くまで個人の技術と個人のイマジネーションが先に立っている。

 互いにチームメイトの技術と想像力を深く理会しあっているのだろう。自分の最大のパフォーマンスとチームメイトの最大のパフォーマンスが衝突し、均衡するところにプレイが実現しているようだった。「個人」をここまで活かせる「集団」が成立することに興奮した。

 小規模集団にとってのひとつの理想像として、今回のFCバルセロナを考えることができるのではなかろうか。

2011年5月29日日曜日

ドイツ語(5)

 言葉を自然に身につけるのではなく、意識的に学ぶときは、せっかくだから細かく学んだほうがよい。

 ドイツ語の単語を辞書で引き、日本語の意味を暗記するのではもったいない。効率が悪すぎる。生産性が低すぎる。せっかく一度辞書を引くなら、ドイツ語の単語がどのように成立し、もともといかなる意味をもっていたかを考えるだけで、得るところはずっと多くなる。

 たとえば「erzählen」という語を辞書で引くと、「物語る」と出る。名詞形「Erzählung」なら「物語」である。しかし「erzählen」を分解してみると、この語が「er」と「zählen」からなり、前者は「獲得」、後者は「数える」を意味し、全体として「数えることで獲得する」が原義と知られる。すなわち、「数の数え方」こそ「物語」だ、ということである。これはたとえば、「西暦」で数えることと「昭和・平成」で数えることでは、異なる物語が獲得されることを意味する。「erzählen」の原義は「数え上げる」ことだったらしいが、「数え上げる」ことが「獲得」へとつながる、言葉の咒術性のようなものを感じさせ、興味深い。

 他にも、「判断する urteilen」は「一番最初の ur」「分割 teilen」であるなど、考える糧になる言葉は多い。こうした作業によって、日本語の語源や意味の変遷にも敏感になり、言葉のなかに人類の歴史が詰まっていること自体が楽しくなれば、語学学習の生産性はかなり高くなるはずである。

2011年5月28日土曜日

5/28 決定・責任・時間

 本日の「演劇的ニュース」。

1. 「2020年代の早い時期に『自然エネルギー』20%以上に」

 1)朝日新聞:新エネ目標―太陽と風で挑戦しよう
 2)産経新聞:「4つの挑戦」 実現の具体性欠け無責任
 3)東京新聞:自然エネ20% 目標倒れは許されない
 4)日経新聞:自然エネルギー拡大の条件
 5)毎日新聞:エネルギー目標 国民合意形成に全力を
 6)読売新聞:新エネルギー策 安全性高めて原発利用続けよ

 7)毎日新聞:自然エネルギー:20%前倒し コストの壁高く 技術革新が不可欠
 8)読売新聞:橋下知事、新築住宅に太陽光パネル義務化検討
 9)池田信夫ブログ:太陽光発電という「課税」


 サミットでの菅首相の発言。これがどれだけ現実的な政策なのか、どのくらいのコストがかかり、いかなる制度を必要とするのか、現時点でわたしにはまったくわからないので、議論を追いたいと思う。

 気になったのは、池田信夫氏が菅首相について、「最近の彼の行動は「支持率最大化」という目的に特化しているので、これで支持率が上がればOKだ」と書いていたことである。

 彼の行動が「支持率最大化」という目的に特化しているのかどうか、わたしは知らない。ただ、誰でもわかることは、「2020年代の早い時期」には、もはや彼は首相の座にはなく、したがってそのとき「自然エネルギー」の割合が20%以上になっていないとしても、彼が責任を負うことはないだろう、ということである。

 「政治家の寿命」を越える時間的射程が問題になるとき、民主代表制というこの制度は、極めて重大な困難に陥るのではなかろうか。菅首相の本当の目的が「支持率最大化」であろうとなかろうと、直接の責任を負うことのない未来についてなら、ひとは何でも言える、そう思わせることは事実である。

 広い意味での「決定」は、その「決定」が及ぼす時間的射程に責任を負える者だけが下せるのではなかろうか。

 たとえばある町が、原発を廃炉にすると住民投票で決めたとする。5年後、10年後、その町が経済的に荒廃したとしても、それが住民たちの選択の帰結であり、責任の負い方であるはずだ。もしそれが不満なら、ふたたび方向転換するしかないだろう。そして彼らはそれについても自ら責任を負うことになるのである。

 あるいは、今回の「『自然エネルギー』20%以上に」という提言が、電力事業への参入を狙う企業から出てきたものであれば、その意味はまったく異なる。必要とされる条件を整えた上でその企業が目標を達成できなければ、やはりそれなりの責任を負うだろうからだ。

 「2020年代の早い時期」にどの政党が政権を担当し、誰が総理大臣であろうとも、この目標が達成できなかった場合に責任を負うことはない。菅首相は、責任を負えない発言をすることと「リーダーシップ」が何の関係もないことを認識すべきだ。

 しかしながら、だからといって今これからの日本について語ることは無意味だ、というのではない。むしろおおいに語り、また選択し、決定すべきである。ただし責任を負うことになる者たち自身が決定すべきだ。

 わたしは国民投票をすべきだと思う。「脱原発」へと傾き、「自然エネルギー」利用の流れになることは変わらないだろう。しかしこのままなんとなく事態が進行した結果、いつか電気料金が値上げされれば、確実に「政治家が悪い」という話になる。一方で国民投票の結果として電気料金が引き上げられるなら、「それも自分たちの選択だった」と認めざるをえないはずである。わたしはそれでいいと思う。その経験が必要だと思う。たとえばその後、もう一度「やっぱり原発だ」ということになったり、あるいはそうしてもたついているあいだに日本経済が少しずつ沈没してしまっても、それが選択であり決断であれば、仕方ない。それが民主制だからだ。民主制とは最善の政策を実現する制度ではなく、善だろうが悪だろうが自分たちの決めたことを実現する制度である。

 歴史は「善悪」や「正解・不正解」を原理的に問題としない。選択、決定、修正、選択、決定、修正…と連鎖するだけだ。プロセスの意識と学習の姿勢が重要なのだ。今こそこの問題に向き合うチャンスではなかろうか。

書類(4)

 書類進んでないな…。

 妻子を連れてくるのが延期されたので、週明けにまとめてやろう。

 と先延ばしにすると結局やらないので、今からやります…。

5/27 排除≠消滅

 昨日の「演劇的ニュース」。

1. ドイツ人原子力研究者・技術者を中国が自国に誘致

 Spiegel:Energiehunger der Volksrepublik: China buhlt um deutsche Atom-Fachkräfte

 独政府の脱原発路線で行き場をなくすドイツ人原子力研究者・技術者を中国が自国に誘致している。中国は現在13基の原子炉を所有し、さらに28基を建設中である。

 原発の「善悪」を議論することは、現在の日本の「わたしたち」の輪郭を構想する上で不可欠だ。加えて、電力事業の「経済性」を現実的に検討しなおすことも避けられない。いずれにしても、「日本はどうなる」「日本をどうする」を考えるとき、何らかの新たな決定が下されれば、古いものには立ち去ってもらうしかない。しかしながら、そこで切り捨てられる部分をいかにして忘れず、いかにして付き合い続けるか、ある意味では「用済み」になったひとびとやものごとをどのように最期まで看取るか、ということもまた、非常に重要ではなかろうか。

 ものごとが変化し、流動化するとき、誰か・何かが突然脚光を浴びる一方で、必ず排除されるひとやものがあらわれる。しかし排除されるひとやものも、その瞬間に消滅するわけではない。彼ら・それらはどこかに行き場を見つけなければならない。そのことをどれだけ具体的、現実的に思考できるか。善が達成されるとき悪は消滅する、というような単純な世界ではないのだ。

 恣意的な流動化の帰結を想像できなかった一つの例は、先日殺害されたオサマ・ビンラディンだろう。わたしたちは、排除されたもの、「悪」とみなされたものの「それから」をケアしなければならないのだ。いかにしてケアし、あるいは別のかたちで社会に組み込むかについて、今度こそ歴史に学び、実践を深めなければならない。

村上春樹(4)

 村上春樹の「物語」とは、『ねじまき鳥クロニクル』に描かれているように「井戸」に潜ることだが、それだけではない。「物語」とはある種の「装置」を生み出すこと、あるいは「装置」になることである。「メディウム」になること、と考えてもよい。

 村上春樹の物語の人物たちは、自分のなかに深く潜ることによって、他人を通過させるための装置にもなる。自分に必要なことが、自分だけでなく、誰かの役に立つ。ただし、誰かを害することもある。いずれにせよつまり、自分のなかに潜ることが、逆説的にひとと結びつくことへとつながる。

 一般に、「自分の中へと沈潜すること」は、「ひととつながること」と対立するように考えられるかもしれないが、村上春樹の物語は、これらが矛盾なく両立すること、さらに言えば、両立するときにしか各々も成立していないことを示し続けている。

 「個人か共同体か」、「抵抗か権力か」といった、不毛な歴史を積み上げる様々な「あれかこれか」を解体し、個人のモデルと共同体のモデルが両立する可能性を描いている点で、村上春樹の実践は非常に政治的である。

 今回の記事に関連する内容は、以前にも書いた。「配電盤としての悪」を参照されたい。

2011年5月27日金曜日

5/26 いかに政府を代替するか

 昨日の「演劇的ニュース」。

1. 仏ドービルで「ネットサミット」

 1)日経新聞:原発より「ネットサミット」 議長国仏サルコジ氏の思惑
 2)日経新聞:「規制は勝者生まぬ」 ネット企業と仏大統領、パリで対立
 3)ロイター:仏のG8インターネット会合、政府と業界幹部の意見の違いが鮮明に
 4)毎日新聞:G8サミット:表現の自由など求め「ネット宣言」採択へ


 昨年末からのウィキリークスによる外交公電公開と北アフリカ・中東の政変を経て、このタイミングであらためてインターネットが取り上げられたことには、ある程度の必然性が感じられる(原発問題を正面から扱わない意図もあっただろうが)。

 サルコジがインターネット企業を集めて、「あなた方のいる世界にも、民主主義国家を支配する法や倫理は適用される。最低限のルールを排除することはできない」と述べたところ、グーグルのエリック・シュミットは、「技術革新に委ねれば、政府の対応以上に素早い解決策を世界規模で講じることができる」と応えたそうだ。

 シュミットのこの発言は重要だ。これからの技術と政治は、いかに政府を代替し、政府を軽くできるかにかかっている。なぜなら、その方が解決策を速く、正確に、わかりやすく、多様に実現できるからだ。産業、メディア、文化など、それぞれの分野が、いかにして政府の機能を奪い、政府の代替を商売にできるかについて、いっそう知恵を絞るべきである。

クライスト没後200年(4)

 クライスト没後200年の企画のうち、もっとも一般受けすると期待されるのは、ドイツの演劇・パフォーマンス制作ユニット「リミニ・プロトコル」のプロジェクト「Einen Kleist」だろう。リミニのメンバー3人のうち、ヘルガルト・ハウクとダニエル・ヴェッツェルが担当する。

 「ドキュメンタリー演劇」を牽引すると言われるリミニだが、今回のプロジェクトのテーマは「戦争」。彼らはクライスト作品からこのテーマを抽出し、21世紀の「戦争」についての舞台をつくる。焦点になるのはサイバー戦争。物流システムや産業施設がすべて情報技術によってネットワーク化された結果、今日では誰もが地球上のどこからでも戦争を仕掛けることができる。リミニは、デジタル時代の戦争の専門家と共同で作品をつくり、これからの戦争のかたちを描き出すとともに、クライストの作品と思想をそこへ接続する。

 上演は2011年10月19日(クライストの誕生日の翌日)から、まずはフランクフルト・アン・デア・オーデルで、その後11月14日〜18日までベルリンのHAU、2012年にはドレスデンでも見られるようだ。

資料1 資料2

5/25 大きな社会

 25日の「演劇的ニュース」。

1. 英キャメロン首相の「大きな社会」構想

 1)Building a bigger, stronger society
 2)大前研一:英キャメロン首相の「大きな社会」構想に注目
 3)英国キャメロン政権の「大きな社会」とは何か
 4)イギリス「大きな社会」構想とソーシャルキャピタル論

 演劇にとって(演劇ばかりではないが)現在もっとも重要な議論は、イギリスの「大きな社会」構想とアメリカの「政府2.0」に関する議論である。いずれも政治あるいは行政を個々人に近づけ、コミットメントを深めさせると同時に、経済も活性化させるアイディアだ。おおざっぱに言えば、両者は「任せる仕組み」「引き受ける仕組み」を政府が用意することで、これまで政府が担っていた機能を民間に移譲しようというものである。社会を豊かにすると同時に経済を活性化させ、かつ財政赤字を膨らませないためのこの思想は、芸術にも接続されるべきだろう。

クライスト(4)

 次の論文では『ローベルト・ギスカール』を扱ってもいいかもしれない。共同体、災害(ペスト)、コロス、政治、ギリシャとの関係(ソフォクレス)など、重要な要素が詰まっている。それにしても研究の進まない一ヶ月だった。来月はより具体的に動かそう。

2011年5月26日木曜日

5/24 エコ独裁と政府の代替

 24日の「演劇的ニュース」。

1. 独の電力会社社長、メルケル首相を「エコ独裁」と批判

 Spiegel1 Spiegel2

 独RWEの社長ユルゲン・グロースマン(Jürgen Großmann)がメルケル首相の「脱原発」路線を「エコ独裁」と批判した。

 メルケル首相が7基の原発を停止したのは、「生命、健康、財産に対する危険が存在するとき」政府が原子力発電所の停止を命令できる旨を、ドイツの原子力法が定めているからである。しかしRWEに言わせれば、停止を命じられた原発は安全基準を守っており、「生命、健康、財産に対する危険」は存在しない。今回の命令は政治的な要請のもとに下されており、法的根拠がなく、したがって「エコ独裁」だというのが発言の背景である。よってこの問題は日本の浜岡原発停止「要請」とは趣が異なる。それについては以前書いた。

 グロースマンはさらに、政府は今日の決定者がもはや誰も統治していない未来に関して、脱原発の具体的な期限を定めるべきではないと主張。エネルギー転換は3年毎に見直すべきであり、そうすれば必要に応じて加速も停止もできると述べた。また、環境への配慮と経済成長の両立に関して疑念をあらわした。

