2010年11月19日金曜日

時間・歴史・演劇(6)

1.ジークムント・フロイト「自我とエス」(『自我論集』ちくま学芸文庫)

すべての抑圧されたものが無意識的(ubw)なものであることはあくまでも正しいが、すべての無意識(Ubw)が抑圧されたものであるとは限らない。自我の一部が、しかも自我にとって非常に重要な部分が、無意識的(ubw)なものでありうるのであり、そして確実に無意識的(ubw)なものである。[…]ここでわれわれは、抑圧されない無意識(Ubw)という第三のものを想定することを迫られる。 [212頁]

知覚システムから発生し、当初は前意識的(vbw)であるものを<自我>と名づけ、無意識的(ubw)なものとしてふるまうものを<エス>と名づけることを提案する。 [220頁]

われわれにとっては個人とは、一つの心的なエス、未知で無意識的なものである。自我はその表面にのっているのであり、自我からその核として知覚(W)システムが形成される。 [221頁]

自我はエスに対して、自分を上回る大きな力をもつ奔馬を御す騎手のようにふるまう。[…]自我は騎士の場合と同じように、馬から振り落とされたくなければ、馬が進みたい場所に行くしかない場合が多いのである。すなわち自我は、あたかもそれが自分の意志であるかのように、エスの意志を行動に移すしかないのである。 [222-223頁]


2.ルイ・アルチュセール『フロイトとラカン』(人文書院)

フロイトは、すべてが言語に起因するとすでに言っていた。ラカンはそれをはっきりさせて言う。「無意識の言説は一つの言語のように構造化されている」と。 [40-41頁]

コペルニクス以来、われわれは地球が宇宙の「中心」ではないということを知っている。マルクス以来、われわれは人間主体、経済上、政治上あるいは哲学上のエゴが歴史の「中心」ではないということを知っているし、――啓蒙の《哲学者》たちに抗して、それから、ヘーゲルに抗して、歴史というのは「中心」をもたず、イデオロギー上の誤認のなかでしか必然的な「中心」をもたないような構造を有しているにすぎないということさえ知っている。フロイトがわれわれに暴いてくれたのは、現実の主体、特異な本質から見た個人というのは、「自我」、「意識」、あるいは「実存」――それが、対自のであれ、固有な身体のであれ、「行動」のであれ――に中心化されたようなエゴの形象をもたないということであり、また人間主体は、「自我」の想像上の誤認のなかでしか、すなわち、自我がみずからを「認知する」場合のイデオロギー構成体のなかでしか「中心」をもたないような構造によって脱中心化され、構成されているということであった。 [50頁]

≪文化≫の≪掟≫が押しつける劇的な構造、「演劇的機械」 … フロイトの言い方(「もう一つの演劇…舞台」)を踏まえたラカンの表現(「機械」)。「ドラマ」という言い方をしたポリツェルから、演劇、舞台、演出、機械仕掛け、演劇ジャンル、演出家などの言い方をしたフロイトとラカンまでには、みずからを演劇と取りちがえている観客から――その演劇そのものまでの距離がそっくりそのままある。 [48頁、350頁]

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