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2011年7月23日土曜日

7/20 いかに政治を逃れるか

 演劇時評。

* 自民、原発は当面活用、消費税10%、非核2.5原則
* 石原都知事:日本は核武装を、原発も捨てられぬ

 自民党の国家戦略本部(本部長・谷垣禎一総裁)20日、党の中長期政策の基本方針となる報告書を発表し、消費税率の10%への引き上げや集団的自衛権の行使容認を掲げたほか、既存の原発は安全対策を強化した上で当面稼働させる方針を明記。今後10年間の最優先課題を「減災対策」と位置付け、公共事業を拡大する方針も打ち出した。[産経新聞]

 他方、東京都の石原慎太郎知事は、原子力発電はなお必要であり、中国や北朝鮮からの脅威をかわすためにも核兵器を保有すべきだとの考えを強調した。[ブルームバーグ]

 これをどう考えたらいいのだろう。彼らのものの見方はどうなっているのだろう。

 いずれにせよ彼らを変えることはできない。彼らには去ってもらうしかない。しかしだからと言って、今の状況で「若者よ、選挙へ行こう!」などとはわたしは言えない。

 どこまで可能か、よく考えてみなければならないが、これからの時代を楽しく生きるには、「何かあったらいつでもどこへでも移り住める」技術や準備が必要ではないか。「政治がどうなっても文句は言わない。だから俺は選挙に行かない」という態度を貫徹させるためには、政治が決定的に崩壊したらすぐに黙って移住できなければならない。そうでなければ必ず文句を言うことになるだろう。

 わたし個人は政治自体を変えるよりも、今現在「政治の機能」とされているものを少しずつ政治の外で代替していくような動きに興味がある。わたしは政治を信頼できない。信頼できないひとびとにお金を預ける馬鹿はいないから、今のところ税金は低ければ低いほどよいと考えている。したがって、軍備の増強などという高負担な政策には反対だ(反対の理由はそればかりではないが)。

7/19 中央統制から自己決定へ

 演劇時評。

*東日本復興構想会議の提言

 先月25日、政府の東日本復興構想会議が提言をまとめ、菅首相に提出した。

 大手メディアでは提言が増税を主張したことばかりを取り上げているようだ。経済の専門家以外のひとびとが中心となってつくった提言に関して、そのようなクローズアップを行うのはフェアではないし、提言の可能性を縮減するものと考える。

 わたしは、例えば「地域自立型エネルギーシステム」という項目において以下のように主張されていることは、率直に評価したい。

こうした自立・分散型エネルギーシステム(スマート・コミュニティ、スマート・ビレッジ)は、エネルギー効率が高く、災害にも強いので、わが国で長期的に整備していく必要がある。そこで、被災地の復興において、それを先導的に導入していくことが求められる。

 他方、復興に関して一貫して感じ続けている違和感も残った。それは、結局のところ現在の復興プランは、「中央が地方を指導する」という枠組みを維持するものではないか、ということだ。

 わたしは、もし東北の人々が望むなら、どんなに客観的に危険であれ、ふたたび海辺に家を立て、居住してもいいと思う。何を教訓とし、どこに住むかを、遥か遠く離れた東京にいる政治家や役人に決められてはたまらない。地域ごとに決定するならまだ分かるが、これからの地域のあり方を中央から指揮するという時代ではない。

 それは、どんなに優れた計画であっても、実行するひとびとの気持ちがついていかず、「本気度」が低ければ、必ず効率が落ち、効果が衰減するからでもある。いくら知識がある人間でもやる気にならなければ役に立たないのと同じだ。データや確率など客観的なものだけでなく、主観的な行為態度をどう考慮するか、中央の管理機構が何をどれだけ地方に委譲できるか。歴史的な転機になってほしいと思う。

2011年7月22日金曜日

7/18 現代日本のシニシズム

 演劇時評。

*現代日本のシニシズム

 17日分に続き、漠然とした話を続ける。

 3月11日以来、というよりも原発事故が明らかになって以来、ある問題を感じ続けてきた。それは「科学的」で「情報強者」なひとびとのシニシズムだ。

 たしかに脱原発、反原発、原発危険、すでに絶望的etcを唱える者の中にはまったくの事実誤認や歪曲も含まれているだろう。その意味で本当にひどいひとはいる。

 しかし他方で、「科学的」で正確な情報をもっているはずのひとびとには、それを上から目線で指摘して「知らない者たち」を切り捨てる傾向があまりに目に付く(具体例は挙げないし、印象論であることも自認するが)。

