悲劇『シュロッフェンシュタイン一族』(Die Familie Schroffenstein, 1803)
1.あらすじ
シュロッフェンシュタイン一族には二つの分家がある。ロシッツ家とヴァルヴァント家である。両家は「誰が始めたかわからない」奇妙な遺産相続契約を結んでいる。すなわち、片方の分家の血筋が絶えた場合には、その全財産を他方の分家が相続するのである。この契約が両家を疑心暗鬼にさせている。相互不信はやがて悲劇につながる。ロシッツ家の息子オトカールとヴァルヴァント家の娘アグネスが愛し合うようになり、両家の和解の可能性が見えたにもかかわらず、誤解、伝聞、不安、怒りがその成就を妨げ、オトカールとアグネスは、誤ってそれぞれ自分の父親に刺し殺されてしまうのである。
2.メモ
2.1 重要
・クライストのデビュー作であると同時に、クライストとしては例外的に「モデル」をもたない作品(「ロミオとジュリエット」に似た要素はもつが、Handbuchによれば直接の影響関係はないという)。したがって、この戯曲に現れている要素はクライストの問題意識を明確に反映していると(他の作品にもまして)考えてよいだろう。
・作品がコロスから始まっている。しかも「少年少女」のコロスにいきなり復讐を誓わせる合唱をさせている。
・遺産相続契約から全てが始まっている。誰が始めたかわからないその契約は、「堕罪におけるリンゴ」のようなものと喩えられている。近代の堕罪は「文書」によってなされるのか? あるいは、古代の悲劇が「運命」によって引き起こされたとするなら、近代の悲劇は誰が書いたかわからない「文書」によって生じるのだろうか。また、「遺産」がすなわち「土地」であること。土地をめぐる争いは『ケートヒェン』におけるクニグンデを想起させる。さらに土地=大地の相続が「秩序」と深く関わること。「チリの地震」の問題設定。
・作品冒頭からFehdeやKriegという言葉、さらに病、気絶、発作というクライストに典型的な出来事、Rechtgefuehlという問いなどがあらわれている。のちには鏡のシーン(水に映る自己)さえある。
・そもそもタイトルからして「家族」をテーマにしている。のちの作品にも繰り返し現れる問題。重要なのは、このFamilieが「家族」というよりも「一族」を意味しており、婚姻や養子縁組といったのちの作品における「家族」のあらわれ方よりも「血縁」の匂いが濃いことだろう。この処女作で「血族の崩壊」を描き、のちの作品ではそれ以後としての核家族や非血縁的家族を描いたと考えることもできるかもしれない。Familieは語源的には「集団」というくらいらしいが、もっと調べる価値あり。
・この作品もまた裁判劇である。さまざまな謎と秘密を明らかにしていく裁判劇であると同時に、いわばロシッツ家が原告、ヴァルヴァント家が被告の、当事者しかいない裁判。ルーペルトははっきりと「原告を被告にした」と台詞で言っている。第三者の審級がない、当事者だけの裁判こそ演劇の起源であるとしたのがベンヤミンだった。他方、キリスト教世界の裁判劇は、「有罪/無罪(Schuld/Unschuld)」を法的のみならず道徳的、宗教的にも捉えるため、裁判劇が同時に宗教劇、道徳劇になる。この二重性、三重性に留意せよ。
・信頼と不信(Vertrauen / Misstrauen)。開く/隠す。アグネスがオトカールを信頼したのは、同じ水を飲み、それが毒だったら一緒に死ぬことを示したからだった。行動によって信頼や愛は勝ち取られる。
・クライストにおける「気絶する(in Ohnmacht fallen)」こと。OhnmachtとはMacht(力、権力)がない(ohne)状態。このohnはfortやwegを意味するそうなので、「力から離れて」と考えられるか。すると「in Ohnmacht fallen」は「力から離れた状態へと落ちる」ことである。これが「気絶」。「力から離れた」状態でしか知らないこと、できない行為がある、というのがクライストの作品。もちろんメスマーの理論なども影響しているのだろう。
・人間と自然の重なりあい。クライストは重要な場面で必ず人間を自然の比喩で語る。民衆を大河や波と喩えたり、怒りに満ちた人間を雷を落とす雲に喩えたりする。その一つの根拠が『シュロッフェンシュタイン』では示されていた。すなわち、「自然(Natur)」と人間の「本性(Natur)」は同じ言葉なのである。したがって本性を示している人間を自然の比喩で語るのはごく自然なことなのだ。枯れた木は強風が吹いても倒れないが、強く健康な木は逆に倒れてしまうという有名な言葉もその一つ。また、『シュロッフェンシュタイン』においては、Stammという語が「家系」と「木の幹」を同時に意味することも重要。
・オトカールとヨハン。母親は別とはいえ、クライストにおいて兄弟が出てくるのはこの作品だけなので重要。アグネスを巡って対立するだけでない。ヨハンは注目すべき人物。「アグネスに殺されたい」という死の欲望を抱き、それに失敗すると発狂して道化と化す。「ヘルマン」における魔女のようである。しかも盲目のジルビウスを伴ってあらわれ、ある意味で「真実」を告げる。道化と盲者、すなわちシェイクスピアとソフォクレス! しかしそれは預言というよりも、結末における確認である。もっとも重要な台詞は、Versehen? Ein Versehen? Schade! Schade! である。そのグロテスクさ!
