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2011年7月1日金曜日

[読書A1]ローマ法

木庭顕『ローマ法案内 ―現代の法律家のために』(羽鳥書店、2010年)

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 当然のことながら、まずは問題を把握するしかない。切迫した具体的な問題を捉え、そして何よりも、既存のツールがどのように、そしてできれば何故、破綻しているのか、を認識しなければならない。まさにこの破綻が問題状況であり、切り込むべき相手である。

 ということは、破綻を捉えるとき、まずは現代の社会における問題自体を繊細に感知していなければならないが、同時に、既存のツールに対して全く新たな目を向けなければならないことも疑いない。というより、この二つのことは同じことである。というのも、問題は、既存のツールが所与に対して機能しない、ということによって与えられている。他方、如何なる問題も既存のツールが何らかの形で関わった結果、多くの場合失敗した結果、形成されている。所与自体がツールとの関係で意味を与えられているのみならず、所与の現実の中に既存のツールの残骸が含まれている。すると、既存の道具とその失敗を一個の現実として把握し直し、これを踏まえて、新しい問題を位置付け、そしてこれに立ち向かうためにはどのようにツールを構築すればよいのか、と考える以外にない。まず初めに来るのはどうしても、既存のツールの一体どこが機能しないのかということを精密に測定する、ということである。

 そうであるならば、最初の作業は、既存のツールをもう一度点検するというものになる。それならば十分に知っている、知り尽くしている? しかしこの意識自体がここで問われてくることになる。本当に知りぬいたと言えるのは失敗を把握しえたことを意味し、次の構築に向かいうるということを意味する。ところがわれわれはここに至っていない。 [2−3頁]

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 最も避けなければならないのは、現代におけるのと似たような問題が有ったと性急に言うことである。行き詰った現代のローマ法学が低俗化の極として提供し始めている形態である。「消費者問題」や「環境問題」が有った? これは物笑いの種である。おそらく現代の問題さえ切実に捉えていないに違いない。精度が悪すぎる。

 既存のツールの破綻が問題であった。われわれの苦しみはローマの苦しみではない。しかしローマの苦しみが把握できなければローマの道具を把握できず、順次それが更新されていった意味が理解できない。すると現在の道具の更新ができないし、現在のわれわれの苦しみの意味が理解できない。[…]

 むしろ、ローマで何が問題にされたかは、現代におけるのとは全く違うという像が必要である。差異の厳密な認識こそがわれわれの精度を上げる。そしてこうすればこうするほど、われわれの問題自体が今までとは全く異なった様相でわれわれの前に現れる、というのでなければならない。問題が新鮮に見えてくれば、新しいツールの構築は間近である。 [6頁]

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 では、紀元前8世紀にギリシャにおいてポリスが成立して以来の土台とは何を意味するか。ギリシャの人々は、ポリスという社会編成を有しない人々と有する人々を厳格に区分した。緩やかに、前者の人々は「自由」(eleutheria)を持たないと考えた。[…]ポリスという社会編成を有することの決定的なメルクマールは、完全に自由独立な複数の主体が君臨しているということである。「完全に自由独立な」ということの意味であるが、それら主体間の関係を(或る高度な質を伴った)言語だけが媒介しており、実力や物的非物的取引が媒介しているのではない、ということである。「君臨する」ということは、彼らがこの言語つまり自由な議論だけで物事を決定したとき、この決定が社会全体に対してオールマイティーでありこれを覆すものがない、ということである。 [17−18頁]

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互いに自分の利益を十分に追求する自由が無ければならないと同時に、まさに相手のそれを保障するために、重要な情報を相手に開放しなければならない。「フェアに戦う」ということである。出し抜かない、隠さない、圧迫しない、等々のことが含意されるが、結局こうしたことは当事者の意識の問題である。現に意識が様々な不透明な力に支配されているときには透明性が生まれない。裏切ったり裏切られたりである。しかるに、そのような透明な意識は一朝一夕に形成されるものではない。極めて硬度で複雑な培養が前提となる。ギリシャではその培養をさしずめ文芸が担った。今日「ギリシャ神話」の豊富な内容として人々が知るものである。 [20頁]

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第一に、委任はしても決して代理はさせないから、批准するかどうかは本人の自由である(レフェレンダムの効用)。これがお前の欲したところだ、引き受けろ、という者の専断と傲慢(代表理論の(不正確な理解の)弊害)は排除される。「皆の決定」=「お前も同意した」に対して懐疑的でありうる。第二に、委任構成でありながらなお、本人もまた居ない、ないし本人を誰も名乗りえない。つまりレフェレンダムに対してさえ懐疑的たりうる。にもかかわらず本当に手続きが尽くされていれば皆は趣旨をよく理解してその通りに動くであろう、という自信である。政治的決定の単一性・一義性を担保するためには、却って手続を尽くすことがよく、単一性だからといって「誰か一人の意思」のようなものを擬制することなど忌避する、という思考である。周知の如く、「主権」の概念はそのような擬制(と決して等価ではないが、それ)を導きやすい。 [25頁]

