2010年11月3日水曜日

政治・経済・生活(1)

1.マイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』(早川書房)

公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはならない。(335頁)

われわれは、同胞が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念を避けるのではなく、もっと直接的にそれらに注意を向けるべきだ。(344頁)

道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。(345頁)


2.ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)

マス・コミュニケーションの描く軌跡でありその眩惑的な感傷癖の源泉でもあるこの核心とは、まさしく何も起らない場所なのである。
[…]
われわれは記号に保護されて、現実を否定しつつ暮らしている。これこそまさに奇蹟的な安全というものだ。世界についてのさまざまなイメージを目にする時、束の間の現実への侵入とその場に居合わせないですむという深い喜びとを誰が区別したりするだろうか。イメージ、記号、メッセージ、われわれが消費するこれらのすべては、現実世界との距離によって封印されたわれわれの平穏であり、この平穏は現実の暴力的な暗示によって、危険にさらされるどころかあやされているほどだ。(26頁)

同時に、消費の場所についても定義することができる。それは日常生活である。日常生活とは、単に日常的な出来事や行為の総体、月並みと反復の次元のことではなくて、解釈のシステムのことである。また、日常性とは、超越的で自立した(政治や社会や文化の)抽象的領域と「私生活」の内在的で閉ざされた抽象的領域への、全体的な実践の分裂のことである。(27頁)


3.

 共同体的自己決定、討議的民主主義、熟議。その理念は否定しないが、現実的にどのようなインフラとどのような手続きで実現できるのか。いかにして日常生活に組み入れうるか。手段・規模・質、どの面においても生活の時間と溶け合うことが重要だろう。この点において、メディアの革新だけでなく、消費文化を新たな政治参加の可能性として肯定的に評価する東浩紀の議論(朝日新聞「論壇時評」)は、一つの新しい理論の出発点となりうるように思う。


4.ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)

[消費の社会的論理は、]財とサーヴィスの使用価値の個人的取得の論理[…]とはまったく別のものであり、欲求充足の論理でもない。それは社会的シニフィアンの生産および操作の論理である。この視点に立つと、消費過程は次の二つの根本的側面において分析可能となる。すなわち、(一)消費活動がそのなかに組みこまれ、そのなかで意味を与えられることになるようなコードに基づいた意味づけとコミュニケーションの過程としての側面。この場合消費は交換のシステムであって、言語活動と同じである。[…](二)分類と社会的差異化の過程としての側面。この場合、記号としてのモノはコードにおける意味上の差異としてだけでなく、ヒエラルキーのなかの地位上の価値として秩序づけられる。(67頁)

人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。――理想的な準拠としてとらえられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団をめざして自己の集団から抜け出すために、人びとは自分を他者と区別する記号として(もっとも広い意味での)モノを常に操作している。(68頁)

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