 これに対してメルケルは、環境と経済は同時に配慮できると主張。また、ドイツは他国の原発電力を輸入するために脱原発を行うのではない、と確言した。

 いずれにせよ議論の焦点は定まっている。なにより「原発推進派」である電力会社の提案もそれなりに合理的で筋が通っており、双方の立場はきちんと衝突している印象を受ける。

 翻って日本は、「あれもやるけどこれもやる」「あれも大事だけどこれも大事」で、これから国をどのような方向に進めていくべきか、ビジョンを明確に語る政治家が少ない。しかしそれはおそらく構造的な問題なので、小松左京の短編小説「第二日本国」のように、政府や国会や省庁とは別なところに専門性と実効性のある活動を組織し、現在の「公」を代替していくのがよいのではなかろうか。

演劇理論(4)

 溝口雄三『公私』は、日本語の「おおやけ」「わたくし」と中国語の「公」「私」の比較研究であり、日本(語)においてパブリックやプライベートとは何かを考察する上で示唆に富む。

 溝口によれば、日本語の「おおやけ」概念には元来以下の特徴があった。

一、おおやけの場とは、諸々のわたくしが主張され利害の衝突が調整されるという場ではない。
一、おおやけの場とは、諸々のわたくし相互の間の自由な交際の場ではない。
一、おおやけの場での公事にはわたくしごとはもち出せず、ましておおやけの場のあり方に変更を迫ったり乱したりすることは許されない。
一、天皇の所為や朝廷の行事、官の諸事はすべておおやけの公事として参加し奉仕することが要請されている。
一、おおやけの場の秩序に従っているかぎり、わたくしの領域は干渉されることなく保持できる。

 以上のように、のちにわたくしを人称語とするに至った日本のおおやけ・わたくしの特性は、

一、おおやけを公然の領域、わたくしを隠然の領域とした二重の領域性によってすみわけられている。
一、おおやけ領域はわたくし領域につねに優先する。
一、わたくし領域にとっておおやけ領域は所与的・先験的であり、その場に従属するものとされている。
一、おおやけ領域は天皇を最高位とし国家を最大の領域とし、その上や外に出ることはない。

などとしてとらえられよう。
[溝口雄三『公私』、三省堂、1996年、44〜45頁]

 また、溝口によれば、このおおやけ・わたくしの「領域性」は、二重構造をもつ。すなわち、たとえば家族と町内会なら家族が「わたくし」で町内会が「おおやけ」だが、町内会と区議会なら町内会が「わたくし」で区議会が「おおやけ」、区議会と都議会なら前者が「わたくし」で後者が「おおやけ」、都議会と国会なら都が「わたくし」で国が「おおやけ」になる、というのである。したがって、「わたくし」とは何か、「おおやけ」とは何か、という問題を一貫して貫く価値観や原理は存在せず、ただ「領域的」に決定されるにすぎない、というわけである。

 溝口はこのことを否定的にとらえている。しかしながら、日本の「おおやけ」は、外部、あるいは上位の審級さえ設定できれば影響を受けるということは、肯定的に捉えることもできるだろう。

 折口信夫は『日本芸能史六講』のなかで、日本の芸能の起源を「まつり」もしくは一軒の家の「宴会」であるとしている。このまつり=宴会では、家の「外」から家内へ、客神、すなわち「まれびと」が招き寄せられる。「まれびと」の役割は「鎮魂」あるいは「反閇(へんばい)」である。

あるじはまれびとの力によつて、家又は土地に居るところの悪いものを屈服させてもらひたいといふ考へがありますが、その事をまれびとがして行つてくれます。従ってここに於てまれびとを迎へた効果が、十分にあつた、ということになります。それ故にまた、さういふことをしてもらふ為にまれびとを招く、といふ風になつて来ます。
[折口信夫『日本芸能史六講』、講談社学術文庫、1991年、26頁]

 客神を饗応することで良きものをもたらす、あるいは悪しきものを封じることが日本の「まつり」であるならば、日本の「おおやけ」を外部の導入によって更新することは、正統な「まつりごと」と呼べるのかもしれない。

 なお、折口信夫は、日本の「まつり」は「宴会」が原型であるから、この饗宴には純粋な意味での「見物」などありえなかった、と主張している。たとえば盆踊りがそうだ。まつり、芸能、演劇、これらの原型には、「純粋な観客」など存在せず、必ず「参加」するものだったのであり、それは前回まで論じてきた古代ギリシャのコロスも同様である。「純粋な観客」は演劇にとって普遍的な事実ではなく、きわめて歴史的な現象なのだ。そしてその耐用年数はもはや切れてしまっているのではないか。「観客」のあり方は不変ではない。「観客の再組織化」こそ、演劇の、そして政治の、技術の、メディアの課題になっているのである。

2011年5月24日火曜日

5/23 あらた50日










5/23 世界の使い方

 今日の「演劇的ニュース」。

1. 世界各地で情勢変動

 1)スーダン:部政府軍が係争地に進攻 南部独立直前
 2)シリア:デモ弾圧、死者900人 暴力に歯止めなく
 3)イエメン:湾岸諸国のイエメン仲介停止、サレハ大統領が署名拒否
 4)イスラエル・パレスチナ:米大統領がイスラエル占領地の一部維持容認、境界線問題で
 5)タイ:総選挙:貢献党が運動本格化 実妹擁立、タクシン氏復権かけ
 6)スペイン:与党、地方選で大敗 緊縮財政に批判
 7)ドイツ:緑の党また躍進 ブレーメン州議会選で第2党に


 世界各地で重要な動きが出てきている。

 こうしたニュースを、とてもすべては追えない、と思うことがある。それに、そもそもこれらすべてに関心をもつべきなのだろうか、とも思う。まず、好きで興味があれば放っておいても追うからよい。あとは自分の利害関心と結びつけ、役立てられるものをフォローすればそれでよいのではないか。

 もっともっと「利己的」になることが、日本のいろんなレベルで求められていると思う。「利己的」になるのは難しい。「利己的」になるには「己」を知らなければならないし、なにが「己を利する」のか知らなくてはいけない。「己」と呼べるような立場や「己」が属するコミュニティが必要になる。

 「己」を立ち上げ、「己」の可能性をリストアップし、検証し、選択し、それによってふたたび「己」を更新していく。演劇=祭=政治を実現するためには、このようにポジティブな意味で利己的にならなければいけないのである。そして利己的だからこそ、他人や他国に関心をもてるし、協力できる、ということになるのではないか。

あらたの誕生(4)

 今回はあらたの誕生から少し離れて、産婦人科に対する疑問を少々。といっても、飽くまでぼくは3つの産婦人科しか知らないので、産婦人科一般に対する批判ではない。

 「いのち」の生長と誕生はきわめて重要な、ほとんど「神聖」な出来事である。それはたしかだ。しかしながら、ぼくが経験した産婦人科では、その「神聖さ」の履き違えのようなものが何度か垣間見られた。

 どういうことかというと、われわれの通った産婦人科、特に出産でお世話になった産婦人科では、お金の話をほとんどしてくれなかったのである。「いのち」は神聖でも、「いのち」の誕生にはお金がかかる。それが資本主義だ。神聖なものの誕生を手伝ってお金を受け取ることも、手伝ってもらってお金を支払うことも、何も恥ずかしいことではない。しかしそれにいくらかかるのかと聞いても、「入院する部屋次第で変わるから」とか「どういう出産になるかで一概には言えない」と言って、結局事前に明確な指針を得ることはできなかった。これは「いのちはお金じゃない」というような決まり文句の履き違えとしか思えない。結果として、この産婦人科のサービスと費用のバランスや、不当に高額な料金を請求されるのではないかといったことに関して、事前の判断材料が欠けた。神聖な「いのち」なら不正な手続きで生まれてもいいということにはならない。それを顧客にチェックさせるのはサービス業として当然の責務ではなかろうか。

 まだある。あらたの退院予定日。午後に病院を出ることになっていたので、ぼくも朝から群馬にいた。午前中、帰るための仕度をしていると、ひとりの助産師さんが部屋に来た。彼女は突然、「お子さんは黄疸が強い。黄疸には問題ない黄疸と問題になりうる黄疸があり、お宅は後者である。まだ問題ないが、場合によっては脳に障害が出ることもある」と言う。そして、「だから赤ちゃんだけもう一日入院して治療することになりました」と言った。

 これには驚いた。「入院して治療することになりました」という決定事項として伝えられたのだ。まず入院に同意などしていないし、どれだけ深刻な状況なのか詳しい説明も受けてない。そして入院にも治療にも費用がかかるに決まっているのにそれには一言も触れてない。ただ「決まりました」ときたのである。ここには、「赤ちゃんのいのちは大切でしょうから、まさか医者の言うことに反対はしないでしょうし、ましてやお金のことなんて言う必要ありませんよね」という無意識の前提が透けて見える。これでは殿様商売である。ふっかけ放題である。資本主義の皮を被った悪質な道徳主義である。

 さいわい、事前に『育児の百科』等で勉強していたので、黄疸がほとんどの場合問題ないことは知っていた。そこで「どれほどひどい状態なのか」と聞くと、なんと実際には一日だけ基準値をやや上回ったに過ぎず、「脳に障害」などというレベルではまったくないという。では今日は予定通り退院させ、もとから予定されていた3日後の助産師検診の際にあらためて診察してもらい、そのときにまだ悪ければ入院治療としてはどうかと言うと、それでいいと言う。そんなオプションがあるならなぜいきなり入院を決定事項として伝えてきたのか。滅茶苦茶だった。予想通り、3日後の検診では黄疸のレベルは問題ない数値に下がっており、あらたはひとりで入院して日焼けサロンみたいな機械に一日閉じ込められて光を当てられミルクだけを飲まされるという経験をしないで済んだ。

 この助産師さんは退院直前にもう一度病室に来て、「実は自分がこの病院に来て以来、『入院させませんか』という勧めを断られたのは初めてだった。なにかわたしの言い方が悪かったのか。気付いたことがあったら教えてほしい」と言ってきた。これも驚いた。どう考えても、1)親の方に準備が足りず医者の言いなりにならざるをえない、2)子供は大切だから、本当に必要か否かに関わらず勧められたら念のためすべて受け容れる、お金は気にしない、3)断ると子供のいのちを大切にしてないように思われそうで断れない、のどれか、もしくは複数が理由だろう。助産師さんの言い方がよいも悪いもない。入院させる必要がないものを入院させないのは当然ではないか。

 子供の「いのち」の「神聖さ」を盾にとったような道徳主義的殿様商売は、程度の差はかなりあるものの、3つの産婦人科のすべてに見られた。しかし実際問題として出産にはお金がかかるし、生まれてからもお金がかかる。それに同意できなければ子供の誕生に関わってはならないと思う。その事実と産婦人科の実態は乖離している。まるでお金が存在しないかのようにすべてがまわっていくのである。こうした悪しき道徳主義は透明性の担保された出産プロセスへと移行すべきである。今後も必要があれば小児科等でこのことを主張しようと思っている。

5/22 それが問題なのか

 昨日の「演劇的ニュース」。

1. 君が代不起立「複数回で免職」 橋下知事が処分条例案

 1)朝日新聞:君が代不起立「複数回で免職」 橋下知事が処分条例案
 2)ロケットニュース24:橋下知事、君が代不起立教員に激怒
 3)企業法務ナビ:職権濫用か世紀の英断か・・・橋下知事の「君が代起立」条例案
 4)内田樹ブログ:国旗国歌と公民教育
 

 正直、この問題には関心がない。ぼくが読んだり聞いたりするもののなかでは「反対派」が圧倒的多数。「思想良心の自由」とか「表現の自由」とか、とにかく憲法違反で人権侵害であるという主張らしい。ぼくがかじった憲法学の知識では、これは思想良心の自由の問題でもなければ表現の自由の問題でもない。そしてこうした条例を違憲と判断するのはなかなか難しいように思う。免職という処分が適当か否かを争えるくらいではなかろうか。

 しかしそんなこともどうでもいい。ぼくは基本的に「日の丸・君が代」問題には一切関心がない。ぼくは個人的に「日の丸・君が代」にいい思い出も嫌な思い出もまったくない。一方で、他に嫌だったことはいくらでもある。教師が殴ったこととか、体育の種目が選択じゃなかったこととか、歴史の授業が古代から始まるおそろしくつまらないものだったこととか、英語がくだらない教え方だったとか、無数にある。

 「日の丸・君が代」なんてどうでもいい。「日の丸・君が代」の強制に反対している現場の教師たちは、教科書検定制度や各科目の教え方についてもきちんと国や自治体の指導に反抗しているのだろうか? 教育現場でもっとも重要なことは教育である。「日の丸・君が代」に反対することも教育的効果があるかもしれないが、そんなことより歴史や国語や社会の授業をどうにかしてほしい。「日の丸・君が代」が日本の教育界の問題ではない。それがクローズアップされても意味がない。

 本当の問題ではないことを問題として焦点化してしまい、争うのは無益である。不毛である。そんな議論の勝ち負けはどうでもいい。ぼくは子供の日々の生活と未来のために働き、活動している教師は応援したいが、教師自身の「思想良心の自由」や「表現の自由」にはまったく関心がない。いいも悪いもなく、関心がない。

 日本は「本当に大事な問題」を精選する能力、精選する仕組みが脆弱な国だ。「質の高いスペクタクル」は可能なはず。「本当に大事な問題」を精選する能力と、それをスペクタクル化する能力。その二つがどこにも同居していない。それでも可能性はやはりインターネット上にあるのではなかろうか。

2011年5月22日日曜日

ドイツ語(4)

 ドイツ語を読むときに重要なのは、「即物的に読むこと」である。つまり書いてあることを、書いてある通りに読む。文章を読み慣れないうちは、知っている2、3の単語の意味をつなげて文の意味を勝手に解釈することがよくある。文章を「自分のもの」にしてしまうのである。しかしそうした強引な読みは誤読を招きやすい。文章を読む力も向上しづらい。言葉は「物」である、という認識が必要だ。言葉は「物」であり、言葉は「他者」である。自分のなかに容易に取り込んでしまっては、その真意や可能性を縮減してしまう。「物に即して読む」とは、「物」と「わたし」の「あいだ」に読みを成立させることである。「物」を「物」たらしめなければ読めないし、「わたし」も「わたし」でなければ読めない。両者の「出会い」を待たなければならないのである。

 これはドイツ語の文章だけでなく、ひとや出来事、あるいは研究や取材に関しても妥当するのではなかろうか。

5/21 復興増税?