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自由で独立の主体が存在するということと、その人々が軍事的に動くということは正反対である。政治の空間からは実力の要素は完全に排除されていなければならない。にもかかわらず、この体制を外から実力によって破壊しようとするその実力に対して、軍事組織を以てするしかない場合がある。ちなみに、内側において実力で政治システムを破壊しようとする動きに対しては、実力を用いずにこの実力を破砕できるのでなければ、政治システムたるの資格がない。これは後述の刑事司法の問題となり、このとき実力を用いずに訴追が行われる。[…]軍事化の結果出現した軍事組織が内側に向かって人々を支配しないとは限らない。これをどのように抑止するかは政治にとって最大の課題である。 [28−29頁]

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一年任期は、実に暦のメカニズムの利用であった。暦にはアジェンダが書き込まれ、これは人々の協働を統御する力を持つ。休日は人々を労働から解放し、祭日は身分を無礼講によって解消する。労働の予定、特に著しい協働の予定、は暦に書き込まれている。他方、太陽のリズムと月のリズムを調整するために暦には空白を設けなければならない。二月の末に設定されるが、ローマの場合、この期間は極大化される。暦の空白は協同組織の空白を意味する。人々は流動化する。ここで選挙を行い、軍事編成し、三月になっても編成された社会的一部はそのままの状態に置かれ、日常の隊形に戻らないこととする。これがローマ流の軍事化である。暦に完全に依存するため、一年後にはこの編成は完全に一旦解消される。選挙の結果を含めて。 [28−29頁]

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政治の存立ということに沿って全てが行われるという点は人々の意識の中にビルティンされた判断力が担保する。実態規範はもとより手続規範も原則として書かれない。書いてしまえばそれが自己充足的な権威となって自由な批判を阻害すると考えられた。あくまで実質で思考するのである。 [31頁]

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裁判の場合、決定の機縁は、政治システムの基礎が破壊されたという事実のみに限定された。たまたま誰かが誰かの自由を制約したというのでなく、その事実が放置されればその後そこに政治があるとは言えなくなる、という事実である。 [31頁]

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実現は個別主体の手に委ねられ、しかし同時にその事業は完全に透明で皆のものである、という二重の意味の樹立が生命になる。これは後に委任や組合の概念に生かされるから、わかりにくければむしろ委任のロジックを想起すればよい。かくして「国庫」などを決して概念させない。これを握ったものが全てを牛耳るであろうから。代理人を観念させないに似る。さてそうすると、実現する主体は私人であるということになる。このとき贈与に通常伴う交換や負担の観念を完全に断ち切る必要がある。それはまさに相手が「誰でもない」(そしてまたすぐに述べるように、神々である)ということによってなされる。 [40−41頁]

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一定の財物を失う覚悟であるならば、逃亡して構わないということになる。領域を有し得ないということは追放を意味するが、しかし亡命さえすればそれ以上罪は問われないということでもある。亡命エクシリウムexiliumの権利はこうして保障されるようになる。ということは身体刑スップリキウムsupplicium、その最大のものsupplicium maximumとしての死刑、は違法になる。死刑廃止はデモクラシーや弾劾主義の重大な帰結である。デモクラシーと言えるためには死刑を違法とするのでなければならない。共和末のローマで市民を死刑とする権力濫用はまさにスキャンダルであった。[…]政治システムとしての構成原理を思想として拒絶したからといって犯罪ではないし、裁判が何か反省や改心を求めたりそれによって量刑が左右されるということは断じて許されなかった。精神を罰してはならないというのは今日に至るまで刑事法の基礎である。ふわふわと漂う無分節のものを罰することになるからである。政治はあくまで理念のレヴェルに存するが、だからこそ、物的なレヴェルからの超越が生命であり、だからこそこのレヴェルからの侵食だけを問題とした。だから物的な帰結のみに関わり、したがって身体のみに関わるが、しかし悲しいかな、身体を抹殺すると、精神まで抹殺してしまうことになる。 [51−52頁]

2011年5月27日金曜日

クライスト(4)

 次の論文では『ローベルト・ギスカール』を扱ってもいいかもしれない。共同体、災害(ペスト)、コロス、政治、ギリシャとの関係(ソフォクレス)など、重要な要素が詰まっている。それにしても研究の進まない一ヶ月だった。来月はより具体的に動かそう。