 彼らは何が起きても、「自分はそうなることがわかっていたし、最初からそう主張していたし、多少ものを考える人間ならそれがわかって当然だから、わからなかったやつは怠惰か党派的かのどちらか」と言う。彼らと論争しても意味はない。彼らを支持する者と彼らに反発する者の溝は深まる一方だ。

 それが道徳的にどうこうというわけではない。しかしせっかく情報を収集・分析することが得意なひとびとがいるにもかかわらず、個人の性格や態度に由来する社会的損失があまりに大きいのではないか。知識人は公に尽くす人物たれ、などと言いたいのではないが、しかし知識をもつものとしての個人的なモラル、個人的ノブレス・オブリージュは日本ではどうなっているのか。批判するよりもまずは何かの役に立つ、という気持ちを背負う者があまりに少ないのではないか、と思う。

7/17 意思決定・社会・演劇

 演劇時評。

*核というメタファー

 池田信夫氏のブログを読んだ。

 納得できない部分もあったが、「大衆の動向を決めるのは論理ではなく感情」というのが問題の焦点であることはよくわかる。記事は以下のように結ばれている。

こうしたメタファーを論理で是正することは、彼らがそのバイアスを自覚しないかぎり不可能だ。メタファーは身体にかかわることが多いので、戦争や原発事故といった生存にかかわる恐怖によって形成されたバイアスは強力で、論理を受け付けない。人々が自覚していないバイアスを「脱構築」するには、大停電のような身体にかかわる演劇的な装置が必要だろう。

 「身体に関わる演劇的な装置」。「演劇的」とは「多くの人を同時に巻き込み、影響を及ぼす」という意味か。

 これからの演劇が啓蒙=論理に賭けることはないだろう。それは明白だ。これからの演劇は何をするものになるのだろう。どこに存在するのだろう。

 社会のいたるところで「演劇」という言葉の使用が消えない。小泉政治、エジプト、原発。なぜ「演劇」という言葉は消えないのか。「演劇」という言葉を使う者たちが、ほとんど演劇とは無関係にも関わらず? 演劇の規模はどうなるのだろう。主題は?

 社会が演劇化するなかで演劇は脱社会化したのか。社会と演劇の関係はどうなるのだろう。もし「社会」や「演劇」が存在するのならば?

 普段はできるだけまとまった考えを主張するようにしているが、今回はつい書きたくなってしまったので、結論がつかない。しかしわたしにとって大切な問いだ。

7/16 言葉でつながる

 演劇時評がだいぶ遅れてしまった。思い出せることから短く書く。

*女子サッカーがW杯で優勝

 日本時間の18日朝、女子サッカー日本代表がW杯で優勝した。W杯2連覇中のドイツ、強豪スウェーデンを破って進出した決勝で 世界ランク1位の米国をPK戦の末に下し、初優勝を果たした。

 「日本人として勇気をもらった」という感想を聞いた。ところで「日本人」とは制度を伴う「言葉」だ。「勇気をもらう」場合には同じ制度に含まれていることはそれほど大きな意味をもたないだろうから、きっと「日本人」という言葉でつながっていたからこそ、「勇気」が伝染したのだろう。

 「日本人」だけでなく、ひととひとをつなげる「言葉」がもっと増えたら、「勇気をもらう」機会も増えるのではないか。友人や家族や職場だけでなく、オフライン/オンラインの区別なく、多くの「言葉」でひとがつながるとき、極端な偏りを防ぎつつ、しかし多方面から刺激を受ける環境が実現するのではないか。多重帰属、そしてそれぞれに固有の様々な「つながりの名」。「日本人」だけでは少なすぎる。豊かな言葉の広がりを創造したい。

2011年7月16日土曜日

7/15 近代政治は文書を争う

 今日の演劇時評。

*菅首相:脱原発「私の考え」

 菅直人首相は15日の衆院本会議で、「脱原発」社会を目指すとした13日の発言に関し、「私の考え」と述べ、政府方針ではないとの認識を示した。首相が記者会見で表明した重要政策を、私的見解に後退させた形になる。[毎日新聞]

 13日、わたしは、「首相の意思」が消えても「国民の意思」を存続させる仕組みが必要だと書いた。それが現実的課題になりつつある。

 官僚制に支えられた近代国家において、政治とは文書を巡る争いだ。憲法、法律、政令、条例、どんなかたちであれ、最終的に文書=書き言葉にならなければ、決定は強制力をもちえない。仮に1億2千万人全員が一つの広場に集まり、菅総理の「脱原発」演説に対して巨大な喝采を送ったとしても、それが法的拘束力ある文書に姿を変えなければ、直接には何の意味ももたない。それが民主制のあるべき姿なのかどうか、議論は分かれるだろう。しかしいずれにせよ、今現在わたしたちはそのような国制のもとに生きている。まずはそこから出発せざるをえない。