・fallenが「死ぬ」をも意味すること。一度死ぬこととしてのfallenを経由して、変化が起きる。他方で、キリスト教の洗礼を意味するTaufe、すなわち名付けの儀式ももともとは「水に深く潜ること(tief ins Wasser ein- oder untertaufen)」を意味している。キリスト教文化における「落ちること」「潜ること」の射程と意味とは?
・すでに「民衆(Volk)」が重要な要素としてあらわれている。ロシッツ家からの使者をヴァルヴァントの民衆が「石」を投げて殺してしまう。逆にヴァルヴァント家の意向を伝えにきたイェロニムスは民衆の「棍棒」で殴り殺される。石も棍棒も「チリの地震」に登場し、やはり民衆が使う武器である。ジルベスターが民衆について言う台詞「非行も行う精神も何かの役には立つ。もっと役立たせよう、利用しよう」は重要。
・結局、すべての根本原因であるような「悪」は存在しないということ。何らかのきっかけで誤解や不信が始まり、それがほとんど自動的に大きくなってしまう。ゲルトルーデの台詞はそうしたシステムにおいてしか語られえない、すなわち、Drehen freilich / laßt alles sich.ということ。原因の思考(ゲルトルーデ)と結果の思考(ジルベスター)が対立するが、結局はどちらも等価で決定と選択の問題でしかない。なぜなら特定の「内容」や「伝統」をひとびとはもはや共通了解としておらず、「言葉」あるいは「論理」そのものが問題となっているだからだ。個々人の考えや思いは一般化できない。何を言おうとも、常に「逆もまた然り」と反論されてしまう。他方で、自分で自分の論理システムを閉じてしまったルーペルトのような人物には何を言っても無駄になる。そのような時代の「論理劇」としての悲劇をクライストは書くのである。この点で重要な人物はルーペルトだ。彼の不安定さ、怒りと不安、復讐の確信と突然の自信喪失、彼こそクライストの時代の人物だ。一貫性のなさ、一貫性の不可能性が「もうひとつの演劇」の可能性だったのだ。共通了解がなく、一貫性が不可能だからこそ、クライストの人物たちは作中でいとも簡単に変化する。ジルベスターも最後は復讐に赴く。一貫した「善」などではない。理想化された、あるいは心理的に典型化された「性格」ではない。なぜならそんな「性格」として生きることは現実に不可能だったからである。こうしたことがいわゆる「カント危機」とどれだけ関係しているかはまだわからない。なぜなら、カントが問題にしていたのは究極的な意味での「物自体」の認識、人間の認識能力の限界であって、言語と「真実」の関係とは必ずしもいえないからである。
2.2 その他
・クライストにおける「抱きつく(um den Hals fallen=首のまわりに落ちていく)」こと。「チリ」のエルヴィーレなど。
・「死んだら誰も罪人ではない」というジルベスターの言葉。
・谷で見つけたアグネスを「マリア」と名付けたオトカール → 「チリの地震」
・有名な台詞:Das Leben ist viel wert, wenn mans verachtet.
3.今後
・クライストは裁判劇であると言うだけでは仕方がないので、いよいよもう一歩。
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