2011年5月10日火曜日

演劇理論(2)

 「ポストドラマ演劇」と呼ばれる状況の中で、コロス(合唱隊)はふたたび注目を集めている。「ポストドラマ演劇において、コロスの回帰が生じているのは動かしがたい事実である」(レーマン『ポストドラマ演劇』、邦訳172頁)。ではどのような意味において「回帰が生じている」のだろうか。

 レーマンの『ポストドラマ演劇』においても、フィッシャー=リヒテの『演劇理論事典』(「コロス」の項の執筆はウルリケ・ハス)においても、近年の演劇でコロスを革新した演出家として、アイナー・シュレーフの名が挙げられている。曰く、

近代のドラマが古代のコロスと縁を切ったのは、集団と個人との相互関係を忘れようとしたからだ、とシュレーフはいう。市民的な個の誕生は、市民としての主体の成立を最大限に可能にするために、集合的現実性に結ばれていたへその緒を切り離した。ゆえに新しい演劇形式は、「コロス/個人軸」に関する基本モデルがなお維持されているような残余とその遅延された形姿にこそ、結びついているのだ。 [前掲書、174頁]

集団で麻薬を摂取することにより、共同体が創設される、もしくは更新される。コロスの組織原理としての麻薬は、したがって、関係性の構築と組織において、血縁関係の代替となる原理なのである。 [Metzler Lexikon Theatertheorie, S. 51]

シュレーフは近代的な個人と集団の関係性をコロス演劇によって問い直した。具体的には、「コロス的なもの」が含まれていると彼が解釈した戯曲を、もともとの登場人物の指示とは関係なく、集団の合唱を取り入れて演出したのである。『母たち』や『スポーツ劇』の演出が特に知られている。

 シュレーフが行ったことは、「近代的な個人と集団の関係性」を揺るがすほど強烈な舞台を、舞台上につくることだった。演劇を「知覚の政治学」と捉えるレーマンはこれを高く評価する。しかしそこからさらにもう一歩歩みを進めた演劇実践をわたしたちはすでに目にしているのではなかろうか。それは直接「観客の組織」に向かっている演劇である。

 前回書いたように、古代ギリシャのコロスは一般市民であり、見物席の観客とコロスを演じる者たちのあいだには実は明確な境界線がなかった。言い方を変えれば、純粋な観客などというものは存在しなかった。彼らは常にコロス/観客であり観客/コロスだった。この視点から、現代演劇の一部を「観客をコロスとして組織する演劇」として考察する可能性が生まれる。次回はそれについて論じたい。

[続く]

2011年5月4日水曜日

クライスト(1)

 次の論文では「コロス」をキーワードにクライストの「演劇理論」について論じる。

 クライストの民衆=コロスは、「声」をあげることによって秩序を破壊し、国家を代替する集合体である。秩序を破壊するコロス。主人公に対するコロスの優位という要素。

 クライストはなぜそんな構想を抱いたのか。それはどのような思想から出てきたのか。また彼はいかにしてそれを実現しようとしたのか。短編小説における群集のような、コロスとして明示されない場合も考察の対象とする。

 出発点はレーマンの論文とHandbuch。来週までに論点と文献を整理する。

2011年5月3日火曜日

演劇理論(1)

 欧米や日本で上演されている現代演劇の起源が、古代ギリシャ演劇にあることは、誰もが認めることだろう。

 古代ギリシャ演劇は、喜劇も悲劇も、「コロス」という合唱隊を登場人物のなかに組み込んでいた。というか、この合唱隊こそが演劇の出発点だったと考えられている。「個人」の主人公たちが物語を繰り広げる以前に、「集団」の舞踊と合唱があった。

 ところで、ギリシャ演劇のこの「コロス」を務めたのが、アテネの一般市民だったことは、それほど知られていない。現代の日本であれば、「裁判員制度」のようなものだったと考えていいだろう。

コロスの選抜過程は不明だが、おそらく演劇祭の実行委員長である筆頭執政官が、市民全員が平等に演じる機会をもつような持ち回り制度にしたがって指名したと思われる。(山形治江『ギリシャ劇大全』、論創社、2010年、53頁)

 古代ギリシャの演劇祭は国家行事だったから、このような制度も可能だった。「コロス」としてデビューした市民は毎年219人。「市民」とは成年男子をのみを指し、その総数は紀元前4〜5世紀のアテネで約3万人ほどだったようだ。一方で裕福な市民は、演劇祭のために「コロス」が稽古をするときの休業補償や謝礼を出す義務を負っていた。この義務を「コレゴス」という。金のある者は金を出し、一般市民は舞台に上がったということだ。