 したがって、菅総理の話し言葉に一喜一憂するだけでは近代国家の国民として不十分だ。それがいかに制度化され法的拘束力をもつのか、その点を追求することが不可欠であり、支持・不支持はそのレベルでのみ成立する。

 今回、菅総理に「私の考え」と言わせた政治家たちを仮に「脱原発」慎重派と呼ぶならば、彼らは政治が文書とその法的拘束力を巡る争いであることを知悉している。そして早期に対処することに成功した。首相が交代したタイミングで「脱原発」社会を目指すという方針を反故にすることが可能になった。「脱原発」を目指すなら、菅総理の暴走気味な発言を利用し、そこから文書を勝ち取らねばならない。

7/14 脱・国家依存へ

 14日の分の演劇時評。

*エネルギー論争の盲点

 池田信夫氏の上記ブログ記事を読んだ。基本的で重要な指摘があると思った。以下、引用。

ドイツやスペインのように固定価格買取を導入して巨額の補助金を投入すれば、再生可能エネルギーを増やすことはできる。しかしそれによってエネルギー産業は農業と同じ補助金産業になり、国家統制が強まる。そして補助金産業は、補助金が切れると崩壊する。スペインの財政破綻で「グリーンテック・バブル」のはじけた欧州では、太陽光発電所の建設がストップしてしまった。

 わたしはエネルギー政策に詳しくないので、この指摘が完全に誤りないものかどうか、判断できない。ただ、その重要性は理解できる。

 わたしは日本の現状では「脱原発」が必須だと考える。しかしながら、再生可能エネルギーへのシフトが池田氏の考える通り補助金によってのみ成り立つとすれば、原発から別のエネルギーへという流れ自体は評価できるとしても、国家にエネルギーのあり方を委ねるという点ではこれまでと変わらない。それでよいのだろうか? 原発だけが問題だったのか? 中央集権的なエネルギー政策も問題ではないか? だとすれば、国家=中央が配分する補助金なしには成り立たないようなエネルギー政策は、これまでと同型の問題を温存するのではないか?

 わたしは311を「脱・原発依存」のみならず「脱・国家依存」への分岐点とすべきだと考える。国民国家モデルは緩やかに解体していくはずだし、解体すべきだ。国家は小さく、社会が厚くなればよい。そのために最初は国家をテコにする、ということもあり得るだろうが、エネルギーをめぐる経済や制度を国家に委ねないという根本的イデーを忘れてはならない。「歌詞は違うがメロディは同じ歌」が聞こえてくるようでは、まずい。

2011年7月14日木曜日

7/13 国民は失敗してもよい

 昨日の演劇時評。

*菅首相、「脱原発依存」への政策転換を表明

 菅直人首相は13日、今後のエネルギー政策について、これまで国策としてきた原子力発電には過大なリスクが伴うとし、「脱原発依存」への方針転換を打ち出した。菅首相は記者会見で、「将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」と述べた。「脱原発」の時期的なメドは明言しなかった。(WSJ日本版より)

 わたしは以前から、「政治家の寿命」よりも「政策の寿命」の方が長い場合、最終的に責任をとらない代表者に決定を委ねるべきではなく、国民投票をはじめとする別の方法が模索されるべきだと考えてきた。しかし、ここまで来たらそうも言っていられない。

 「退陣を表明した首相が何を語っても、そういう国づくりが進むとはだれも考えない」と語った自民党議員は、政権奪取の暁にはこの流れを転換すると予告したに等しい。「企業は生産計画を立てられない」と言う経団連幹部は、企業の意思など存在しないかの口ぶりだ。

 国民投票のような明示的形式をとらなくても、「国民の意思」は存在する。今現在、「政治家の意思」と「国民の意思」がある程度重なって「脱原発依存」という方向性が出てきたのだとすれば、今後必要になるのは、「首相の意思」が消えても「国民の意思」を存続させることだ。菅首相が退陣した瞬間に「国民の意思」が変わるわけではない。今の「国民の意思」を貫徹させるための圧力を可視化・組織化する必要がある。

 「国民の意思」には責任が伴う。政治は「いいとこどり」できない。「原発の代わりに化石燃料を使うと、法人税3割増税と同じコストアップが発生する」という主張があるようだが、もしそれが事実なら、日本経済に対するその帰結を含めて「脱原発」なのだから、採ればよい。結果が現れてから「騙された」とは言えない。

