2010年11月15日月曜日

時間・歴史・演劇(5)

1.フリードリヒ・ニーチェ「遺稿」

意識は、まさにひとつの道具である。そして、意識なしでもいかに多くの、また重要なことがなされているかを考慮するならば、意識は最も必要なものでもなければ、驚嘆に値するものでもない。正反対である。おそらく、これほどまずく発展した器官はないし、これほど様々な欠陥のある、誤作動する器官はない。意識はまさに最後に成立した器官であり、したがってまだ子供なのである――われわは、その様々な幼さを勘弁してやろう!


2.ミシェル・フーコー「ニーチェ、系譜学、歴史」(『コレクション3』ちくま学芸文庫)

至る所にわれわれ自身を認めさせ、過去のあらゆる移動に和解の形を与えることをわれわれに許してくれるような歴史、歴史自身の背後にあるものに世界の終りの視線を投げかけるような歴史。こういう歴史家たちの歴史は時間の外に視点をこしらえている。[…]それは歴史が、永遠の真理、不死の魂、つねに自己との同一性をもち続ける意識を想定したということである。 [368頁]

実際の歴史の世界はただ一つの王国しか知らないのであって、そこには摂理も窮極原因も存在せず、存在するのはただ「偶然のさいころ筒を振る必然性の鉄の手」だけである。 [371頁]

実際の歴史はある展望に立つ知であることをおそれない。[…]ニーチェの考えるような歴史的感覚は、自分がある展望に立っていることを認めており、自身に固有の不公正の体系をもつことを拒否しない。評価し、イエス、ノーをいい、毒のあらゆる痕跡をたどり、最良の解毒剤を見つけようという明白な意図をもって、ある角度から対象を眺めるのである。自分の眺めるものの前で控えめに自分を消すふりをするとか、自分の眺めるもののうちにその法則を探し求め、これに自分の動きの一つ一つを従わせるとかするのではなくて、これはむしろ、自分の眺めているものも、自分がそれを眺めている場所がどこからなのかもよく知っている視線なのである。歴史的感覚は、知がその認識の運動そのものの中で自分の系譜を作製する可能性を、知に与えるのである。 [373-374頁]

歴史を反‐記憶とすること――そしてその結果として、そこでまったく別の形の時間を展開させることが問題なのである。 [379頁]

さまざまな仮面がたえ間なく立ち戻ってくるような、時間の大謝肉祭を開かせようとするのである。われわれの蒼ざめた個体性を過去の強度に現実性をもつアイデンティティーと同一化するよりもむしろ、再び現われてくる無数のアイデンティティーのうちでわれわれを非現実化することが問題なのである。 [380頁]

尚古的な歴史においては、われわれの現在がそこに根づいている連続性を認識することが問題であった。大地、言語、都市の連続性である。[…]系譜学もまた、われわれの生まれた土地、われわれの語る言語、あるいはわれわれを支配する法則の問題を立てるが、それはわれわれの自我の仮面のもとにあらゆるアイデンティティーをわれわれに禁じているさまざまな異質の体系をさらけ出すためなのである。 [382-383頁]


3.ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』(河出文庫)

多様なあるいは多元的な肯定、これが悲劇的なものの本質である。[…]悲劇的なものはもっぱら多様体のうちに、つまり肯定それ自体としての多様性のうちに存在するのだ。悲劇的なものを定義するのは、多様なものの喜び、多元的な喜びである。この喜びは、昇華、浄化、補償、諦観、和解といったものの結果ではない。悲劇的なもののあらゆる理論のなかで、ニーチェは本質的な無理解を、つまり美的現象としての悲劇に対する無理解を告発できる。<悲劇的>とは、喜びの美的形式を示すのであって、医学的処方も、苦悩や恐怖や同情の道徳的解決も示してはいない。 [50頁]

ニーチェは偶然を一つの肯定にするのだ。天空そのものは「偶然の天空」、「無垢の天空」と呼ばれる。ツァラトゥストラの支配は「大いなる偶然」と呼ばれる。「<偶然に>、これこそ世界のもっとも古い高貴さであり、私はこの高貴さをすべての事物に取りもどしてやった。私はすべての事物を目的への隷属状態から救出してやったのだ。…私はあらゆる事物のうちに幸福の確信を見出した。すなわち、事物はむしろ偶然という足で舞踏するのを好むということである」。「私の言葉はこうだ。<偶然が私のところに到来するに任せよ。偶然は幼子のように無垢である>」。したがって、ニーチェが必然(運命)と呼ぶものは、けっして偶然そのものの消滅ではなく、その組み合わせである。必然は、偶然そのものが肯定される限りその偶然について肯定される。というのは、偶然そのものとしての唯一の組合せしかなく、偶然のあらゆる分肢を組合せる唯一の仕方――すなわち<多>の<一>として、つまり数あるいは必然として存在する仕方――しかないからである。 [66-67頁]

歴史一般とりわけヘーゲル主義は、勝利するニヒリズムのうちに自分たちの帰結を、しかし自分たちのより徹底した崩壊を見出していた。弁証法は歴史を愛し管理するが、しかし弁証法は、自分が苦しみ、また管理していないような歴史をそれ自身もっている。一つに統合された歴史と弁証法の意味は、理性の実現でも、自由の実現でも、種としての人間の実現でもなく、ニヒリズムであり、ニヒリズム以外の何ものでもない。 [314-315頁]

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