コロスの参加義務によって、演劇は市民にとって非常に身近な存在だった。しかも当時は地縁血縁の結束が強かったから、親戚、隣人、友人など知人のだれかは常に舞台デビューを果たしていただろう。「あれが俺の叔父さんだ」「今年は隣の息子が出るぞ」などと客席も大いに盛り上がったにちがいない。(前掲書、53頁)

 したがって、その起源において演劇は、以下のような特徴を備えていた。

① 国家行事/共同体の祭りだった
② 一般市民が参加した
③ 一般市民同士で「見る/見られる」関係があった
④ 「コンテスト形式」の採用によって、政治プロセスに似たものだった
⑤ 娯楽だった

 選挙にも似たところがあるし、ツイッターにも似ている。まずは演劇の起源がこうしたものであることを確認して、これから何回か「演劇理論」について書きたい。演劇は今では芸術の一分野に過ぎず、芸術も社会のごく小さな一部門に過ぎない。しかし以上のような起源に照らせば、現在「演劇」と呼ばれているイベントよりも、選挙やツイッターの方がずっと正しい演劇だ、と主張することもできるのである。

2011年3月15日火曜日

「現場でしかわからない」

感情のある種の興奮がどれだけ必要不可欠か(たとえすでにもっている考えを再生産するためだけでも)ということは、授業を受けて勉強しただけの偏見ない人々が試験を受け、前置きもなく「国家とはなにか」「財産とはなにか」などと問われているのを目にするとき、よくわかることが多い。もしこうした若者たちがなんらかの社会で国家や財産についてある程度話し合ったことがあるなら、彼らは様々な概念の比較、抽象、統合によって容易に定義を下せるかもしれない。しかし感情の準備がまったく欠けているならば、彼らは口籠るだろう。そしてそこから、彼らは知らないのだ、と結論づけるのは、ただ愚鈍な試験官だけである。というのも、「わたしたち」が知っているのではなく、知っているのは、何よりもまずわたしたちのある種の「状態」なのだから。国家とは何か、昨日暗記して明日忘れるような人々、そんなまったく卑しい精神だけが、こうした場合に答えを用意しているものだ。自分の優れた面を示すためには、公開試験はどんな機会よりも悪いかもしれない。

「語るにつれて思考が次第に完成していくことについて」
(ハインリヒ・フォン・クライスト)

 「知」は「状態」においてしかあらわれない。あるいは「状態」そのものが「知」である。要するにクライストは、「何事も現場でしかわからない」と言っている。「国家とはなにか」「財産とはなにか」という問いを試験会場で答えることはできない。国家が動いている現場、財産が動いている現場でしか答えを知ることはない。それを信じたからこそ、彼は哲学者でなく実作家の道を選んだ。彼にとって物語とは「現場」である。「国家とはなにか」という問いに対して哲学的・抽象的に与えられた答えを暗記するだけでは、わたしたちは何も知ることができない。しかし物語という「現場」に「状態」が置かれた場合には、そのとき限りかもしれないが、何かを知る可能性が生まれる。何かを知ることはまったく容易でない。読者が何かを知ることができるように、読者に現実的に役立つように、クライストは戯曲や小説を書き、雑誌や新聞を発行した。

 人間は知を支配できない。知を備えていると自称できるのは「まったく卑しい精神だけ」だ。知を支配しようとせず、みずからの「状態」に応じて「知る」ことができなければならない。理性ではなく、知覚、感情、反応が必要だ。脳ではなく身体が重要だ。事態を事前にコントロールし尽くそうとするのではなく、状況を知覚し、感情に従い、すばやく反応すること。それが「知る」ことであり、知と行為が一致するその瞬間を、クライストは構想していたのである。

2011年3月8日火曜日

具体的な日に知ったこと

 今日は具体的に進んだのでよかった。

 さて、『ドゥルーズ 千の文学』という本がある。出版されたばかりで、初版2011年1月25日とある。アルトーやカフカ、ベケットをはじめとするドゥルーズが論じた文学者たちについて、専門家が短く紹介し、ドゥルーズとの関係をまとめている本だ。それがどうしたのかというと、ここに独立した項目として「クライスト」があり、そこで慶応大学教授の大宮勘一郎氏が、クライストにおける「『一般的』危機と『民主政』の関係」について短く触れているのである…。3日前、「クライスト研究においてはどうもまだ誰も触れてないようだが」と断ってクライストにおける「一般的」という語の問題を切り出したとき、わたしはまだこれを読んでいなかった。そして今日読んでたいへん驚いた。