 しかし、だからといって「失敗は許されない」とはわたしは考えない。日本社会は自らの責任において行動し、場合によってはあっという間に失敗すればいいのではないか。そして反省し、ふたたび行動すればよいのではないか。それが時間であり、歴史だ。特定の政治家や、国策など、常に「自分以外の誰か」に責任を押し付ける限り、時間/歴史はそこでリセットされてしまい、国民主権の民主制社会としての反省・成長はありえない。

 今の日本は「時間づくり」の主体を「国家から社会へ」とシフトする好機にある。今後、国家は小さくなる。ここで国家への依存を強めてはならない。社会に力を与えなければならない。

2011年7月13日水曜日

7/12 未来から考える

 昨日の演劇時評。

*今の原発騒ぎを、未来のひとたちはどう思うだろうか

 先日、1960年代に書かれたある本を読んでいた。本の具体的内容は今は関係ない。ただその中に、当時のキューバ危機、および核兵器をめぐる「時代の不安」のようなものが記されていた。以前なら、「ああ、そういう時期があったんだな」で終わっただろう。しかし今回は妙にひっかかった。何にひっかかっているのか考えるうちに、原因がわかった。

 当時、キューバ危機や核戦争の不安にひとびとが怯え、社会が騒然としていたことを、わたしは歴史的事実として知っている。だが、その不安や騒動にどれだけの意味があったのか、同時に不思議な気持ちもする。騒ぐだけ騒いで、特に何も劇的なことは起こらず、時代は進んだのではないか、と。

 現在、同じようなことが起こる可能性を感じ、わたしはひっかかりを覚えたらしい。脱原発だの、それでは大停電が起こるだの、各自がいろいろなことを言っているが、いつの間にか原発も再稼動し、なぜあんなに騒いだのか思い出せないような日常が戻ってくる可能性もまだあるのではないか、と。

 今日(13日)の菅総理の「脱原発路線」発表によってその可能性は多少減じただろう。しかし問題の所在は別にあると思う。何か具体的なかたちを残すこと、何かを現実的・物理的に変え、変えたことを記録し、いずれ過去になる現在の状況、感覚、意思を伝えていくことが必要ではないか。

 原発の将来がどうなるにせよ、「なぜそんな問題で盛り上がっていたのか、全然わからない」といつか言われるのは、死にゆく者として惨めな気持ちがする。

2011年7月12日火曜日

7/11地震から4ヶ月

 昨日の演劇時評。

*地震から4ヶ月

 3月11日から4ヶ月が経過した。

 個人的には4月に子どもが生まれたため、家事と仕事で忙しくなり、あっという間に時間が過ぎた。

 われながら情けないことだが、今回の震災と原発事故によって、わたしは初めて「歴史との接続」が始まった気がしている。2万人を超える人が津波で死んだのに、それが正当な扱いを受けてないと感じると、それは日本に特殊なことなのか、太平洋戦争後はどのような追悼が行われたのかと調べる。この社会の死者に対する視点の欠如を実感すれば、過去が気になり、死者の視点で物事を見る芸能・能楽について読み始める。観阿弥・世阿弥による大成期が同時に死の影に覆われた時代であったことを知る。1755年のリスボン地震とその影響については知っているのに、日本の地震史、ならびにそれが芸能や知識人に及ぼした影響を知らない。

 知が揺さぶられ、秩序が揺さぶられるとき、それはこれまで存在しなかった別の接続が生まれる好機でもある。地震が起こってよかった、などとはもちろん思わない。しかし起こった以上、それをできる限り活かすことこそ、夥しい死者に対する追悼の一部であるはずだ。

 今回の地震を経て、言う価値があると思えること、書く価値があると思えることは、わたしにとって変化した。子供が生まれたことも影響しているかも知れない。今の社会を楽しくするために自分ができることを、確実にかたちにしていきたいと思う。

7/10 国家から社会へ

 10日の分の演劇時評。

*社会関係資本と国家

 10日は一歳年上の姉と保育園(2歳くらい)から一緒に育った友人の誕生日だった。今でもことあるごとに助けてもらっていて、二人には感謝している。

 3月11日以来、「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」の重要性が指摘されている。ウィキペディアによれば、これは「社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念」だ。「端的にいえば[…]地域力、社会の結束力と言ってもよい。[…]「顔の見える付き合い」すべてを指すといっても過言ではない」。