 本日の「演劇的ニュース」。

1. 復興増税?

 1)日本経済新聞:復興会議、増税検討で一致 「復興債」償還の財源に
 2)NHKニュース:復興増税 反対が賛成上回る
 3)三橋貴明:「復興増税」か「インフレ」か
 4)岩田規久男:震災からの経済復興
 5)岩田規久男:増税なき復興計画のすすめ

 
 素人には最も判断のつかない問題は経済政策。今回もどれがベストな選択肢か、最初はよくわからなかった。

 しかし東日本大震災を経て、「有事」に備えてひとびとが無駄な消費を控え続けるのではないかということは想像に難くない。そこに増税が重なれば、ますます必要なもの以外は買い控えられてしまうのではないか。増税なしで復興できるにこしたことはないと思う。国債増発に関する岩田規久男氏の理論にはたいへん刺激を受けた。自分には馴染みがなかったので今後さらに勉強したい。

 経済政策は、「選択と決断」の問題ではなく、ベストな解が論理的に導き出せると思われているがゆえに素人にはわからない。個々人の生活にダイレクトにつながる方策が、正しいも不正も、納得も不満も、とにかく最初から「よくわからない」というのは、たいへん重大な問題だと思う。

 それにしても、経済の専門家のいない「復興会議」が増税の検討を決定するというのはどういうことなのか。ひとは自分のわからない分野で他人に影響を及ぼす決定をしていいのだろうか。

 経済のことは演劇的にもたいへん考えづらいことがよくわかった。結局のところ、演劇というものがひとつの解を出すためのモデルではないからだろう。

2011年5月21日土曜日

書類(3)

 先週チェックした書類を少しずつ進めた。

 翻訳の事務作業も進めている。

 あともう一つ大事な書類を今から書く。

 書類関係は放っておいたらやらないので、カレンダーに作業日と具体的な時間を書きこんでしまうのがよい。

5/20 フォン・トリアー

 昨日の「演劇的ニュース」。

1. ラース・フォン・トリアー監督、ナチ擁護発言にカンヌ映画祭から緊急追放

 このニュースに関してドイツの反応を集めているが、「映画祭が追放した」という事実の報道ばかりである。発言のどの部分が、あるいは何が問題だったのかを論じるレベルでさえないということなのだろうが、もう少し詳しく評価しているものを発見したら追ってまた取り上げたい。


村上春樹(3)

 村上春樹の創作に関して重要なことは、彼が常に「学ぶ姿勢」をもっている、ということである。

 村上は『翻訳夜話』において、自分がポール・オースターを翻訳しないのは、オースターから文学的・文章的に学ぶことがないからだと語っている。また、『ノルウェイの森』を書いたのはリアリズムの手法を一度きっちり通過する必要があったからだという意味のことも、どこかで発言している。

 こうした形式的なことだけではない。彼の作品群にあらわれる変化は、そのひとつひとつがすべて意味あるものである。たとえば、登場人物に名前がなかった初期作品から名前があらわれることの変化。あるいは独身男性の物語から夫婦の物語への変化(『ねじまき鳥クロニクル』)、さらには子供の物語(『海辺のカフカ』)、また妊娠の物語への変化(『1Q84』)。

 『ねじまき鳥クロニクル』の核心部分にありながら示唆にとどまっていた「妊娠」のモチーフが、『1Q84』では前景化される。おそらく『ねじまき鳥』の時点ではまだはっきりと扱うことができず、その後の創作と思索を経て『1Q84』で辿り着いた、ということなのだろう。

 村上春樹は非常に論理的で合理的だ。自分の現在地をはっきりと自覚し、そこから次にとるべきコースを判断し、必要なトレーニングをみずからに課す。とても身体的、肉体的だ。体力が続くところまで行き、次の課題を見出す。抽象的に、肉体を離れて、一気に遠くまで行こうとしない。論理と労働と進歩を実践している作家なのだ。

5/19 パフォーマンスと喝采

 19日の「演劇的ニュース」。

1. 電力事業:菅首相、発・送電の分離検討 保安院独立も

 1)Bloomberg:菅首相:地域独占など電力供給の在り方議論する段階来る
 2)毎日新聞:電力事業:菅首相、発・送電の分離検討 保安院独立も
 3)時事ドットコム:自民にも発送電分離論=若手ら主張、谷垣氏及び腰
 4)読売新聞:電事連会長、「発送電分離」に否定的見解
 5)池田信夫:発送電の分離はエネルギー産業のイノベーションを生み出すか
 6)河野太郎:東電の国有化


 例によって「政治的パフォーマンスだ」などと批判されている、発送電分離の提案。

 現代の民主主義の困難は、「世論」の「喝采」を得なければ政治家は活動を続けられない一方で、個別の課題は「喝采」するかしないかを一瞬で決められるほど単純ではない、ということだろう。発送電分離のメリットが大きいとしても、それをいかなる法的枠組みで行うのか、政治はいかに官僚や電力業界との折り合いをつけるのか、複雑である。

 だからといって知識と技術を備えた一部の「選良」に政治と行政が委ねられるべきだとは、絶対に思わない。

 むしろ、この「提案→喝采or野次」というサイクルをさらに増加させるべきではないか。一見複雑な課題でも、個々の部分をみれば理会不可能ではない。問題を解剖し、ネットを活用して情報提供し、さらにそれに対するフィードバックを可視化するような恒常的な仕組みを整備すれば、政治は「民意の喝采」をテコに官僚や経済界を動かせるのではないか。

 要するに、今は一瞬の点でしかない「喝采」を「時間化」するのである。「民意の喝采」が一瞬の点にすぎないからこそ、そのあとの具体的な法的枠組みに官僚が利権構造を組み込んだり、経済界の意向で細部が変更されたりするのではないか。また、「民意の喝采」が一瞬の点にすぎず、恒常的なチェックになっていないからこそ、政治家は責任をとらないでも追求されないのではないか。

 今日は議論が粗くなったが、個人的にはパフォーマンスおおいに結構と思う。しかしそれを「一発芸」ではなく「パフォーマンス」として「作品化」するためには、「パフォーマンス」は時間的な持続と一貫性をもち、目的を達成しなければならない。そして「観客」の視線と、場合によっては激しい野次に、常にわがみをさらしておかねばならない。それが「パフォーマー」というものだろう。パフォーマンスとは一発芸をやってから舞台裏でもぞもぞ動くことではない。政治家が真のパフォーマーとして振舞わざるをえないような枠組みを、新しい「劇場」を、つくっていかなければならない。

クライスト没後200年(3)

 2011年11月4日〜21日まで、ベルリン・マクシム・ゴーリキー劇場で「クライスト演劇祭」が開催される。

 戯曲作品すべてと短編小説のいくつかを舞台作品として鑑賞できる。『アンフィトリュオン』『こわれがめ』『ペンテジレーア』『光子フリードリヒ・フォン・ホンブルク』をゴーリキー劇場のレパートリーから上演し、『戦争』と題する『ロベール・ギスカール』と『ヘルマンの戦い』を組み合わせた作品がミュンヘンのカンマー・シュピーレによって客演される。その他、『チリの地震』、『ハイルブロンのケートヒェン』、『シュロッフェンシュタイン家』が新作上演される。

 講演、セミナー、コンサート、野外上演、リーディング、映画上映、ワークショップなども企画されているという。クライスト没後200年の企画の中でもっとも大規模なものである。

Kleist Festival(英語)

KLEISTFESTIVAL AM MGT(独語)

Kleistfestival am Maxim Gorki Theater Berlin(独語)

(以下引用)

Das Maxim Gorki Theater Berlin fühlt sich, insbesondere seit der Intendanz von Armin Petras, dem Schaffen von Kleist verpflichtet; das spiegelt sich in der Präsenz seiner Dramen im Spielplan, wobei die thematischen Verbindungen zu aktuellen politischen und gesellschaftlichen Fragen im Vordergrund stehen.

Kleists weltanschauliche Überzeugungen speisen sich aus den Diskursen seiner Zeit: aus den Idealen der Aufklärung, ihrer philosophischen Kritik, den Wirren der französischen Revolution und ihren politischen Auswirkungen auf Preußen.
Einstürzende Welten und Weltbilder begreift Kleist als Chance für einen Neuanfang - dem er jedoch nie trauen würde. Selbst Frieden ist für ihn nicht mehr als ein Waffenstillstand.

Für Kleist gibt es keinen Unterschied zwischen dargestellter, gedeuteter und tatsächlicher Welt, Kunst und Leben lassen sich nicht trennen. In seinen Werken zeichnet er eine nicht zu entschlüsselnde, verwirrte Welt, ein "gebrechliches" Sein, das sich einer logischen Erklärung oder Erkennbarkeit entzieht. Diese Weltsicht macht ihn und seine Kunst bis heute gegenwärtig und brisant.

Kleist-Festival am Maxim Gorki Theater Berlin
Veranstaltungsort und -zeitraum:
Maxim Gorki Theater Berlin
4. - 21. November 2011

Kurator:
Arved Schultze
Produktionsleitung:
Julian Kamphausen

2011年5月19日木曜日

5/18 変化と演劇

 昨日の「演劇的ニュース」。

1. 日本のこれから

 1)堀江貴文×東浩紀「日本に止まること、日本を離れること」

 2)堀江貴文×池田信夫「結局、世の中を変えるのは技術革新しかない」

 3)宮台真司「「どう生きるのか」という本当の問いに向き合うとき」


 上記の記事に共通するのは、「日本は変化を望まない社会である」という認識だ。「出る杭は打たれる」、「今さらやめられない」、「天皇制が続く事を誇りに思ってみたり、とにかく長続きする会社が一番良い会社だと思い込んでいる」…。変化を望まない社会に変化をもたらそうとするとき、いくつかの選択肢が考えられるなかで、これらのインタビュー・文章の著者たちは、各自がそれぞれ独自の路線を選択している。

 変化には、どうのような可能性があるだろうか。演劇は、変化のためのメディアであったことは歴史上少ないと思う。しかし「更新」のためのメディアであり、「想起」のメディアであったことは間違いない。急激な変化ではなく「更新」、新しいものの導入だけでなくかつて存在したものの「想起」(しかし懐古趣味的でないそれ)。そうした機能によって、演劇は世の中に変化をもたらすことができるはずだ。それはもちろん劇場の中で行われる必要もないし、演劇として認識される必要もない。重要なのは「演劇による変化」ではなく、「変化の演劇的可能性」である。「変化の演劇的形態」である。

クライスト(3)

 「クライストの演劇理論」のようなかたちで考えをまとめていくつもりだったがどうもうまくいかない。やはりもっと個別のテクストに近づいたほうがよさそうだ。今後はふたたびそちらの方向へ進もう。

2011年5月18日水曜日

5/17 結果からプロセスへ

 17日(火)の「演劇的ニュース」。

1. 原発事故調査委員会問題

 朝日新聞:原発事故、年内にも中間報告 菅政権が収束に工程表

 河野太郎ブログ:国会の下に事故調査委員会をつくれ


 重要なのは結果ではなくプロセスである。恐ろしいのも結果ではなくプロセスである。なぜならプロセスが結果を生むのだから。この点に関する意識が「権力のチェック機関」としてのメスメディアに欠けているように思う。

 政府は、東電の福島第一原発の事故調査委員会を政府の下につくろうとしている。しかし政府の働きをチェックする機関を政府が設立し、政府の働きをチェックする委員を政府が任命するとき、そんなチェック機関は信頼できるだろうか。河野太郎氏はその点を指摘している。当然の指摘だと思う。

 ところで、こうした点になかなか敏感になれず、事故調査委員会が設立されるという結果だけを見てしまいがちになるのは、マスメディアの能力・体質の問題だけでなく、「日本語」の問題であるとも考えられる。朝日新聞の記事には以下のようなくだりが含まれている。

「事故の調査・検証」の項目では、国際原子力機関(IAEA)と日本政府のそれぞれの調査をもとに、6月20~24日に開かれる予定のIAEA閣僚会議で結果を公表する方針を明示。それとは別に、原子力専門家ら10人程度でつくる事故調査特別委員会を5月中にも立ち上げる。事故原因の究明や再発防止に向けた検証を進めてステップ2が終わる年内にも中間報告をまとめる。

 首相は委員会について(1)従来の原子力行政からの独立性(2)国民や国際社会への公開性(3)制度や組織的なあり方を含めた包括性の3原則を提示。中間報告作成の際、経済産業省原子力安全・保安院や内閣府原子力安全委員会など複数に分かれた原子力行政の是非も論点とし、その後の見直しにつなげる狙いだ。

「原子力専門家ら10人程度でつくる事故調査特別委員会を5月中にも立ち上げる」という文章を書いたひとは、英語なりドイツ語なりの外国語をまともに身につけたことはないだろう。どこでそれがわかるかと言えば、この文章には主語がないからである。「誰が」特別委員会を立ち上げるのか。日本語はそれを明確にする必要がない。次の段落に「首相は委員会について」と書いてあるから、間接的に首相が立ち上げるものと推測されるが、まったく主語が不明確な文章である。

 日本語がこうした言葉だからこそ、常に「行為」という「結果」ばかりがクローズアップされる。委員会が立ち上げられたとか、悪が裁かれたとか、お金が流れたとか。こうした事態に接すると、グローバリゼーションも英語化もまったく結構だと思ってしまう。プロセス、主語、責任の所在を明確に問題化できる言語が言論には不可欠なのだから。

演劇理論(3)

 最近では、毎日更新している「演劇的ニュース」(日付が入っている記事)でも、「共同体」、「コミュニティ」、「公共性」といったものを問題とすることが多い。

 ただやはり、ギリシア悲劇だのポストドラマ演劇だのと言っていても、少し遠すぎるという感覚が常にある。日本の現状を考察し更新していくためのアイディアに熟すような種ではまだない。

 これまで2回で論じてきた「コロス」について、また「個人と集団の関係」や「純粋な観客など存在しない」という観点、さらには「観客をコロスとして組織する演劇」に対する関心を、来週からの残り2回でもう少し日本の文脈に引き寄せて考えてみたい。