 それは、「これを論じる研究者がいたか」という驚きではない。実はこの大宮勘一郎氏は、わたしの修士時代までの恩師なのである。そうなんです…。しかし彼と最後にクライストの話をしたのはおそらくもう4〜5年前。わたしは学部の卒業論文をクライストの「チリの地震」について書いて提出した(2006年)ものの、修士論文ではイェリネク『雲。家。』を論じた(2008年)からだった。もちろん4〜5年前にクライストにおける「一般」ということを議論し合った記憶はない。それでも同じ時期に同じようなことを書いてしまうのだから、師弟関係というのは恐ろしいものだ…。個人的にはたいへん興味深いことだと思った。

 演劇をやりますといって早稲田に移り、結局はクライストに戻ってきていることをわたしは大宮先生に報告しておらず、これ自体たいへん申し訳ない現状なのだが、次の論文を書いたら非礼を侘びにご挨拶に伺おうかと思う。それにはまず読んでびっくりしてもらえるような論文を書かなければならない。幸い、「演劇をやります」はまったくの嘘になってしまったわけではなく、むしろ「演劇」からクライストに近づくつもりだ。そのアプローチを彼はどう評価するだろうか。

2011年3月7日月曜日

具体的に進めねばならない

 論文はもっと具体的に進めないとな…。具体的に進んで、具体的に戻る。壊して、またつくる。まずは明日。

 だいたい以下の問題系があるので、これをいかに発展させ、組み合わせ、凝縮し、面白い文章にできるか。

1)政治理論、演劇理論、クライストの「モデル」
2)一般意志、危機、世論、民意、声、「喝采」、コロス、民衆、共同体
3)裁判、プロセス、戦争
4)悪、ネットワーク、秩序とその動揺

それでは明日もがんばろう。

「真理と裁判形態」

 以前読んだときは重要性を理解できていなかったが、フーコーの「真理と裁判形態」は非常に面白く、また重要な講演であることがわかった。特に演劇理論と演劇史に興味があるなら必読だろう。ベンヤミンは演劇の原型を裁判に求めたようだけど、その方向にさらなる通路を開いてくれる論考。ギリシア悲劇とコロスについて調べようと思って再読し始めたのだが、クライスト研究の(複数の)核心のひとつになりそうだ。今後も読み返す。

2011年3月6日日曜日

「一般」とは何か・資料

市民が互いにいかなるコミュニケーションもとらず、人民が十分に情報を与えられた上で決断するなら、数多くの小さな差異のなかから常に一般意志が現れ、その決断はつねによいものとなるだろう。
[…]
 真に一般意志の表明を得るためには、国家のなかに部分社会が存在せず、また各市民が自分自身の意見のみを代表することが重要である。
[ルソー『社会契約論』、東浩紀の翻訳を参考にドイツ語レクラム文庫版31頁から重訳]

ルソーは、『社会契約論』と同年に出版した『エミール』の第二篇で、まさにこの『社会契約論』を参照しながら、人間の依存を「自然に由来する事物への依存」と「社会に由来する人間への依存」に分け、一般意志への従属は人間への依存ではなく事物への依存であり、だから強固でよいものなのだとはっきりと記している。
 一般意志は人間の秩序ではなくモノの秩序に属する。それはコミュニケーションの結果としてではなく、あたかも自然物であるかのように立ち現れる。そして政府はつねにそのモノに従わなければならない。ここにこそルソーの政治思想の核心がある。
[東浩紀『一般意志2.0』第3回、『本』2010年2月号、19頁]

ルソーは代議制を否定しただけではない。政党政治を否定しただけでもない。彼はそもそも、すべての市民が一同に会し、全員がただ自分の意志を表明するだけで、いかなる意見調整もなしにただちに一般意志が立ち上がる、そのような特殊な社会を夢見ていた。というよりも、ルソーは、たとえその実現がいかに夢想的に見えたとしても、そのような社会が実現しなければひとは決して「自由」にはならないと考えていた。
[同上、20頁]

たとえ何百万人の人々の意見が一致してもそれは何ら世論となるものでなく、その結果は単に個人の意見の集積にすぎないからである。こういう方法では共同意思すなわち一般意思(ヴォロンテ・ジェネラール)は生ぜずして個人意思の 集積すなわち全体意思(ヴォロンテ・ドゥ・トウ)を生ずるにすぎない。
[カール・シュミット『憲法論』、阿部・村上訳、285頁]

2011年3月5日土曜日

「一般」とは何か

 考えるところあってクライストの主要著作にallgemein「一般的」(英語のgeneral)という語が何回どこに出てくるか調べた。もちろん今日一日で全ての著作に目を通したわけではなく、PDFに検索をかけただけだ。クライストの主要著作はPDF版がクライスト・アーカイブのウェブで公開されていて、誰でも利用できる。