 日本の将来はこのソーシャル・キャピタルをどれだけ豊かにできるかにかかっているだろう。それは「マンションのお隣さんと仲良くすべき」とか、「古き良き人とのつながりを取り戻そう」という話ではない。自分にとって必要な相手と関係をもち、互いに援助しあえることが必要だ。

 4月に子供が生まれた。いろいろとモノが必要だった。服、ベビーカー、チャイルドシート。すべてもらった。車が必要なときも貸してくれる友人がいる。お金はないが、社会関係資本に恵まれたおかげで、特に不自由なく生活している。

 もはや問題は「子ども手当」に象徴されるような金銭ではない。もはや国家は国民に一様に解決策を与えることができない。お金はあっても友人のいないひと、友人がいてもお金がないひと、様々だからだ。問題は極めて多様化、複雑化、個別化しており、国家が上からできることは限られている。

 現在の領域国家システムはわずか数百年の歴史しかもたず、おそらく現在、それが本格的に変容していく時期に差し掛かっている。国家は縮小し、社会が拡大すべきだろう。それを大きな方向性として認識し、社会を厚くしていくことが重要だ。

7/9 法的な力と政治的な力

 9日の分の演劇時評。遅れてしまった。

*「法的」と「政治的」

 かつて外務省受験のために国際法を勉強した際、「国際コントロール」という制度を知り、興味深かった。

 「国際コントロール」というのは、簡単にいえば多数の国家による「寄合」だ。この寄合は、いろいろなことを話し合い、「あれは問題だ」「これはどうにかしないといけない」と議論する。しかしだからといって、誰か(=特定の加盟国)に対して何かを強制的にやらせる権限はもたない。ただ「あの件は問題だよね」「あの人(国)は問題だよね」と議論する。

 ところが、いくら強制力はもたないといっても、国際社会という舞台でそうおおっぴらに話題になれば、問題視された国は対処せざるをえない。国際的な信用、国家間の関係に影響を受けるからだ。

 このように、厳密な意味での強制力はないにもかかわらず、相手が動かざるをえない状況にする仕組み、相互利害の均衡を生み出すシステムが国際社会では模索されている。

 法学、政治学では「法的」と「政治的」の区別が重要だ。書かれた条文に従って強制的にとらされる責任が「法的責任」。条文に根拠をもつわけではないが、社会の状況に照らしてとらざるをえない責任が「政治的責任」。さきほどの「国際コントロール」の例では、「法的強制力」はないが「政治的圧力」はある、ということになる。

 日本の現状は、法的責任が悪用される(例えば検察の横暴)だけでなく、政治的責任も悪用されている(「政治とカネ」)。しかし政治的責任、政治的圧力は、本来であれば法がまだ整備されていない問題意識を「力」に変えるものであり、主権者の意思が社会を変革するためのツールであるはずだ。その力、その意思を、マスメディアというコンバーターを介さずに組織化することが必要だ。今後のソーシャルメディアの発達が「政治的な力」を組織するのだろうか。いずれにしても「規模」が必要だ。

2011年7月8日金曜日

7/8 プロセスこそ責任である

 今日の演劇時評。

*原発のストレステスト実施へ

 政府は、国内の全原発を対象に、災害や事故など過酷な事態への耐久性を調べる「ストレステスト」を行う方針を示した。ただし具体的な中身は不透明であり、1週間程度で内容を固めるというスケジュールも適切なものか疑問が残る。

 福島の事故が起こった以上、ストレステストは実施すべきだ。むしろずっと早く実施すべきだった。事実、河野太郎氏は2ヶ月前からストレステストに言及している。また、EUは、6月から加盟国の原発に対しストレステストを開始した。事故が起こった日本はEUよりも対応が遅い。

 今回の決定は唐突な印象を免れない。6月末の国際原子力機関(IAEA)閣僚級会議で全原発保有国に対するストレステスト導入が合意されていたという意見もあるが、これは飽くまでIAEA事務局が行動計画案を策定する際に参考意見として活用される「議長総括」に含めることを合意しただけであり、国際合意ではない。

 わたしのツイッター・タイムライン上では、菅首相の「反原発」的政策に喝采を送るひとが多い。しかし望ましい結果が得られるならプロセスを問う必要はないのか。菅首相の政策の「動機」は問うまい。精神を忖度しても仕方がない。しかし法的・政治的プロセスのあり方は民主制にとって本質的に重要だ。そうでなければ、ポピュリズムさえ存在すれば国民投票は必要ない、ということになる。