5/16 利害としての責任

 16日(月)の「演劇的ニュース」。

1. 福島第一原発事故検証

 橋本努氏による以下の3つの文章を読んだ。

1)東京電力福島第一原発の何が問題だったのか ―― その行政手続きを考える

2)原発に責任、持てますか? トップをめぐる「政治」と「科学」

3)東京電力福島第一原発の何が問題だったのか 検証その2

 1と3には最後に要約がまとめられているので、それぞれ以下に引用する。

(1) 国は、安全政策の主導権をとっていない。事故が起きても、それを教訓に生かすことができない。
(2) 原発のある地域の地元経済は、自立できない。30-40年単位で考えると、また新たに原発をつくらなければ、やっていけなくなる。
(3) 国の役人には、顔がない。後で非難されても、人事異動を通じて、答責性を免れることができる。
(4) 内部告発をうまく生かすことができれば、原発の安全性は改善され、県は原発の稼動と停止を制御することができる。
(5) 使用済み核燃料の処分方法については、だれも実効的な案をもっていないにもかかわらず、政府は新たな原子力政策の指針を立てている。
(6) 原発の耐震指針改定をめぐる立法手続きは、十分に機能しなかった。

東京電力福島第一原発は、
(1)1978年に臨界事故を起こしていた。
(2)大丈夫とされた震度4にも耐えられなかった。
(3)別の地震では、使用済み核燃料プールの水が漏れた。
(4)コストを気にして、多くの損傷を隠してきた。
(5)国も偽装に関与していた。
(6)下請け業者に偽装工作させていた。
(7)チェック機能が長期にわたってマヒしていた。
(8)内部告発によってはじめて、放射性物質漏れが発覚した。
(9)コンクリートの強度は弱められていた疑いがある。
(10)データの改ざんは、2002年以降も繰り返され、企業風土の問題となっていた。
また保安院は、
(11)行政不服審査に対して十分な対応をせず、
(12)40年をこえる原子炉の稼動を認めていた。


 ほとんど日本の「無責任の体制」は変えようもないものに思えてくる。少なくとも、行動原理が「責任」や「倫理」ではなく「利害」であることがよくわかる。

 そうであるならば、もはや「責任」を履行するように制度やチェック体制を整えることよりも、「責任」を細かい「利害」として達成できるような仕組みに組み替えることを目指すべきではないだろうか。

 たとえば、橋本氏の論文2を読むと、福島県と地元だけは原発問題に関して正常な切実さを示していたことがよくわかる。当然だろう。健康被害、経済的被害、避難や移住といったさまざまなコストを抱えている当事者なのだから。このように、ある問題に対してできるだけ「近い」立場にある者たちやコミュニティに「利害としての責任」を分散していくのが、今後考えられる唯一の可能性だと思う。少なくともわたしは社会の仕組みや単位を変えることなく、ただ各方面に「更生せよ」と叫んだところでどうにもならないと考える。

 この「利害としての責任」問題に関してもっとも厄介なのは、言うまでもなく官僚である。この点に関して、橋本氏の論文1は非常に示唆に富む。

最大の問題は、ウルリッヒ・ベックなどのいう「サブ政治」の性質にあるだろう。「サブ政治」とは、メインの政治である「議会制民主主義」を経ないで、もっぱら技術官僚たちの判断によって国策が決められるような意思決定のあり方である。

官僚は、本来であれば、政治のための下僕である。政治家によって立案された政策目標を承って、これを遂行しなければならない。ところが「サブ政治」においては、技術的に高度な知識をもったエリートたちが、非民主的な仕方で政治を行い、重大な政策を導く。たとえば、原子力エネルギーの開発は、それがいったん国策とされれば、民主的な議論を経ずに、技術官僚の手によって進められてしまう。そこにはいわば、国家独占資本主義体制が形成され、民主的な制御が利かなくなってしまう。

すると、どうなるか。サブ政治は、うまくいくかもしれない。技術官僚(電力会社、原子力安全委員会、保安院などの担い手たち)が、科学的にも政治的にも有能であれば、うまく機能するかもしれない。だがわたしたちは、科学と政治という、このふたつの資質に恵まれた技術官僚を、つねに登用しつづけることができるのだろうか。制度的に問われるべきは、この問題である。

[…]

ウェーバーによれば、学者(科学者)と政治家は、まったく異なる資質を必要としている。学者(科学者)は、知的に誠実でなければならない。都合の悪い真実から、眼をそむけてはならない。これに対して政治家は、道徳的に悪い手段を用いてでも、事柄(政策目標)に対して献身しなければならない。人を欺いてでも、善き結果を求め、そして実際に生じた帰結に責任をもたなければならない。

ところが、どうであろう。「サブ政治」においては、これらふたつの資質が、同時に求められている。技術官僚は、一方では学問(科学)の進歩を担いつつ、他方では国策のための政治を担わなければならない。いったいわたしたちは、このふたつの倫理を、一握りの技術官僚に求めることができるのだろうか。

 しかも、技術官僚は、「責任」から逃れられるような仕組みのなかで動くのである。わたしは、中央政府の官僚は、中央政府にとって切実な、中央政府に「近い」問題だけを担当するようになるべきだと考える。

 直接の利害関係者ではない登場人物が事態に対して決定的な影響を与えるというのは、古典的な演劇の概念では理会が難しい。こうした事態を「ポストドラマ演劇」と呼んでもいいのかもしれない。

あらたの誕生(3)

 4月4日(月)の夜から5日(火)の朝にかけて、妻の陣痛はある程度強まったが、出産に十分な程ではなかったらしい。5日午前9時ころ、陣痛促進剤の点滴投与開始。少しずつ量を増やしていくという。記憶が確かならば、9時半ころに少し増やし、10時半にさらに増やした。

 その間ぼくはずっと横にいたわけだが、出産というのは「さあこれから産みます」という「イベント」ではなく、なだらかな「プロセス」であることが、最後の最後であらためてよくわかった。

 陣痛促進剤は確実にその効果をあらわし、妻の陣痛は強まっていった。痛みで呼吸がうまくできなくなったり、「体を反らすな」と言われても痛いから反らしてしまったりする。助産師さんがリズムをとったり注意してくれるが、彼女は子供のほうを見ているわけだから、呼吸をつくったり、姿勢がうまくとれるように助けるのは、状況からしてぼくの役割だった。そうして30分、1時間、2時間とずっと目の前のひとと同じように呼吸し、リズムを合わせるというのは生まれて初めての体験で、何度か頭が真っ白になり、倒れてしまいそうになった。が、もちろんぼくが倒れても仕方がない。それにしてもあの時間は、自分が消えて目の前のひととの境界がわからなくなるような、人生で初めて経験する時間だった。「同化」という言葉があとで浮かんだ。

 呼吸や姿勢や汗や痛みや叫びや握力や爪や何やらでわけがわからないうちに、突然目の前に「あらた」は出てきたのだった。その瞬間の写真や映像はもちろんないが、彼の姿勢や表情や声を完全に覚えている。決して忘れないと思う。たいへんすばらしい瞬間だった。2011年4月5日(火)午前11時43分だったらしい。

 その日の夕方、群馬から東京に戻る新幹線の中で書いた文章はこちら
 
[続く]

5/15 複数論理の(未)衝突

 15日(日)の「演劇的ニュース」。

1. 国民負担で東電救済か?

河野太郎ブログ:政府与党案をぶっつぶせ

池田信夫ブログ:東電の分割で賠償原資を

池田信夫ブログ:電気代を上げなくても被災者の補償はできる

池田信夫ブログ:賠償スキームの謎


 アンティゴネーとクレオンの対立、つまり「死者を埋葬すべきだ」「すべきでない」というような対立であれば、誰にでもその「問題の所在」は理会できるし、感覚的に判断を下すこともできる。「Yes or No」「友か敵か」の二項対立は、その意味でやはり公共圏を形成する有効な手段である。

 「東電をいかに賠償すべきか」という問題の場合は、どうだろうか。「国民負担」や「被害者への賠償」、あるいは「日本経済の安定性」を軸に「Yes or No」の二項対立をつくれば、問題はより明確化するのだろうか。しかし問題の所在が明確化したところで、わたしのような一「コロス」はどうしたらいいだろう。

 今回の出来事を通じて明らかになっている「古典的演劇的事実」は、世の中には複数の論理がある、ということだ。国家の論理、組織の論理、個人の論理。しかも、国家は「国家の論理」を、まるで「個人の論理」であるかのように装い(=国家にとって最善の選択が国民一人一人にとっても最善であると装い)、個人は「個人の論理」を、そのまま「国家の論理」に延長できるかのように考えている(=わたしは値上げが嫌だから、国家も値上げを容認するな)。

 そこでは、複数の論理が複数の論理として、「ドラマ的に衝突する」ことがない。国家の論理も、組織の論理も、個人の論理も、すべてが曖昧に混じり合って議論されている。もしかすると、アテネにとって演劇とは、複数の論理を複数の論理として切り分けて理会するためのトレーニングだったのかもしれない。

 ドイツ語にUrteilという言葉がある。「判断、判決、審判」という意味だが、もともとは「一番最初の分割」という言葉である。「分かる」ためには「分ける」が必要であり、判断し、審判を下すためには、分けるべきものは分けておかねばならないのではないか。

ドイツ語(3)

 自分が翻訳者であることもあり、つい翻訳の楽しさや効用を説くことが多いのだが、語学は翻訳ばかりでもうまくない。関口存男は「翻訳していて実力が上がるうちは、その程度の実力だということだ」ということを書いている。その通りと思う。自分のことを考えても、ドイツ語の読み、書き、聞き、話しができるようになったのは、ドイツ語の海にたっぷり浸かって、いちいち日本語に訳したりしていない時期だった。

 少しでもいいから日々ドイツ語に触れ、「ドイツ語の世界」を自分のなかにつくるとよい。辞書を引く必要はない。自分だけの読書に正解も誤読もありはしないのだから、好きなものを好きなだけ、好きなように読めばよい。

2011年5月15日日曜日

5/14 スペクタクル再考

 昨日の「演劇的ニュース」。

1. 各地で復興イベント

 読売新聞:復興ムード高まれ

 TRAVEL VISION:福島で復興イベント開催へ-来場が「何よりのチャリティ」

 TBS NEWS:復興支援、高円寺阿波おどり開催

 ほかにも復興イベント関連の情報はネットでいくらでも手に入る。

 こうしたニュースをテレビで見て思ったのは、危機に際して「イベント」を立ち上げるのは圧倒的に行政なのだな、ということ。

 ナチスとかいろんな経緯があって、知的と言われるような演劇では、「スペクタクル」が批判されてきた。でも「スペクタクル」を批判してきた演劇こそ、場合によっては「スペクタクル」を組織できなければいけないのではないか。なぜなら、結局は必要に応じて社会のなかで「スペクタクル」は生まれていくのだ。「スペクタクル」批判を踏まえた「良質なスペクタクル」を提供することができれば、それこそ歴史と社会と演劇の関係を踏まえた成果になるはずだ。「スペクタクル」がいくら批判してもなくならないものなら、それを良質なものに変えていくほうが生産的ではないか。

 風評被害対策、自粛ムード打破、義援金集めに役立つような「スペクタクル」を、演劇や美術が行政から委託され、実際に行政が行うよりも効果をあげる社会。行政がつまらない「スペクタクル」をちょこちょこ仕掛ける社会よりも、それはずっとましなのではなかろうか。

書類(2)

 書類関係、全然やってない!

 来週までにはやろう…。

 奨学金返還期限猶予願通訳案内士試験願書。さらに日本学術振興会特別研究員RPD(締切間近)。そして日本学術振興会特別研究員PD(締切は7月上旬)。DAADの準備も始めてもいいかもしれない。

 今日からがんばろう…。そうしよう…。

2011年5月14日土曜日

5/13 劇場と野次

 昨日の「演劇的ニュース」。

1. 政府、原発賠償策を決定

 河野太郎ブログ 読売新聞 日経新聞 東京新聞 毎日新聞

 正直、まったく意味がわからない。ぼくだけわかってないのか、みんなわからないのか知らないが、この「賠償策」の意味がまったくわからない。

 「東電以外でも、原発を持たない沖縄電力を除く8電力会社と日本原子力発電の計9社が機構に負担金を拠出することを義務づけた」という。なぜこんなことが可能なのか? これらは私企業だ。どうしてこんな介入ができるのか? それこそ憲法違反ではないのか? 直接責任のない会社が他社のために賠償金を負担するなんて資本主義ではない。意味がまったくわからない。

 さらに「官房長官、銀行に債権放棄促す」とのこと。これも企業だ。「法人」だから、ひとつの人格だ。この「ひと」にとっては何億円もの借金が突然生じることになる。立憲民主制国家でこんなことが許されていいのか? 東京である劇団が大きな事故を起こして賠償が必要になったとき、九州の劇団にも負担義務があるなんて政府に言われたら納得できるのか。意味がまったくわからない。

 「国民負担の極小化」などと聞こえのいいことを言うが、常にこうして「一番エライひと」(政治家にとっては国民)の顔色をうかがい、「あなた様にご迷惑はおかけしませんから」と平身低頭し、それ以外の面ではプロセスも将来への影響もあったものではない、というのが日本という国なのか。意味がわからない。

 ところでしかし、それよりもなによりも重大なのは、この「意味がまったくわからない」ということを有効に示す回路をぼく自身が身近に思いつけないということだ。山本七平の『「空気」の研究』を思い出す。

舞台とは、周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり、その設定のもとに人びとは演技し、それが演技であることを、演出者と観客の間で隠すことによって、一つの真実が表現されている。端的に言えば、女形は男性であるという「事実」を大声で指摘しつづける者は、そこに存在してはならぬ「非演劇人・非観客」であり、そういう者が存在すれば、それが表現している真実が崩れてしまう世界である。だが「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界、その情況論理が設定されている劇場という小世界内に、その対象を臨在感的に把握している観客との間で“空気”を醸成し、全体空気拘束主義的に人びとを別世界に移すというその世界が、人に影響を与え、その人たちを動かす「力」になることは否定できない。従って問題は、人がこういう状態になりうるということではなく、こういう状態が社会のどの部門をどのように支配しているかと言うことである。 [文春文庫、161−162頁、強調は引用者]