 件の単語は21回登場していた。そして予想通り、多くが「危機」や「災害」や「敵」に関係していた。

 クライスト研究においてはどうもまだ誰も触れてないようだが、allgemeinというこの語をクライストはルソーの影響下で使っているのではないかとわたしは考えている。つまりルソーの「一般意志(英訳はgeneral will)」に由来しているのではないか、ということだ。この「一般」というのは、階級や職業や性別に関わらず全体に関係するという意味だが、クライストはそれを「危機」を通じて実現するものだと考えていたのではないか。伝統も思想も制度も共有しなくとも、「危機」を共有することで「一般性」は実現し、「一般意志」があらわれる。これは彼の民主主義論にもつながる。最重要文献は「オーストリアの救済について」という小論。

 この問題系にはクライストの問題点ももろもろ含まれているのだが、ひとまず今日はこのあたりで。以下は本日の参考映像。たいへん面白い。






2011年3月4日金曜日

ネットワークと行為

 クライストにおける「悪」の問題に関しては、昨年11月に『シュロッフェンシュタイン一族』について以下のようなメモを書いていた。

結局、すべての根本原因であるような「悪」は存在しないということ。何らかのきっかけで誤解や不信が始まり、それがほとんど自動的に大きくなってしまう。ゲルトルーデの台詞はそうしたシステムにおいてしか語られえない、すなわち、Drehen freilich / läßt alles sich.(「もちろん全ては/反転可能」)ということ。特定の「内容」や「伝統」をひとびとはもはや共通了解としておらず、「言葉」あるいは「論理」そのものが問題となっている。個々人の考えや思いは一般化できない(クライストにおいて「一般的」なものはカタストロフだけだ。それとルソーの「一般意志」の関係、あるいは「伝統」との関係はおそらく非常に重要)。何を言おうとも、常に「逆もまた然り」と反論されてしまう。他方で、自分で自分の論理システムを閉じてしまったルーペルトのような人物には何を言っても無駄になる。そのような時代の「論理劇」としての悲劇をクライストは書く。この点で重要な人物はルーペルト。彼の不安定さ、怒りと不安、復讐の確信と突然の自信喪失、彼こそクライストの時代の人物だ。一貫性のなさ、一貫性の不可能性が「もうひとつの演劇」の可能性だったのではないか。共通了解がなく、一貫性が不可能だからこそ、クライストの人物たちは作中でいとも簡単に変化する。ジルベスターも最後は復讐に赴く。一貫した「善」などない。理想化された、あるいは心理的に典型化された「性格」はない。なぜならそんな「性格」として生きることは現実に不可能だったからである。こうしたことがいわゆる「カント危機」とどれだけ関係しているかはまだわからない。なぜなら、カントが問題にしていたのは究極的な意味での「物自体」の認識、人間の認識能力の限界であって、言語と現実の関係とは必ずしもいえないからである。 [クライスト(9)より]

 クライストもまたネットワーク的な思考で「悪」の問題を考えた。たとえば、一つの「悪」と呼ばれる出来事が後世において数千の「善」と呼ばれる出来事に結果的につながったならば、その原因となった「悪」はそれでも「悪」なのかという問題提起をしている。彼は明らかに絶対的な「悪」を信じていない。むしろ物事の連鎖の仕方に興味があるのだ。

 したがって、クライストにおいては「善悪」それ自体を描くことよりも、むしろ「システムが自動的にカタストロフへと向かうこと」が問題になる。「悪」の問題よりもプロセスの問題。しかもそこでは「言葉」が非常に重要な役割を果たしている。プロセスを先へと押し進めるのは常に「言葉」である。

 ところで、いくつかの単語について。

エマージェンシー(emergency 緊急事態)という語はエマージ(emerge 現れ出る)から生じていて、その反対語のマージ(merge)はラテン語のメルゲレ(mergere 液体に沈められた、浸された)から派生している。“緊急事態”は普通の状態からの分離であり、新しい空気の中への突然の侵入を意味し、そこではわたしたちは危急の事態に際して上手く対処することが求められる。カタストロフ(大惨事)という言葉は、ギリシャ語のカタ(kata 下へ)と、ストレイフェン(streiphen ひっくり返す)から来ている。カタストロフは予想外の展開を意味し、かつてはストーリーのどんでん返しを意味していた。予想外の状況になることは必ずしも悪くないが、これらの言葉は悪運を暗示するようになった。 [レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』、亜紀書房、22−23頁]

クライスト作品では、まさに「新しい空気の中への突然の侵入」が生じ、これまで大地を支えてきた秩序が突如としてひっくり返る。そしてその出来事に明確な原因を求めることができない。自然災害や、誰が何の目的でつくったのかわからない契約が、物事を動かし始め、事態は雪だるま式にエスカレートしていく。出来事の連鎖の中で「善」と呼べそうな行為や「悪」と呼ばざるをえない行為が行われる。