 プロセスの重要性はもう一点ある。今後、例えばこのストレステストで日本経済が打撃を受けた場合、日本国民はそれを菅直人首相の責任とするだろう。そしてその頃にはもはや菅首相は官邸にいないだろう。適正なプロセスを構想できなければ責任は常に「自分以外の誰か」に押し付けられてしまう。反省、改善、更新は存在しえない。プロセスこそ責任そのものだ。だからこそ結果だけに一喜一憂してはならない。

2011年7月7日木曜日

7/7 閉鎖性から複数性へ

 今日の演劇時評。

*九州電力:「原発賛成」やらせメール 関連会社に依頼

 九州電力の眞部利應(まなべとしお)社長は6日夜、同社内で会見し、玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)2、3号機の運転再開の是非を問うため経済産業省が6月26日にケーブルテレビで放送した県民向け説明番組に絡み、九電原子力発電本部の課長級社員が子会社に、再開を支持する電子メールを投稿するよう依頼していたと発表した。(毎日新聞)

 考えるところの多い問題だ。

1)原発を巡る現状でこんなことをしてもばれないと考えるほど思慮に乏しい人間が九電の「課長級社員」である。

2)日本の倫理は底が抜けている。これをいかにすべきか。

3)あるいは、日本の倫理は依然として「場」であり「組織」である。表現の自由をはじめとする基本的人権=各個人に属する権利という思想は馴染まず、場や組織の「掟」が優先される。

4)それを報じるメディアが貧弱すぎる。九電社長の「進退」を問題にしているが、トップが辞めても問題は変わらない。九電という組織、ひいては日本の倫理の再設定を問う好機にもかかわらず。

 詳細は不明だが、今回のことが公になったのは、「関連子会社」からのリークによるのだろう。日本が「場の論理」の強さという特殊性を抱えた国なら、その「場」自体を複数化し、多数化し、相互抑制と均衡を生じさせることが一つの可能性かもしれない。先日の松本復興相の件も、東北放送がテレビという場でのみ報じたら危うかったかもしれないが、東北放送は情報がネット上に流れることを確信していたはずだ。だからこそ報道できたのだと思う(むしろみずから流した可能性も考えられる)。ひとびとが複数の場に属していることが当然の前提になれば、いくら大臣や親会社の人間でも下手な指示は出せまい。

 閉鎖性を複数性によって代替する。それが日本の倫理の可能性だと考える。

2011年7月6日水曜日

7/6 国家と子供

 今日の演劇時評。

*子ども・子育て新システム:幼保一体「総合施設」

 政府は6日、新たな子育て支援策「子ども・子育て新システム」に関する中間報告をまとめた。従来の幼稚園、保育園、企業やNPOによる保育施設、さらには一定の基準を満たした無認可保育所が、まとめて「こども園」に指定される。各施設にバラバラに出している補助金は「こども園給付」に一本化。補助対象が広がり、現行と同水準の負担で幅広いサービスを受けられるという。

 この新システムの趣旨は「待機児童の解消」とのこと。しかし今回の中間報告では、あらゆる施設が「こども園」と呼ばれるようになることはわかったものの、それがいかに「待機児童の解消」につながるのかは不透明だ。補助金が一本化され、これまで同様の負担でよりサービスを受けられると言うが、そもそも待機児童問題の原因が何で、それをどのようにケアするのか説明を受けない限り、「それで問題が解決するのだろうか」という疑問は拭えない。その点に踏み込む新聞がないことも信じられない。官僚の説明を記事にしただけと捉えられても仕方ないだろう。

 これからの国家と子供の関係が問題になっている。少子化にもかかわらず子供をケアしきれないということは、今後の日本国家は子供の平等な育成に真剣な関心をもたないと考えてもよいのかもしれない。

 国民が税金を納めている以上、待機児童問題や都市部における子育てのしづらさを国家に手当させることは当然だが、しかしそれが単なる「名前のつけかえ」以上のものではほとんどなく、実効性に乏しそうであれば、逆にそれをビジネスチャンスと捉えることはできないのだろうか。そうした場合に民間の力を活かせるよう、今後の国家は「できるだけ邪魔をしない存在」、すなわち規制緩和を基本姿勢としなければならないのだが、それは官僚の権限を狭めることになるため、達成は容易でない。変革の要所は存在せず、あらゆるものごとを少しずつ変えていかねばならないのだろう。

7/5 追悼の更新

 昨日の演劇時評。

*東日本大震災の死者・行方不明者 2万2629人

 警察庁の発表によれば、7月3日現在、東日本大震災による死者・行方不明者は約2万3千人にのぼる。行方不明者とは「警察に届出があった行方不明者」を意味する。家族全員が津波に流され、届出が出されていないケースも想定されることから、実際の死者はさらに多いと思われる。