 「その女形は男だ」と言いたくても、どこでどう言えば意味があるのかわからない。どうすれば効果的な「野次」を飛ばし、「水を差す」ことができるのか。どうすれば「非演劇人・非観客」になれるのか。「非演劇人・非観客」とは、「劇場」の外にいるひとではない。「劇場」の中にいるからこそ「非演劇人・非観客」になれるのだ。どうすれば「劇場」に入ることができるのか。「劇場」はテレビの向こうにしか存在せず、自分が「劇場」の中にいるという感覚をもつことさえできないひとは多いのではなかろうか。

村上春樹(2)

 村上春樹の作品には、初期から一貫したテーマがみられる。それは「物語」である。彼の作品は「物語」についての物語になっている。

 「物語」は単純な善ではない。むしろ両義的なものである。ひとつの「物語」がひととひとを結びつけることもあれば、誰かを決定的に損なうこともある。『ねじまき鳥クロニクル』において、無痛覚症の加納クレタを救ったのは綿谷昇の一見「邪悪」な物語だった。だから絶対的な悪など存在しない。それは反応と効果の問題である。

 オウム真理教との関わりを踏まえてなお、村上春樹は『1Q84』の教祖を絶対的な悪として描いてはいない。しかし邪悪でない物語が邪悪な結果をもたらすことがある。「物語」と「悪」こそ、彼の作品が与える最も困難で豊穣な「思考の糧」のひとつである。

2011年5月12日木曜日

5/12 何を忘れないか

 本日のニュース。

1. 91歳の元ナチス看守に禁錮5年

 時事ドットコム 独Spiegel

 ドイツ・ミュンヘン地裁は今日、ジョン・デミャニューク(John Demjanjuk)被告(91)に対して、ナチ戦犯であるとして禁錮5年の有罪判決を言い渡した。デミャニュークはソビボル強制収容所(ポーランド東部)の看守として、少なくとも27900人の(主にオランダ出身の)ユダヤ人殺害に関わったとされている。

 デミャニュークに対して特定の犯罪行為が実証されたわけではないが、ソビボル強制収容所自体が計画的虐殺に使われていたため、そこで働いていた者は全員有罪である、という論理のようだ。「被告は絶滅機械の一部分だった」とアルト判事は述べた。

 デミャニュークの弁護士ウルリッヒ・ブッシュ(Ulrich Busch)は、戦後ドイツがナチの高官を無罪放免にした結果、今に到るまで司法はその埋め合わせをせねばならず、デミャニュークはそのための「生贄の山羊」としてこの裁判にかけられたのだと主張した。ブッシュは今回の判決を「司法の願望」と批判している。

 被告側は証拠が捏造されたと無罪を主張しており、控訴する方針。

 それにしても、このデミャニュークというひとは、もともとウクライナ人で、赤軍の兵士だったところをドイツ軍の捕虜になり、強制収容所の看守として雇われたとのこと。検察側はこのような犯罪に加担させられるようであれば逃亡を企てるべきだったと主張したらしいが、逃亡して捕まったら死刑になっていた。その意味で、この仕事には半強制的に従事させられたのだという弁護側の主張も理会できる気がする…。もちろん半強制的なら無罪ということにはならないのだろうが…。

 ナチ戦犯に対するドイツの態度は、ビンラディン殺害を報告した際のオバマの発言「私たちが決して忘れないと言ったときは、必ずやり遂げる」を思い出す。「わたしたち」は何を忘れないのか。あるいは何を忘れないことにするのか。それが正当か不当かは意味のない問いだ。忘れないという事実性が問題なのだから。何か忘れないものがあるからこそ、それを基礎として未来を構築できる。「忘れない」というのは物事の根拠であり、正義も悪も関係のない、「時間」を打ち建てる力だ。

クライスト没後200年(2)

 クライスト没後200年を前にした昨年2010年、伝記映画「Die Akte Kleist(クライストの記録)」が制作された。すでにDVDが手に入る。

 クライストとヘンリエッテ・フォーゲルがヴァンゼー湖畔で心中を遂げるまでの25時間。それを当時の警察調書等をもとに俳優たちで再現しながら、同時にナレーションと映像でクライストの生涯を振り返る。クライストが旅したヨーロッパ各地の今日の様子が数多く映し出され、目を惹きつける。

 当時の政治的状況に深く巻き込まれた人物としてクライストを描き出し、その死についても敢えて謎を投げかけるような構成になっていて、視聴者を楽しませるつくりになっている。映像のテンポが早すぎのが気になったが、一つ一つはどれも非常に美しかった。映画は全体で52分。長さとしても見やすくなっている。

 こうした今日の趣味嗜好に合わせてつくられた映画を日本でも紹介できれば、クライストに対する関心が増してくると思う。字幕翻訳なら2週間くらいでできるのだが…。








5/11 「参加」組織の政治性

 昨日読んだ記事の中では以下が非常に面白かった。

「非リア充」のアルカーイダからアラブ革命の「リア充」へ

 どうも日本人は、「反米武装勢力とは、絶大な統率力を持ったボスキャラが支配する邪悪な組織」、と考えがちらしい。ビン・ラーディンが米軍に殺害されて、一週間。「これでテロ集団アルカーイダも終わりだ」と、勧善懲悪映画のラストを見るようなはしゃぎ方が、日本のメディアに見られる。

 米政府がはしゃぐのは、よくわかる。オバマはブッシュが始めた泥沼の「対テロ戦争」に「勝った」と宣伝できるし、9-11後、米国が抱えてきたトラウマからの卒業というイメージを、国民に提供できる。なによりも9-11後10年にあたる今年の中間選挙には、使える材料だ。

 しかし、アルカーイダと呼ばれるネットワークは、ビン・ラーディンが消えたからといって、芋づる式に組織全体が崩壊するような類のものではない。いやむしろ、ビン・ラーディンが象徴していたアラブの若者のトレンドは、すでに一昔前のものとなっている。

 アラブ社会のネット事情と若者の過激化をテーマに研究している日本エネルギー経済研究所の保坂修司氏は、高学歴のエリートで家族にも恵まれた若者が、「ジハード」への情熱に駆り立てられて、アルカーイダに身を投じて「自爆」へと進む様子を、その若者のブログから分析しているが、これが実に面白い。自国(この場合はヨルダンだが)と家族を捨てた彼は、イラクやアフガニスタンの戦場で自爆し、天国に行くことへの憧れ、ロマンを、ネット上で吐露している。

 アルカーイダやビン・ラーディンに惹きつけられる若者たちは、最近のネット用語でいえば「非リア充」を目指してきた。自分の生きる現実世界には存在しない、バーチャルな理想のイスラーム共同体を、自国から遠く離れた地に夢見て、アルカーイダはアフガニスタンに寄生した。そして、現実ではなく死後の世界に楽園を求める。リアルな世界での人生の充実より、二次元のアニメやネット上の非リアルな想像の世界で生きていきたいと考えるのは、ある意味でどこの若者たちにも共通に見られる現象だ。

 だが、「非リア充」としてのビン・ラーディン現象は、今回殺害される前から、すでにピークを越えていたといえる。今年1-2月のチュニジア、エジプトでの「革命」で盛り上がった「リア充」を求める声が、アラブの若者たちを席巻したからだ。

 90年代後半以降の10年間は、情報革命によって爆発的に広がったアラブ世界の若者たちの想像力が、非リアルの世界に向かった時代だった。それが、2000年代後半から今年にかけて、リアルな日常生活を充実させることこそが必要なのだ、と現実世界へと向きを代え、デモに参加し、弾圧されることを恐れない「恐怖の払拭」につながったのだ。

 若者はいつまで「リアル世界の充実」に希望を持ち続けられるだろうか。再び「非リアル世界」にしか充実を求められないような閉塞感がアラブの若者を取り囲めば、ビン・ラーディン現象は復活するかもしれない。

 人間の行動を技術的に組織すること自体が、高度な政治性を有している。

クライスト(2)

クライストにおいて踏み越えられてしまうもの、度を越されてしまうものとは、論理の支配、すなわち因果関係の支配そのものである。しかしそれが凌駕されるのは、観念論的な意味においてではない。つまり単に無限に連鎖する因果が理念へと弁証法的に止揚されて凌駕されるのではない。アリストテレス的伝統に従えば、美的なもの、とりわけドラマは、現実というカオスに秩序をもたらす(美的なものはロゴスの類似物とみなされる)ものと解釈しなければならないが、しかしながらクライストにおいては、ドラマのプロセスは逆に、いかなる秩序の中にも存在する「統治不能なもの」、偶然性、偶然的事態とそれがもたらす「[危機的]事態」そのもの、過剰な知への意志が招く偶然性への墜落、ひび割れ、盲目性を展開するのである。クライストにおけるこの反転が、これまで常に困惑をもたらしてきた。歴史の法則ではなく、法を欠くものの生産力。知ではなく、欺瞞と自己欺瞞の力。愛の調和ではなく、服従と攻撃という両極(ケートヒェンとペンテジレーア)が不可分になっている受難的情熱。 [レーマン「Kleist/Versionen」、161頁]

システムの現状の無根拠性そのものが明白になる。悪名高いクライストの過剰さ(残酷さ、偶然性、魂の傷つきやすさ)は、外部からの脅威として現れるのではなく、基準、モラル、論理、魂そのものの中心に内在しているのである。だからこそクライストのドラマトゥルギーは過剰なものを追い求めるのだ。[…]潜在的に破滅的な公正さ[Rechtschaffenheit]だけが、限界も基準も知らない公正さであるがゆえに、法を創造できる[Recht schaffen]。しかしこの性質のために、その法も常に危険にさらされかねないという条件がつきまとう。 [同上、159頁]

 クライストが秩序の中の「統治不能なもの」として発見するもの、クライスト作品でシステムを内破させるものは、多くの場合「民衆」である。

 知や権力を備えた個人が秩序を更新するのではない。力をもった民衆が「統治不能なもの」として内側からあらわれる。彼らは権力による承認も国家的な枠組みも必要としない。むしろ彼らは国家を代替していく。彼らが変革を主導する。

 主人公において問題となるのは、むしろこうした民衆をどう扱うかである。代表者が先導するのではなく、民衆が先導する。代表者はその力を既存の秩序と折り合わせることに注力する。民衆の「法を欠くものの生産力」、「潜在的に破滅的な公正さ」を既存の秩序の法として迎えるのが代表者の使命である。

2011年5月10日火曜日

5/10 応用不可能性について

 本日のニュース。

1. 独エネルギー会社RWEが政府を訴える

 全然「本日のニュース」ではないが、ようやくことの成り行きをチェックした。

 独Welt

 菅総理大臣の「要請」とは異なり、ドイツの原子力法では「生命、健康、財産に対する危険が存在するとき」政府が原子力発電所の停止を命令できる。メルケル首相はこの法律に基づいて7基の原発を停止した。ところがエネルギー会社RWEに言わせれば、停止を命じられた原発は安全基準を守っており、「生命、健康、財産に対する危険」は存在しない。今回の命令は政治的な要請のもとに下されており、法的根拠がない、ということのようだ。

 これが法治国家の議論だと思う。日本のように法的根拠のない「要請」を「空気」で押し付けることが許されてはならない。今回は民意に適っていたとしても、いつかとんでもない「要請」が降ってくるかもしれない。そのとき「原発の前例があるじゃないか」と言われては困るのだ。

 そもそも「原子力災害特別措置法」などという立派な名前の法律がありながら、非常事態でも政府が原子力発電所の停止命令を出せないというのはおかしなことだ。場合によっては一国の国土、国民、生活、さらには経済や海外でのブランド価値が失われてしまう原子力災害。それを避けるための命令を行政機関が発令できないということは考えられない。福島の事故が判明した時点でこの法律をただちに改正し、それによって浜岡原発の停止命令を出すことはできなかったのだろうか。


2. リビア反政府軍への武器供与、伊と仏で対応分かれる

 フランスはリビア反政府軍への武器供与を否定し、イタリアは輸出するらしい。

 独Spiegel1 独Spiegel2

 日本が武器輸出国になればよいとは思わないが、「世界史」への参与の仕方の違いを、こうしたニュースに接するときに強く実感する。


 日本が行っていることは議論として他国に理解不能なことが多すぎる。今日の原子力安全委員会の発言「SPEEDIの数字を出すか出さないかという点については明確な意志決定はなされていない。数値は皆見て高いと思ったが、特段中で議論はなかったので公開しなかった。議論もなかったので誰に責任があったかということも答えづらい」もそうだ。決定もなく、責任もなく、明確でなく、「空気」でしかない。そんなものは理解不能だ。理解不能なことはモデルにならない。したがって参照も応用もされない。広まらない。「世界史」にならない。「世界史」になってほしいとか、「世界史」になることが偉いとか、そういうことではないが、他の国にも理解されるような合理的なやり方をとれないことは、この国にとってこれまでもこれからも大きな損失だと思う。

 政治だけでなくあらゆるレベルで、まともな議論、まともな決定、まともな責任を実現する必要がある。ツイッターをはじめとしてインターネットをその教育機関として発展させなければならない。

演劇理論(2)

 「ポストドラマ演劇」と呼ばれる状況の中で、コロス(合唱隊)はふたたび注目を集めている。「ポストドラマ演劇において、コロスの回帰が生じているのは動かしがたい事実である」(レーマン『ポストドラマ演劇』、邦訳172頁)。ではどのような意味において「回帰が生じている」のだろうか。

 レーマンの『ポストドラマ演劇』においても、フィッシャー=リヒテの『演劇理論事典』(「コロス」の項の執筆はウルリケ・ハス)においても、近年の演劇でコロスを革新した演出家として、アイナー・シュレーフの名が挙げられている。曰く、

近代のドラマが古代のコロスと縁を切ったのは、集団と個人との相互関係を忘れようとしたからだ、とシュレーフはいう。市民的な個の誕生は、市民としての主体の成立を最大限に可能にするために、集合的現実性に結ばれていたへその緒を切り離した。ゆえに新しい演劇形式は、「コロス/個人軸」に関する基本モデルがなお維持されているような残余とその遅延された形姿にこそ、結びついているのだ。 [前掲書、174頁]

集団で麻薬を摂取することにより、共同体が創設される、もしくは更新される。コロスの組織原理としての麻薬は、したがって、関係性の構築と組織において、血縁関係の代替となる原理なのである。 [Metzler Lexikon Theatertheorie, S. 51]