 しかしクライストがそうした作品を書いた目的は、もっと大きなところにあったはずだ。事物が終わりなく連鎖し、ネットワーク上の思わぬ部分に影響を与え、手の付けられない自動的なプロセスを生み出していくときに、どうすれば何かを支持したり非難することができるのか。「善悪」が相対的なものになってしまうときに、それでも「善悪」を名指すにはどうすればよいのか。何が何に影響を与えるかわからないときに、どうすれば行為できるのか。哲学者たちが「思考するとはどういうことか」を考えたのと同じように、クライストは「行為するとはどういうことか」を考え、実践していた。その可能性は彼の書き残したものからまだまだ汲み上げられるはずなのだが…。

 今日は時間切れ。これから産婦人科に行くので、続きは明日以降。たいへん混乱したメモになってしまった。

配電盤としての悪

 村上春樹は、河合隼雄との対談「『アンダーグラウンド』をめぐって」の中で以下のような発言をしている。

僕は昔から自分の小説の中で、悪というもののかたちを書きたいと思っていました。でもうまくしぼりこんでいくことができないんです。悪の一面については書けるんです。たとえば汚れとか、暴力とか、嘘とか。でも悪の全体像ということになると、その姿をとらえることができない。 [『約束された場所で』、文春文庫、273頁]

村上春樹が「悪の一面」しか書けてないとはわたしは思わない。非常にクリティカルで、かつ消化できない異物感を与えるポイントが、彼の書く「悪」にはある。それは「悪がポジティブに働くこともある」という部分だ。『ねじまき鳥クロニクル』の加納クレタと綿谷昇の関係がそうだし、暴力もそういう機能をもつことがある。

 村上春樹を読む上で重要なキーワードのひとつは「配電盤」だ。それがはっきりあらわれたのは第二作『1973年のピンボール』である(だからこの本が海外で読めないことを残念に思う)。さて、「配電盤」の何が重要なのか。「配電盤」とは、「電気回路の開閉や電気系統の切換えを行うための設備」である。電気を通過させ、配置するためのメディウム。そして村上春樹の登場人物たちは、「通過のメディウム」というこの意味において、みな多かれ少なかれ「配電盤」なのである。主人公や脇役といったヒエラルキーは関係ない。誰もがメディウム=媒介=巫女なのだ。例えば『羊をめぐる冒険』のキキ(この名前が判明するのは『ダンス・ダンス・ダンス』においてだが)。彼女は作中で突然消える。彼女は主人公の「僕」を通過してしまったのだ。そこに見られるのは、「脇役は主人公を通過させるための配電盤である」というような中心を持つ秩序ではない。誰もが誰かの配電盤であり、誰もが誰かを通過して成長し、誰かにただ通過されて傷つくのである。配電盤は一つではない。それは無数に存在する。

 そして「悪」もまた一つの配電盤で、「悪」を通過することで決定的に損なわれる者もいれば、「悪」を通過することで回復し、成長する者もいる。「悪」は絶対的なものではない。誰もがそこから一つの同じ影響を受けるわけではない。村上春樹の物語とそこにおける「悪」は硬直していない。だからこそ村上春樹の小説は大きな動揺をもたらす。そこに描かれている「悪」がひとを救うという事実をどう考えたらいいのかわからなくなるのだ。しかしそれこそ「悪」の本質的な一面である。もし「悪」が一方的にたたきつぶせばよい何かなら、人類がこれほど長く「悪」の問題に囚われることなどなかっただろう。

 村上春樹の物語にはゴールがない。中心もない。誰もが誰かを通過し、誰かに通過され、何かに出会い、出会われる。電気は絶えず行き交い続け、終わりはない。物語は線的ではなく、ネットワーク的である。だからこそ、一度「悪」によって損なわれたからといって、それが決定的な終わりを意味するとは限らず、どこか留まることのできる場所に到達したからといって、そこに居続けられるとは限らない。それは希望であると同時に不安である。答えはない。救済の可能性と崩壊の可能性は背中合わせになっている。それが世界の構造なのだ。

 ほんとうはクライストにおける「悪」について書くために、その導入として村上春樹のことを書きだしたのだが、予想より長くなってしまったのでここで一旦切る。

2011年3月3日木曜日

クライストのコロス

 仕事のためにレーマンのハイナー・ミュラー論「モノローグとコロスのあいだで ハイナー・ミュラーのドラマトゥルギー」を読み進め、次のクライスト論でも「コロス」は重要なポイントになるなとヒントを得た。