 今次震災の特殊性は、地震・津波と原発事故の二段構えになったことだ。そして後者は依然収束の見通しが立たない。そのため、2万人以上の人間が死んだ事実に日本人は向き合いきれていない。日本の「公」を担うはずの政治家たちも、日々の政局と原発問題に追われ、「死者の追悼」という問題には思い至らない様子だ。来年の3月11日が近づくまで意識することもないだろう。

 2011年3月11日は日本人と日本国家の関係性に歴史的な楔を打った。日本人は地震・津波対策や原発問題によって日本国家への信頼を失った。今後、日本を「国家の強化」によってまとめることは難しい。わたしは、これからの日本人は「国家」と「公」を分離し、「国家」をより小さく、しかし「公」をより大きくすべきだと考える。社会的・経済的な基礎を国家に委ねては「国家」も「公」も揃って崩壊すると考えるからである。アメリカで議論されている政府2.0のような形態が一つのモデルになるだろう。

 そう考えると、「死者の追悼」という、国民国家にとって極めて重要な意義をもっていた行為も、考えなおさねばならない。むしろ政治家や官僚にはもはや「死者の追悼」を先導する権利はないと考えるべきだ。「国家」のために「公」が組織される時代は過ぎた。それでも「死者の追悼」が必要だとすれば、なぜ必要で、誰がそれを組織すべきなのだろう。「国家」から分離される「公」とはいかなる理念に支えられ、「死者の追悼」はそれとどのように関係するのか、しないのか。

 追悼の理念と形式を更新しなければならない。

2011年7月5日火曜日

7/4 議論と意思決定

 昨日の演劇時評。

*松本復興相が辞任


 5日、松本龍復興担当大臣が辞任した。3日に宮城県の村井知事と会見した際の「叱責」を東北放送が放映し、インターネット上を中心に批判が高まっていた。辞任の理由については「個人的な都合」と述べ、明らかにしなかった。

 まず、この問題についてもっとも基本的なことを明らかにしたい。松本氏が批判されるべき第一の理由は、宮城県知事に対して高圧的な態度をとったからではない。その後、「今の言葉はオフレコだ」とし、「書いたらその社は終わりだから」と述べたことが問題なのである。

 この発言のとおり、主要メディアは会見の実態を報じなかった。発言を事後的にオフレコにできるとは、日本のメディアは報道の自由をみずから放棄しているようなものだ。この大臣を通じて見えてきた政治とメディアの関係が問題なのだ。

 その後、東北放送がこの件を報じ、ネット上で周知の事実となってから、マスメディアは後追いで報道した。しかもその際、「知恵を出さないやつは助けない」という発言に問題をすり替えた。政治との関係におけるみずからの自主規制が焦点化されないように歪曲したとしか考えられない。

 一方で、たかだか出迎えなかったくらいで日本の復興を議論する場のマインドセットを変えてしまう人間が大臣であることは、たしかに絶望的な状況だ。

 しかし、感情が理性を悠々と凌駕する、というこの事態は、常に、いたるところで、この国の問題だったし、これからも問題になるだろう。理性と論理を貫徹させることで物事を進めていくというモデルは、日本では不可能なのだろうか。しかしそれは「政治」が不可能性であることを意味するのではないか。いずれにせよ、この国が議論と意思決定のあらたなモデルを必要としていることは間違いない。

2011年7月4日月曜日

7/3 「日本」演劇の複数化

 日曜日の分の演劇時評。

*節電教育 高橋源一郎氏のツイート 経済産業省 東京都教育委員会

 東京電力・東北電力管内で「節電教育」が始まった。「節電教育」教材を作成しているのは経済産業省および各地の教育委員会。原発そのものの事態を収束させることは苦手でも、あっという間にテキストを作成することはできるようだ。

 この問題が明らかにしているのは、日本は依然として中央集権的国民国家モデルで物事を動かしている、ということだ。国民一人一人の課題とは、すなわち国家の課題であり、国家の課題を決定するのは受験制度の頂点にいる官僚である。

 課題が明白で、単純で、官僚たちがまっとうな能力と問題意識を備えていた時期はそれでよかった。しかし、今回の原発事故を受けての節電にもかかわらず、「なぜ節電が必要になったのか」「これからのエネルギー政策はどうあるべきか」といったことは微塵も考えさせず、ただ節電が必要だから子供は黙って節電しろと言わんばかりの「教育」では、この国を変えようとする有為の人材や、エネルギー政策の転換を好機と捉えるようなものの見方は育まれない。相変わらずの「由らしむべし知らしむべからず」だが、それではこれからの世界では立ち遅れるばかりだろう。