シュレーフは近代的な個人と集団の関係性をコロス演劇によって問い直した。具体的には、「コロス的なもの」が含まれていると彼が解釈した戯曲を、もともとの登場人物の指示とは関係なく、集団の合唱を取り入れて演出したのである。『母たち』や『スポーツ劇』の演出が特に知られている。

 シュレーフが行ったことは、「近代的な個人と集団の関係性」を揺るがすほど強烈な舞台を、舞台上につくることだった。演劇を「知覚の政治学」と捉えるレーマンはこれを高く評価する。しかしそこからさらにもう一歩歩みを進めた演劇実践をわたしたちはすでに目にしているのではなかろうか。それは直接「観客の組織」に向かっている演劇である。

 前回書いたように、古代ギリシャのコロスは一般市民であり、見物席の観客とコロスを演じる者たちのあいだには実は明確な境界線がなかった。言い方を変えれば、純粋な観客などというものは存在しなかった。彼らは常にコロス/観客であり観客/コロスだった。この視点から、現代演劇の一部を「観客をコロスとして組織する演劇」として考察する可能性が生まれる。次回はそれについて論じたい。

[続く]

5/9 鎮魂の儀式

 昨日のニュースではないが、近いうちに取り上げたいと思っていたものを。

1. オバマ大統領、グラウンド・ゼロで献花  

 MSN産経ニュース AFPBB News CNN Japan ロイター  

 ハイナー・ミュラーによれば演劇とは「死者の召喚」と「悪魔払い」の機能を併せ持つ。折口信夫は演劇の機能を「鎮魂」と「反閇(へんばい)」と考察した。  

 殉職した消防士や犠牲者の魂を招き、「悪しきもの」を踏み固める今回の儀式は、まさに非常に古くからある意味で「演劇的」と呼べるだろう。  

 「日曜日の出来事は、『私たちが決して忘れないと言ったときは、必ずやり遂げる』というメッセージを発した」というオバマの言葉は強烈だ。わたしたちが「忘れない」と言ったときは、必ずやり遂げる。古代から存在する咒文のようだ。  

 オバマの演説や発言は、常に「現場」のひとびとへの敬意も感じさせる。911では消防士、ビンラディン殺害時は特殊部隊、他にもアフガニスタンやイラクの米兵など。日本の政治家との大きな違いがここにある。これは「政治的安定」にとって極めて重大なポイントである。  

 オバマがグラウンド・ゼロを訪れるのは09年1月の大統領就任後初めてだったという。演劇は無駄に上演されるべきではないことも、彼らはよくわかっている。

あらたの誕生(2)

 2011年4月3日(日)21時15分頃。妻から電話があった。陣痛もないのに破水し、今から病院に入院するという。

 通常、破水は出産直前であることを意味する。ネットで東京都北区から群馬県沼田市へ向かう最終電車を調べたところ、21時25分に王子駅で京浜東北線に乗らなければならない。あと10分。なんの準備もせず、駅から自転車で5分の自宅。無理である。しかし毎日会社に通っているわけでもないのに出産に立ち会えなかったら、これはいよいよ救いがたいダメ夫と評される。なんとかしなければならない。なにをどうやったのかさっぱり覚えていないが、一瞬で着替え、猫たちにご飯を残し、必死に自転車を漕いで、21時25分の京浜東北線に間に合った。奇跡であった。大宮で上越新幹線に乗り換え、上毛高原駅から妻のお母さんの車に乗せてもらって、病院に着いたのは23時半くらいだったと記憶する。

 翌日4月4日はわたしたち夫婦の結婚記念日だった。初産は予定日より遅れることが多いと聞くが、結婚記念日と誕生日を合わせるために4月9日から5日も早く出てくるのではないか、おそらく非常に気の利いた心優しき男児なのだ、もしかしたら生まれた瞬間に「パパ、ママ、結婚記念日おめでとう」くらい言うかもしれない、等々思ったが、そこまで器用ではなかったらしく、結局出産は5日の午前中だった。

 丸一日以上時間がかかったのは、破水はしたものの、陣痛がなかなかこなかったからである。妊娠中に一度も体調を崩さなかったことを考え合わせると、よほど鈍感なからだなのだろう。4月4日(月)はてきとうに飲み食いしたり病院の部屋(全て個室)のDVDで織田裕二の『アマルフィ』(ほとんどアマルフィの出てこない謎の映画)を見たりして、謎の一日を過ごした。  

 5日(火)の朝になってもたいして陣痛が強まらないので、結局は「陣痛促進剤」なるものを投与してもらった。その効き目たるやすさまじく、投与から約2時間で「あらた」は誕生した。その経緯はまた次回。

[続く]

2011年5月9日月曜日

5/8 時間を与える

 今日のニュース。

1. 経産相 東電の電気料金値上げ「容認」する考え

 日本テレビ 毎日新聞 zakzak

 日本テレビの映像を見ても海江田経産相が「容認する」とは発言していない。したがってどこから「容認」という単語が出てきたのかわからない。なんとも象徴的だ。震災以来2ヶ月の推移を見て、この国では誰が何に対してどのような権限と責任をもっているのかが非常に曖昧なまま、なんとなく事態が進行していくということがあらためてはっきりした。

 一私企業である東電の商売を経産相が容認するとかしないとかいう話が出てくるのは、電力会社が著しく公共性の高い独占的な企業であり、場合によっては行政による規制が可能だからか。それともすでに容認する/しないための法的枠組みがあるのか。もしくは世論を納得させるために行政が私企業をサポートしているにすぎないのか。政府の発表からもマスメディアの報道からもさっぱりわからない。わからないまま、値上げするとはけしからんとか、経済を沈没させないためには仕方ないとかいう騒ぎになっている。そもそも値上げを阻止する法的経路はあるのか、経産相にどれだけの権限と責任があるのか、そんなことは誰も押さえていない。これは調べなければならない。

 一消費者としては、現時点で電気料金値上げを甘受することなど不可能である。値上げをしなければどれほどたいへんなことになるかもわからないし、値上げ以外にできることはすでにすべて行ったかどうかもわからない(どう考えてもやってないと思うけど)。今の段階で「とにかくすごく大変になるから値上げしかありません。理解してください」と言われても無理である。先日から繰り返すように、値上げなら値上げもでいいから、それを納得させる「時間」をきちんとつくってほしい、ということである。ひとを納得させるためには時間を与えなければならない。

 なにもかもがもやもやした雲のなかで生じているかのようだ。雲のなかで値上げが決定されたりそれが容認されたりしている。今の時代のこの国にふさわしい知識の整備法・活用法を見出さねばならない。今の時代のこの国にふさわしいデモンストレーションを発明しなければならない。

2011年5月8日日曜日

ドイツ語(2)

 以前書いたとおり、ドイツ語授業では個々人の学習の目的や意欲に合わせて個別にプログラムを組んでいる。

 それでも全ての授業に共通して大切にしていることは、語学学習を通じて自分のなかに「自分自身のチェック機関」をつくること、である。

 外国語は、自分自身の言葉の使い方や、ものごとに対する偏見、思い込み、傾向をある程度批判的に把握できなければ、決して上達しない。偏見や思い込みは誤読・誤訳を生むし、自分の言葉使いと外国語の性質の差異に気づけなければ適切な表現はできない。「わたし」と「わたしの言語」を相対化することが必要なのである。

 もちろん偏見や思い込みが消え去ることはない。しかしともかく重要なのは、自分自身の内部に自分の読解や表現が正しいかどうかを問い直し続ける「声」をもつことだ。それが「自分自身のチェック機関」である。「自分自身の監査役」と言ってもよいだろう。「この文の解釈は本当に正しいか?」「この単語にはなにか別の意味が込められてないか?」「この表現で自分の言いたいことは言えているか?」、こうした「声」を常に響かせることができるなら、語学力は飛躍的に伸びる。あるいはこうした「声」を響かせる習慣そのものを「語学力」と呼ぶのかもしれない。

 具体的なことを言えば、わたしは翻訳や作文の課題を提出してもらった場合、「模範解答」を示すことはせず、誤読や誤った表現にチェックを入れ、そのまま返す。その上で学習者自身にもう一度考えてもらう。「模範解答」を示すのは簡単だ。「模範解答」は手品と一緒で、タネを明かせばたいていは「なんだ、そんなことか」で済んでしまう。ところがそれを自分自身で探し出すのは非常に難しい。自信をもってつくった翻訳や作文のなかに自ら間違いを探し当てるのは容易でない。しかしそれができなければ言葉を使う者として自立できない。自分を疑い、問い直し、更新していくこの作業は、時間はかかるが、語学学習者が今後の人生で一人でその言葉を使っていくためには必要不可欠なのである。わたし自身も、いまだにこのことに気をつけながら日々トレーニングを続けている。

 「自分自身のチェック機関」をつくることは語学学習の直接の目的ではなく、必要条件であり、また副産物である。しかし「自分自身のチェック機関」が「声」を響かせるこの状態を少しずつ構築できることは、語学にとどまらない価値があるのではなかろうか。「語学を学ぶ意義」の一つは、こうした部分にもあると思うのである。

5/7 政治という時間

 今日のニュース。

1. 浜岡原発停止「要請」、法的根拠と適正手続

 池田信夫氏のツイッターで、菅総理大臣による浜岡原発停止「要請」が法的根拠のない適正手続を欠いた行為であるとして非難されている。柿沢未途・「みんなの党」衆議院議員によれば、これは「結論が喜ばしければ、法的根拠や適正手続はどうでも良いと言えるか」という問題である。浜岡原発停止「要請」を理論的に支持する者は、この批判に応えなければならない。しかし今のところこれといった主張は出てきていないようだ。

 今回の首相の「要請」には、実際のところ手続き上の問題点が多い。憲法学では、「内閣総理大臣の行政各部に対する指揮監督権は、あらかじめ閣議で決定された方針に基づいて行使されなければならず、内閣総理大臣の単独の意思によってこれを行うことはできない」とされている。今回の「要請」は閣議を通していない。何らかの法律に支えられた行為でもない。にもかかわらず中部電力という一私企業に直接「要請」を出すことは、憲法22条1項によって保証されている「営業の自由」を犯している可能性がある。

 たしかに、「営業の自由」は無制限に許されるものではない。無制限の職業活動を許せば、社会生活に不可欠な公共の安全と秩序の維持を脅かす事態が生じかねないからである。したがって営業の自由を制約すること自体は必ずしも憲法違反とは言えない。事実、最高裁によるそうした判例も存在する。

 また、菅首相側は、「要請」には法的強制力がないのだから、法律に基づく必要も閣議にかける必要もなかったと主張するのだろう。

 しかしながら、世論の現状を鑑みて今回の「要請」を正面から断ることは不可能に近く、これは実質的に法的強制力をもつと考えるべきである。

 法的根拠も持たず、適正手続も踏まえずに実質的な法的強制力を一私企業に対して行使することは、明らかに内閣総理大臣の権限を超えており、憲法違反である。したがってわたしは今回の菅総理大臣の「要請」を支持することはできない。今回は「民意」に沿った結果になるからいいじゃないかと片付けてしまうと、将来に重大な悪影響を及ぼす前例になりかねないと危惧するからである。

 とはいえ、わたしは浜岡原発の停止自体には賛成である。つまり、福島の惨状が明らかになった時点で動き始めていれば、現時点で法的根拠と適正手続に支えられた浜岡原発停止の方向性を打ち出すことは十分に可能だったはずであり、そうすべきだったと考えるのである。これまで2ヶ月もあったのだ。準備期間が2ヶ月もあったのに、何の根拠も手続きも踏まえない「要請」を突然発動するというのは、法治国家としてやはり正常ではない。

 先日からの続きになるが、政治が場当たり的なパフォーマンスの連鎖に過ぎなくなっている。「政治の時間」、あるいは「政治という時間」をつくることができなくなっている。今回の「要請」も、今後の日本のエネルギー政策をどのように進めるのか長期的な指針を示すわけでもなく、それどころか具体的に今夏いかにして電力不足を乗り切るのかという短期的な展望さえ示されない。「国民が頑張って省エネすればなんとかなる」というのは行政の長が語るべき言葉ではない。

 「政治という時間」をつくることは現在の選挙制度とマスメディアのもとではもはや望めない。インターネット上に「政治という時間」を構築し、それを現実へ反映させる手段を少しずつ整えていくしかないだろう。

参考:行政手続法 行政指導

書類(1)

 これから半年くらいの間に書かなければいけない書類がたくさんあるので、このブログをペースメーカーにして片付けていこうと思う。

 今日はまず日本学生支援機構の「奨学金返還期限猶予願」を完成させるつもりだったが、体力が残っていないので来週までに終わらせておく。

 また、通訳案内士試験の願書ももうすぐ手に入るらしい。日本の観光客はどう考えても今後増えないわけで、今取得することがこれほど無意味な資格もないが、ぼくの場合は通訳・翻訳業やドイツ語教師をする上でも役立つので、取得して損はないと思っている。8700円払うのでしっかり合格したい。

2011年5月7日土曜日

5/7 あらた一ヶ月












5/6 政治と時間

 昨日のニュース。

1. 浜岡原発の全原子炉停止へ 首相の要請受け入れ

 内容はすでに紹介するまでもないと思う。以下のサイトを参照。

 朝日新聞 毎日新聞 小出裕章氏のコメント

 わたしのツイッター・タイムライン上では好意的な意見がほとんどだったが、当然反発もある。

 読売新聞 小飼弾氏のコメント 池田信夫氏のコメント 経産省の内部文書

 反発側からは「これは政治的パフォーマンスに過ぎない」という意見があるようだ。政治的パフォーマンスと言えば、以下のニュースも同様。


2. 東電社長、土下座行脚

 スポーツ報知 J-CAST 日刊ゲンダイ

 
 これら二つのニュースに共通する問題を感じる。

 広い意味での政治にはパフォーマンスが必要だ。しかし個人がいっときパフォーマンスを行うだけで政治を安定させることはもはや不可能である。ネット上には多様な意見が存在し、それがすぐに可視化され、パフォーマンスを批判する。