 クライストの作中に出てくるコロスもしくは民衆は、アリストテレスやシラーやシュレーゲルの定義するコロスとはだいぶ違う。クライストのデビュー作『シュロッフェンシュタイン一族』はコロスの場面から始まるが、それは少年少女からなるコロスで、しかも呪詛の言葉で復讐を誓う。戯曲の冒頭から少年たちが「復讐だ! 復讐だ! 復讐だ!」とか言う。これはいわゆる「客観的審級」とも「理想的観客」ともだいぶ違う。

 それにしてもコロスに関する日本語の研究書がないことに驚いた。日本のギリシア劇研究がどうなっているのか全然知らないが、大丈夫なのだろうか。他方、ドイツ語に関しては、ここ何十年かの演劇がテクストにおいても上演においてもコロスを重視してきたためだと思われるが、いくつかあるようだ。『アイナー・シュレーフのコロス演劇』とか。

 コロスに関する基礎的な知識さえあやういので判断がつかないのだが、わたしがすでに知っている演劇理論でコロスに関してもっとも興味深いのは、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』における以下の部分だ。

古典古代の訴訟――とりわけ刑事訴訟――は、原告と被告という二つの役割だけに立脚し、裁判官による審理手続きを欠いていたがゆえに、対話である。古典古代の訴訟は合唱隊をもっていて、これは、一部は誓言保証人のなかに[…]、また一部は裁判に対して慈悲を嘆願する被告の盟友たちの一団のなかに、そして最後の一部は、裁きを下す人民集会のなかにあった。[…]ギリシア悲劇は、訴訟手続きのこのイメージのなかに入ってくる。ギリシア悲劇においても、ひとつの調停審理が行われるのである。[…]劇作家の意識において神話が審理なのだとするなら、彼の作品は、その審理の写しであると同時に再審でもある。そして、この訴訟全体が、円形劇場の広がりの分だけ膨らんだ、この再審には、共同体が監督機関として、いやそれどころか、裁きを司る機関として臨席する。共同体の側では、和解について裁定しようとし、この和解の説明のなかで劇作家は、英雄たちの事蹟の記憶を更新するのである。だが、ギリシア悲劇の結末にはつねに、<証拠不十分>という響きがまじっている。[…]悲劇のまえかあとに演じられるサテュロス劇は、上演された訴訟のこの<証拠不十分>の結末に対する準備もしくは応答をなしうるのはただ喜劇による感情の高揚だけである、ということの典型的な現われなのだ。 [ちくま学芸文庫、上巻248-250頁]

クライストが取り組んだのはまさに「裁判としての演劇」だった。その中でのコロスの役割については、一つの定義を見つけようとするよりも、ベンヤミンに倣って複数の「あらわれ方」を記録しながら考えたほうがいいのかもしれない。実際、コロスを構成するひとびとも様々だし、発言や行動の内容も場合によって違うから、無理矢理まとめようとするとクライストを貧しくしてしまいそうだ。

 演劇、裁判、声、民衆、秩序の動揺と再構築。このあたりが論文では問題になるのだが、どこからどう取り組んだらいいのか、まださっぱりわからない。しかしクライストがわたしにとってfood for thoughtの塊であることはたしかだ。実際のところ、民衆の声が法的秩序を揺るがすことを、わたしたちはどう考えたらいいのだろう?

2011年3月2日水曜日

「悪」を抱えて生きる

河合 だからね、本物の組織というのは、悪を自分の中に抱えていないと駄目なんです、組織内に。これは家庭でもそうですよ。家でも、その家の中にある程度の悪を抱えていないと駄目になります。そうしないと組織安泰のために、外に大きな悪を作るようになってしまいますからね。 [「『悪』を抱えて生きる」、村上春樹『約束された場所で』所収、文庫版308頁]

村上 人間というのは自分というシステムの中に常に悪の部分みたいなのを抱えて生きているわけですよね。[…]ところが誰かが何かの拍子にその悪の蓋をぱっと開けちゃうと、自分の中にある悪なるものを、合わせ鏡のように見つめないわけにはいかない。だからこそ世間の人はあんなに無茶苦茶な怒り方をしたんじゃないかという気がしたんです。 [同上310〜311頁]

真実の瞬間 それは鏡に
敵の姿が映るとき    ―ハイナー・ミュラー

 なぜかここ数カ月でゆっくり村上春樹を読み返していて、『風の歌を聴け』から始めて、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『ねじまき鳥クロニクル』と進めてきた。次のクライスト論はある意味では村上春樹論にもなると思う。両者に共通する点の一つが、この「悪」の問題。

 こういう問題に取り組むからこそ、逆になんとなく笑える論文、ほほえましい論文にしたいと思っているけど、無理かな…。