 とはいえ、この「日本」という「ただ一つの大きな演劇」を変革しようとしてももはや無駄だ。この「日本」演劇を推進する勢力は、マスメディアを活用して今後も「ただ一つの大きな演劇」を組織し続けるだろう。それと正面から衝突する必要はない。むしろ「日本」の演劇を複数化すること、脱中心化し、遍在化させることが必要だ。「公」と「私」のあいだに大きなグラデーションを生み出すこと、国家以外の場所に公共性を生み出すこと、しかも「私」とダイレクトにつながる公共性を生み出すこと。

 演劇は小さく、多く、いたるところに、そして個別具体的にならねばならない。

7/2 集会・民主制・自由主義

 土曜日の分の演劇時評。

*東電株主総会開催 スポニチ J-CAST

 6月28日、東京電力は福島第1原発事故後初の株主総会を開催した。株主からは議長の勝俣恒久会長の解任動議などが出された。会場には9千人以上の株主が訪れ、いずれの議案でも「賛成」に半数以上の手が挙がったが、勝俣会長はその数を確認することなくすぐに否決。議決数約131万のうち、大口株主からの委任状が約108万を占めていたため、採決を取るまでもなく実質的に結果は決まっていた。

 東電の個人株主は74万人。株主数の上では99%だが、株式数の割合は44%。他方で1%の大株主が56%の株を保有しているという。保有率3%台の株主上位には信託銀行、生命保険などの金融機関が並び、東京都も2.7%所有している。

 東電経営陣の提案はこの大口株主の委任状を後ろ盾にすべて可決され、株主からは「茶番だ」「出来レースだ」と批判が噴出した。

 20世紀ドイツの法学者カール・シュミットは、民主制と自由主義の並置(の擬制)こそ、現代において「政治」が抱える最大の問題の一つだと考えた。彼によれば、民主制とは集合体としての「公」の「喝采」により支えられるものであり、それは「公」を「諸個人」に解体し、一人一票を与え、秘密投票した結果を総計する自由主義とは根本的に相容れない。彼はルソーの全体意思と一般意思の相違を踏襲し、そのように考えた。

 今回の株主総会もまた、民主制に対する自由主義の優越と言える。法的観点からは何の問題もなく、文句のつけようがない。しかしこの自由主義的な制度のもとでは、これまでの数倍の株主が集まった事実や、ネット上を中心にそれに関する無数の声が挙がったことが何の意味ももたない。これは真に有効な制度なのだろうか? 「演劇」は喝采によって評価されるべきなのか、それとも無記名アンケートの結果を重視すべきか?

2011年7月1日金曜日

7/1 独裁と時間

 今日の演劇時評。

*橋下知事「今の日本の政治で一番重要なのは独裁」

 大阪府の橋下徹知事が、6月29日夜、大阪市で政治資金パーティーを開いた。その際、約1500人の参加者に対して大阪都構想への賛同を求めると同時に、日本の政治に関しては、「今の日本の政治で一番重要なのは独裁。独裁と言われるぐらいの力だ」と述べた。大阪都構想についても、大阪市を抵抗勢力と名指しつつ、「権力を全部引きはがして新しい権力機構をつくる。これが都構想の意義だ」と発言した。

 目的が達成され、ひとまず今よりもよい状況が生まれるならば、その手段は独裁でもかまわないのだろうか? あるいは目的の正邪と手段の正邪は一致すべきか?

 わたしは独裁一般を排すべきものとは考えない。問題はむしろ、その独裁がどれだけの時間を支配しようとしているか、である。ヒトラーはナチ党から政権を奪うことを実質的に不可能にし、またドイツの歴史を書き換えた。彼は過去と未来に及ぶ大きな時間を支配しようとした。彼が独裁を振るった対象は一国一時期の政策ではなく、より大きな枠組みそのものだった。そうした枠組みにおける独裁、手続きにおける独裁を見過ごすことはできない。これは政治だけでなく、組織一般にあてはまると思う。

 現段階での橋下「独裁」に対する是非は、彼の政策に対する評価次第だろう。しかし「独裁が重要」「新しい権力機構をつくる」と言い切る態度には、これからどこまで手を伸ばすか知れないという不安を感じる。大阪府民やメディアは、賛成/反対だけを焦点化してはならない。政策には賛成でも独裁的な手続きには反対など、より繊細な批判が必要とされている。メディアと独裁の関係もあらためて問題提起されるべきだ。