 問題の本質はなにか。わたしは、今や問題は、代表者や企業のトップがその場しのぎのパフォーマンスを行うことではなく、共同体がどうやって持続的な「時間」を組み立てるか、にあるのだと考える。そのために重要なのは、「時間をつくる主体」である。そもそも民主制国家において、政治の時間をつくるべきは総理大臣や私企業の社長ではない。「国民」である。架空の「民意」をおもんばかって決断したり土下座するのではなく、具体的で現実的な「民意」が可視化され、それに基づいた政治が実現されるべきだ。

 民主制とは、正義を実現する制度でもなければ、経済合理性を追求する制度でもない。「みんなで決めたことを実施する」制度だ。総理大臣が決断するから批判が残る。社長が土下座しても何も納得できない。しかし「日本国民」が決断したなら、反対派も「全員で決めたんだから仕方ない。嫌ならこの国を出るしかないんだな」と納得せざるをえないのではないか。

 実際、ツイッターなどを観察しても、どちらかが絶対的に正しいと言える問題は、現代ではほとんど存在しない。「◯◯のことを想定してないから正しくない」「☓☓というデータがあるからこちらが正しい」などは、どちらの立場をとっても言えるようだ。「正解」は存在しない。したがって共同体が自己決定するしかない。共同体の自己決定が行われず、ほとんどの場合非常に短期しか続かない政権が場当たり的な決断を下しているから、いつまでたっても議論は尽きず、「とにかくその方向でやってみよう」ということにならない。

 原発事故のあとではこういうことは言いづらいが、原則としては間違ったら間違ったで修正すればいいのではないか。時間が流れ、情勢が変化し、技術が進歩する以上、「正解」はないはずだ。そうした普遍的(=無時間的)な政治を実現することは諦めて、試みて駄目なら学んで変えるという「時間軸上の政治」を志向すべきである。

 「共同体の自己決定」とは、言うまでもなく国民投票である。しかし東京都知事選のようにわずか数%の得票で決断が行われては、民主制といっても形式ばかりで、実質的には実現されていないことになる。インターネット投票を導入し、投票義務を軽い罰則付きにし、さらには選挙権年齢を引き下げるなどして、「みんなで決めたことを実施する」制度としての民主制の趣旨をふたたび取り戻すべきである。それは技術的にはすでに可能なはずだ。

村上春樹(1)

 村上春樹は高校生の頃から読んでいる。地震のあともいくつかの作品を読み返した。昔は気付かなかったような部分に気付いたり、考えもしなかったことを思いついた。また5年もすればまったく別のことを読み出すだろう。作品というのはそれでいい。むしろそれを許すのがすぐれた作品だと思う。ただ、なんとなく今回は少し書き残しておこうかなと思い立った。来週から3回でまとめてみたい。

5/5 速くて軽くて低負担

 5日のニュース。

1. Intel、3Dチップ投入でムーアの法則を堅持する

 FERMAT 独Spiegel

 Intelが従来のCPUチップの設計方法を革新する3Dチップを公表し、これによって「おおよそ二年ごとにCPUの速度が二倍になる[集積回路上のトランジスタ数が倍になる]」というムーアの法則(インテルの共同創業者ゴードン・ムーアの1965年の提唱)が維持されることになった。「Tri-Gate」と呼ばれる技術でつくられたチップは、現在完成しているものですでに従来より37%処理速度が速く、かつ電力消費量は半分で済む。インテル自身が「歴史的イノベーション」を自負するのは無理もないだろう。

 ムーアの法則自体が物理的な限界を抱えていることは自明だったため、インテルはすでに10年以上前から新技術の開発に取り組んでいたとのこと。「Tri-Gate」トランジスタのプロトタイプはすでに2002年に公開されていた。

 この技術によって22ナノメートルのトランジスタが開発され、一つのピリオド「.」程度の大きさに約600万、針の先程度の大きさには約1億のトランジスタを組み込むことが可能になったという。より小さく、より速く、より電力消費の少ないコンピューターが普及する。インテルが劣勢に甘んじている携帯電話市場でも、この3Dチップの登場で変化が起こりうるとシュピーゲルは伝える。事実、アップルがサムスンに製造させてきたiPhone用チップを将来インテルに乗り換えるという噂が立っているらしい。ただし、この3Dチップを搭載したコンピューターが登場するのは2011年末。クリスマス商戦には3Dグラフィックならぬ3D計算のコンピューターが現れる。

 「速くて、軽くて、低負担」。技術が実現する世界と、ひとの嗜好や政治の様式は並行する。カール・シュミットはキリスト教の形態と政治体制の形態のあいだの対応関係を「政治神学」として考察した。わたしたちは「政治工学」を思考すべきだ。「速くて、軽くて、低負担」。直近ではオバマがビンラディンを国際裁判の場に委ねず、国際法を犯してまで殺害したことが想起される。その方が速くて、軽くて、(少なくとも短期的には)低負担だっただろう。経済、社会、芸術の形態も「速くて、軽くて、低負担」が基準になる(あるいはすでにそうなっている)と考える必要があるのではないか。

 それにしても、中東情勢、東日本大震災、ビンラディン殺害に引き続き、2011年という年は何というペースで進んでいることだろう! 従来より37%は速度が速いのではなかろうか。

2011年5月5日木曜日

クライスト没後200年(1)

 2011年はハインリヒ・フォン・クライスト没後200年である。ドイツをはじめ各国ではさまざまな催しがすでに行われ、また今後も予定されている。今後数回、その紹介と分析を行おう。

 クライスト没後200年関連のイベントは、主に以下の二つのサイトで確認できる。

Das Kleist-Jahr 2011
Die Internet-Plattform zum Kleist-Jahr 2011

 クライストに関する展示、演劇祭、国際シンポジウムなどの予定と内容を確認できる。ベルリン・マクシム・ゴーリキー劇場のクライスト・フェスティバルやリミニ・プロトコルの新作「Einen Kleist…」などが最も注目されるだろう。これらももちろん紹介するが、今回は敢えて国際シンポジウムや学会がどのようなテーマで開催されるかを概観したい。

 すでに開催された、あるいは今後開催されるクライスト関連ディスカッションのテーマをざっと書き出せば以下のようになる。

「形式・暴力・意味」
「クライストとドイツ人」
「神よ、これはなんたる世界か!」(ハンガリー、フランス、ポーランド、ドイツにおけるクライスト受容をめぐる国際シンポジウム)
「貴族と著者性」
「クライストの短編小説『聖ドミンゴ島の婚約』―1800年前後のグローバルな文脈における文学と政治」
「ハインリヒ・フォン・クライストの作品における暴力の構築的・脱構築的機能」
「交換と欺き―クライストと経済」
「クライスト後の著作―文学的、メディア的、理論的翻案」
「ハインリヒ・フォン・クライストとモデルネの危機」
「犠牲の経済―自殺にしるしづけられた文学」

 個々のディスカッションで注目すべきものは今後詳しく紹介したい。しかしこうしてテーマを列挙するだけでわかるのは、現在のクライスト研究がいわゆる「文学研究」の領域に極度に偏って行われている、ということである。

 クライスト演劇祭でも議論の場が用意されるようだが、こうした大型のシンポジウムに関して演劇学からクライストに接近することを打ち出しているものがないのは、やや異常にさえ思う。『こわれがめ』はドイツ語で書かれた最高の喜劇と呼ばれ、クライストもまず第一には「劇作家」として認識されているのだから。

 こうした状況の原因はいくつも指摘できるだろう。その一つとして、ドイツの演劇学が作家・戯曲研究から上演研究へとシフトしたことが挙げられる。それ自体はよいことだった。しかしそのシフトがクライストのような「現代的」作家までも置き去りにしてしまい、今日の演劇の理論的・実践的基礎を忘却するなら、演劇学および演劇批評は基礎をもたない浮ついたものになるのではないか。

 個人的な話だが、6年前、大学の学部4年生だった頃、初めてハンス=ティース・レーマンに会った際、クライストを研究したいと言ったら、「クライストはすごく重要な作家だ。彼ほど重要な作家はいない。ぜひやった方がいい」と、こちらが驚くほど熱心なリアクションをもらった。彼が「Kleist/Versionen」というすばらしいクライスト論を書き、ヨッシ・ヴィーラーがデュッセルドルフで『アンフィトリュオン』を演出した際にはドラマトゥルクまで務めていたことを、その当時は知らなかったのである。せめてこの機会にレーマンに語ってもらう機会くらい、演劇の側はつくれないのかと、非常に歯痒く思っている。

5/4 政治・プロセス

 昨日のニュース。

1. 原発賠償4兆円、政府が試算 電気料金値上げ前提

 朝日新聞 河野太郎ブログ

 もし電気料金を値上げしなければどうなるのか。日本経済にどれだけのダメージを与えるのか。わたしはまったく知らない。ほとんどの日本国民はそれを知らないと思う。知らないから、値上げに賛成か反対かと言われても答えられない。しかし値上げの必然性を説明しないままに、値上げを前提とした議論を進めることについては、「国民主権」の原理にもとると考える。絶対に反対である。

 たしかに国民はその代表者を通じて行動するが、主権は飽くまで国民にあり、選挙まで代表者がいかに振る舞っても自由ということにはならない。現在ではいわゆる「民意」を問う可能性は大きく開かれているのだから、もしどうしても電気料金値上げが必要だというなら、その理由をまず国民に対して説明し、納得させるべきである。同じ「値上げ」という結論にたどり着くとしても、それがどのような「プロセス」を経ているか、どのようにそれまでの「時間」が演出されたかで人間の反応はまったく異なる。それが人間の非合理的な合理性である。現在の政治は「プロセス」と「人間」に対する思慮があまりに足りない。

 「政治主導」という民主党の理念。このままでは、それは「官僚主導」に対置される概念ではなく、「国民主権」に対置される概念になりかねない。

2011年5月4日水曜日

クライスト(1)

 次の論文では「コロス」をキーワードにクライストの「演劇理論」について論じる。

 クライストの民衆=コロスは、「声」をあげることによって秩序を破壊し、国家を代替する集合体である。秩序を破壊するコロス。主人公に対するコロスの優位という要素。

 クライストはなぜそんな構想を抱いたのか。それはどのような思想から出てきたのか。また彼はいかにしてそれを実現しようとしたのか。短編小説における群集のような、コロスとして明示されない場合も考察の対象とする。

 出発点はレーマンの論文とHandbuch。来週までに論点と文献を整理する。

5/3 事前通告・事後報告

 今日のニュース。

1. ビンラディン殺害作戦、パキスタンへの事前連絡なし

 昨日書いた「パキスタンがビンラディン逮捕→国際裁判所で訴追」はどうやら不可能な空論に過ぎなかったようだ。現実にはビンラディンは5〜6年も問題の邸宅に潜伏しており、パキスタンの支援を受けていたことが確実視されている。そのため、アメリカは事前に情報を流せば作戦が成功しないと考え、襲撃直前にヘリコプターによる作戦実施許可を求めただけだったようだ。

 47NEWS 時事ドットコム 独Spiegel

 パキスタンもみずからの立場を説明する必要があるだろうが、他方アメリカの国際法違反はこれで完全に明らかだろう。直前の連絡だけで他国領土内で軍事作戦を展開するとは! 今後の展開が注目される。


2. ビンラディン、アラビア海で水葬

 埋葬が高度に政治的な行為であることは、演劇研究者であれば誰もが認識している。なにしろ2500年前からそうなのであり、ある意味では埋葬の政治性を巡って現代演劇は発展してきたのである。

 今回も埋葬場所が聖地化することを避けるためにアメリカが水葬したことは確実だろう。ところがイスラム教において、水葬は海上での死亡の場合等の例外的措置であり、地上で死亡→海上で水葬はありえないらしい。そもそもいつか復活するためにもとの肉体が必要だから土葬するので、無闇に水葬できないのは当然だ。ソフォクレスの『アンティゴネー』と重ねて考えてみたい。

 ロイター 時事ドットコム 独Spiegel

2011年5月3日火曜日

演劇理論(1)

 欧米や日本で上演されている現代演劇の起源が、古代ギリシャ演劇にあることは、誰もが認めることだろう。

 古代ギリシャ演劇は、喜劇も悲劇も、「コロス」という合唱隊を登場人物のなかに組み込んでいた。というか、この合唱隊こそが演劇の出発点だったと考えられている。「個人」の主人公たちが物語を繰り広げる以前に、「集団」の舞踊と合唱があった。

 ところで、ギリシャ演劇のこの「コロス」を務めたのが、アテネの一般市民だったことは、それほど知られていない。現代の日本であれば、「裁判員制度」のようなものだったと考えていいだろう。

コロスの選抜過程は不明だが、おそらく演劇祭の実行委員長である筆頭執政官が、市民全員が平等に演じる機会をもつような持ち回り制度にしたがって指名したと思われる。(山形治江『ギリシャ劇大全』、論創社、2010年、53頁)

 古代ギリシャの演劇祭は国家行事だったから、このような制度も可能だった。「コロス」としてデビューした市民は毎年219人。「市民」とは成年男子をのみを指し、その総数は紀元前4〜5世紀のアテネで約3万人ほどだったようだ。一方で裕福な市民は、演劇祭のために「コロス」が稽古をするときの休業補償や謝礼を出す義務を負っていた。この義務を「コレゴス」という。金のある者は金を出し、一般市民は舞台に上がったということだ。

コロスの参加義務によって、演劇は市民にとって非常に身近な存在だった。しかも当時は地縁血縁の結束が強かったから、親戚、隣人、友人など知人のだれかは常に舞台デビューを果たしていただろう。「あれが俺の叔父さんだ」「今年は隣の息子が出るぞ」などと客席も大いに盛り上がったにちがいない。(前掲書、53頁)

 したがって、その起源において演劇は、以下のような特徴を備えていた。

① 国家行事/共同体の祭りだった
② 一般市民が参加した
③ 一般市民同士で「見る/見られる」関係があった
④ 「コンテスト形式」の採用によって、政治プロセスに似たものだった
⑤ 娯楽だった

 選挙にも似たところがあるし、ツイッターにも似ている。まずは演劇の起源がこうしたものであることを確認して、これから何回か「演劇理論」について書きたい。演劇は今では芸術の一分野に過ぎず、芸術も社会のごく小さな一部門に過ぎない。しかし以上のような起源に照らせば、現在「演劇」と呼ばれているイベントよりも、選挙やツイッターの方がずっと正しい演劇だ、と主張することもできるのである。

5/2 オバマ・オサマ

 今日のニュースはこれしかないだろう。

1. 米軍がパキスタンでビンラディン殺害

 米時間で1日深夜に発表されたことから、歴史的には2011年5月1日の事件として記憶される。偶然か、あるいは意図してか、ヒトラー死亡の発表も1945年5月1日だった。

 しかし今回の軍事作戦に関しては、国際法違反ではないかという声がすでに出始めている。

 朝日新聞 独Spiegel誌 

 舞台となったパキスタンが明確な説明をしていないことも気になる。

 朝日新聞 産経新聞

 日本でも「国際刑事裁判所で裁くべきだった」という指摘があるが、これは難しかったようだ。というのも、国際刑事裁判所ローマ規程(ICC規程)は2002年発効だが、その適用対象は発効後の犯罪のみ。つまり911は対象外なのだ。したがって911の首謀者としてビンラディンを国際刑事裁判所に訴追することはできないのである。

 それでも、アメリカではなくパキスタンが逮捕した上で、なんらかの国際裁判所による訴追(特設法廷設置等によって)が行われたほうが、世界の安定化にとってより望ましかったと思う。オバマの「演劇」は、アメリカ国民という限られた観客を一瞬で興奮させる演出を選択した。国際社会というより大きな舞台上で、より長い上演時間とより複雑な筋書きに支えられた、単純なカタルシスをもたらさない「演劇」にすることを、彼は選択しなかった。演出家がこうした演出を選択せざるをえなかったのはなぜだろうか。一つには次期大統領選挙があるだろう。また国際法がいわゆる非対称的な戦争に対応できていないこともあるだろう。

2011年5月2日月曜日

あらたの誕生(1)

 あらたが生まれてもうすぐ一ヶ月。早いものだ。といっても生まれてからまだ6日間しか一緒に過ごしてない。まきちゃん、沼田のお母さん、どうもありがとう。特別なにかの役に立つことはないだろうけど、あらたの誕生前後のことを記録しておこう。

 妊娠を確認したのは2010年8月末。その時点で出産予定日は4月9日と言われた。死ぬまで苦しむ子供になるかな、なんて言っていた。なんといってもその後妻が何の問題も抱えなかったので、のんきにしていられたのだ。つわりなし、食べ物や匂いへの反応なし、情緒不安定化なし、体調不良なし、なんにもなし。産むまで本当に何もなかった(産んでからも順調)。ただ少しずつお腹が大きくなるだけ。12月末まで毎日自転車で仕事に通った。前から知っていたけど、あらためてずいぶん丈夫なひとだと思った(なにかいろいろ鈍感なだけかもしれない)。奥さんの体調次第で夫はまったく異なる妊娠期間を過ごすだろうと思う。

 産婦人科は、最初に行った王子の医院が気に入らなかったので、ネットであれこれ探して、日暮里の「白十字産婦人科」というところに通った。わざわざコンピューターで探して見つけたのがこれかよ、というくらい、昨今のきれいな産婦人科とは遠い町のお医者さん。なぜかラブホテルの隣。なかなか深い。しかも男の先生(50歳くらい)が、「妊婦というのは家族だけでなく社会が支えなければいけない」とか、「制度が妊婦を支援するのは当然なんだ」といった、ちょっと共産党系かなという熱い指導を(特に最初の頃に)授けてくれて、ぼくはたいへん楽しませてもらった。ちなみに、ノロウィルスに倒れていた一回を除いて、産婦人科には毎回二人で行った。無職の効用である。

 この「白十字さん」でよかったのは値段。今は妊婦の医療費補助クーポンがどの自治体からももらえる。どうも大きな病院などでは、このクーポンを出して、さらに毎回いくらか払う、というかたちになるらしいのだが、「白十字さん」では特別な検査を行わない限りクーポンだけで間に合った。つまりこっちは毎回1円もお金を払う必要がなかった。また、いつ行ってもだいたい空いていたので待ち時間もほとんどなし。きれいな大病院で待ち時間のストレスと料金の負担を受けるか、謎の町医者で適当に過ごすか。ぼくは後者でよかったと思う。

 ただし機材がどうにも古いことには閉口した。なにしろエコーもどこがなんだかよくわからない。「これ背骨ね」と言われれば「ああ背骨ですか」なんて一応返すが、まあなんだかよくわからない。もちろん性別もなかなか判明しない。里帰り出産をした群馬県沼田市の病院で診察を受けたときは衝撃だった。エコーの精度がまるで違う。新しい機器ではお腹の中にいる赤ちゃんの表情まではっきりわかるのである。これほどの差があるとは想像していなかった。ただし医者としては「白十字さん」の方が信頼できた。きれいな建物、若い医者、若い看護婦に溢れた病院は、その見せかけやもっともらしい言葉の裏で、ちょっと疑問に思うところもあったのである。 

[続く]

5/2 「声」を増やす

 以下、「くそ勉強」ブログの転載。最近考えていたことの一つ。

**********

問題24 「声」を増やす

 そろそろ誰でも書きやすい「問題」を設定してこのブログを盛り上げたいところですが、やはりちょっと違った角度から。

 例のごとく地震と津波と原発ですが、この2ヶ月のあいだにわたしが実感したことのひとつは、「日本ではほとんど誰も正面きった質問をしない」ということでした。どういうことかというと、つまり突然「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」とか、「画家として津波をどう考えるか」とか、あるいは「映画保存技師として一連の出来事をどう見ているか」とか、誰も聞かないわけです。聞いてこないわけです。正面から立場を問い、大きなことを語るよう求める動きは、とても少なかったし、今も少ないと思います。

 ところが、逆方向は溢れている。逆方向というのは、「アーティストとしてできることをやりたい」とか、「自分の生活の中で役に立てることを続けたい」とかです。

 「大きなことを語れ」と求めるひとは少なく、「小さなことをします」と言うひとは多い。外側から「問い」にさらされることは少なく、内側で自分のテリトリーを再確認する言動は多い(敢えていじわるな言い方をしますが)。

 これはちょっと「災害の過ごし方」としてもったいないのではないかと思います。せっかくだからもっと揺さぶられたり、場合によっては立場を問われたり、大きなことを語ったりした方がよい経験になるのではないか。これまで存在しなかった接続が生まれるのではないか。そう思います。

 そこで。外側から問いが来ないなら、自分で自分に問いを立てようと考えました。「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」と自分で聞いて自分で答えるわけです。またこういう場所で枠組みをつくって問いを立ててもらえばいいと思いました。それを今回やってみたい。

 ポイントは、「複数」の問いを立てることだと思います。「〜として…する」が陥りやすい罠は、自分で自分を限定してしまうことです。でも人間は複数的な存在なので、たとえばぼくは今回のカタストロフィを「翻訳者として」「クライスト研究者として」「父親として」「猫と暮らす者として」「日本人として」「新潟県出身者として」等々、いろいろなふうに考えることができるわけです。そしてそういう複数性にこそ、さまざまな困難と可能性の両方が含まれていると思います。

 こういう自分自身のチェック機関のような働きを「声」と呼んでみました。個人、組織、社会、国家、どのレベルでも、根本をきちんと問い直す「声」が不足している気がします。大企業や国家機構だけでなく、やっぱり個人にも「声」が不足しているのだと思います。自分に対して、あるいは他人に対して、今回のような枠組みを利用して直球の問いを立ててみたい(直球じゃなくてもいいんだけど)。ただ、こういう問題だからこそ、変に深刻にならず、気楽にやりたいと思います。深刻さは思考を停止させます。外から見てイタイやりとりにならないよう気をつけましょう。

 自分にも、他人にも、シンプルな問いを立てて、正面から答えてみたい。なんか盛り上がらない気がしてならないけど、どうにかして面白くしてください。とりあえずリリースするので、すぐに始めてもらってもいいし、今回の問題設定自体について感想をもらってもいいと思います。今回はとにかく盛り上がる気がしないので、みなさんの力にかかっています。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。よろしく。

5/1 小佐古敏荘・移動の自由

 本日のニュースは二つ。どちらも「移動」に関するもの。

1. 小佐古敏荘・東大大学院教授が内閣官房参与を辞任

 このニュースはドイツでも報道されている。

 独Spiegel誌

 子供の年間被曝量上限が大人と同じ20ミリシーベルトであることに関して、ドイツ側の専門家の意見も交えて疑問を呈している。子供が放射線に対して大人よりも感受性が高いことは科学的に明らかなようだから、菅政権が自らの無謬性にこだわってこれを是正しないと、諸外国や国連によって人道的見地からの批判を受けることになるのではないか。


2. 5月1日からヨーロッパで労働者の移動完全自由化

 日経新聞 独Spiegel誌

 東欧の国々の失業率はドイツの2〜3倍、賃金はドイツの20〜25%という状況だから、理論的には約3000万人の労働者が西欧に流入する可能性があるそうだ。西欧では当然賃金の切り下げ競争が予想される。ドイツでは最低賃金の定められていない業種において、法律で最低賃金を定めることを求める動きが加速している。

 しかし「実際のところ、移民によって新しい産業と新しい構造の成立が可能となり、これは長期的により多くの雇用を意味する」。イギリス、アイルランド、スウェーデンは2004年以来、すでに移民によって成功しているらしい。高齢化社会も若返っているとのこと。

 ただし、ドイツに最も必要とされる若い専門的労働力が補えるかどうかについては、Spiegelは否定的だ。また、ドイツが2004年の段階で労働者の移動を自由化しなかったため、すでに良質な労働力は他国に流れ、ドイツは遅きに失しているとの指摘もあるようだ。いずれにせよ、今後一年で10万人、二年で最大80万人がドイツに流入するとみられている。

2011年5月1日日曜日

ドイツ語(1)

 ドイツ語授業の一つで、阿部賀隆『独文解釈の研究』を使っている。1961年に初版が出版された問題集だが、その密度において現在も比類なき一冊である。近年書店に並ぶ参考書の類はあまりに内容が薄くて逆に効率が悪い。わたしは学部2年のとき、和泉雅人教授がこの本をやれと言うのを聞いて、初級文法を終えたばかりだったが手にとった。この問題集の有名な第1問は、日本語訳で「世の中のことが思いどおりにゆくようになどと願わず、むしろ生起するいっさいのことが、生起するがままに自然に生起するようにと望め。そうすれば君は幸福になるであろう。」というもので、19歳の夏休みに「うーむ」とか言いながら取り組んだのである。最近ではこんな文章を使った参考書はまずない。非常に苦しんだが、くだらない参考書を何冊も読まずに済んで、結果的によかったと断言できる。

 さて、今回この『独文解釈の研究』の問題10番がわからないという連絡を受けたので、ここに簡単な解説を掲載する。解説は簡単な方がいい。問題も実は簡単だからである。ちなみに上記第1問もそうだが、この問題集にはなかなかすごい内容の文章が多数含まれている。以下の第10問などはその典型であろう。

 以下を読んだ上で不明な点があれば、コメント欄に書き込むかttkhys@gmail.comまでご連絡いただきたい。

**********

Unser ganzes Volk müssen wir erziehen, dass immer, wenn irgendwo einer bestimmt ist zu befehlen, die anderen ihre Bestimmung erkennen, ihm zu gehorchen, weil schon in der nächsten Stunde vielleicht sie selbst befehlen müssen und es genau so nur dann können, wenn andere wieder Gehorsam üben.

**********

<解説>

「Unser ganzes Volk müssen wir erziehen, dass…」
→ 「わたしたちの民族全体 Unser ganzes Volk を、わたしたちは wir 、以下のように dass 教育しなければならない erziehen müssen 、すなわち…」

「immer, wenn irgendwo einer bestimmt ist zu befehlen」
→ 「どこかで irgendwo 誰かが einer 命令することを zu befehlen 定められている bestimmt ist ときは常に immer, wenn」

「die anderen ihre Bestimmung erkennen, ihm zu gehorchen」
→ 「それ以外の者たち全員が die anderen 、彼[命令する者 einer]に従う ihm zu gehorchen という自らの使命 ihre Bestimmung を認識する erkennen ように[そのように教育しなければならない]。」

「weil schon in der nächsten Stunde vielleicht sie selbst befehlen müssen」
→ 「なぜならば weil 、次の瞬間にはもう schon in der nächsten Stunde ひょっとすると vielleicht 彼ら[命令者以外の人びと die anderen]自身が sie selbst 命令しなければならない befehlen müssen かもしれず、」

「und es genau so nur dann können」
→ 「そのこと es [命令]を正確にそのまま genau so [命令の内容通りに]やり遂げることができる können のは、以下の場合だけ nur dann だからである、すなわち…」

「wenn andere wieder Gehorsam üben.」
→ 「他の者たち andere の方でも wieder 服従してくれる Gehorsam üben とき wenn である。」


<全訳>

わたしたちは、わたしたちの民族全体を以下のように教育しなければならない。すなわち、どこかで誰かが命令を発するよう定められたら、その者以外の全員は、常に服従を自らの使命と認識するように。なぜなら、次の瞬間には彼ら自身が命令せねばならぬかもしれず、彼らがそれを正確にやり遂げうるのは、他の者たちが服従するときだけだからである。


<ポイント>

・前半は dass の副文の中に wenn の副文が入っている(入れ子になっている)のでわかりづらい。 dass の副文の主語は die anderen 、動詞は erkennen である。
Unser ganzes Volk müssen wir erziehen, dass immer [, wenn irgendwo einer bestimmt ist zu befehlen,] die anderen ihre Bestimmung erkennen, ihm zu gehorchen,

・後半は sie や es が何を指しているのか、また sie や es が何格かわかりづらいが、動詞の形やそれ以前の名詞を点検すれば可能性は自然と絞られる。
weil schon in der nächsten Stunde vielleicht sie selbst befehlen müssen und es genau so nur dann können, wenn andere wieder Gehorsam üben.

・die anderen は「他の者たち全員」、 andere は「[不特定多数の]他の者たち」。英語にも同様の表現がある。

5/1 論理・労働・進歩・組織

 今月のテーマは「論理・労働・進歩・組織」。古臭い感じでいきます。

 おおざっぱに言うと、「論理にしたがってきちんと労働すれば、ちゃんと進歩するしいろいろ組織できるだろう」ということ。農業みたいに。子育てのように。具体的にものごとを進めていきたいと思います。