悲劇断片「ロベール・ギスカール ノルマン人たちの王」(Robert Guiskard, 1808)
1.あらすじ
ノルマン人たちは戦争中だが、仲間内でペストが流行してしまう。民衆は不安になり、戦争をやめたい。しかもノルマン人たちの王ロベール・ギスカール自身もペストに冒されたという噂が流れ、動揺は一層高まる。ギスカールの王子二人が民衆に対応するが、一方は民衆に愛されておらず、他方は民衆をさらなる不安に駆り立ててしまう。ついには王があらわれ、健在を印象付けようとするが、病に冒されている事実を隠すことが出来ない。民衆の代表者たる老人は、王に向かって祖国へ戻ることをあらためて訴え、断片は終わる。
2.メモ
・演劇と裁判の根源的関係を更新し、民衆を彼の時代に見合ったかたちでふたたび「裁判官」の地位につけようとした点に、近代演劇におけるクライストの特異点がある。重要なのは「主人公」ではなく民衆なのだ。この「演劇」は「裁判」と同時に「政治」にも近い。それは当然である。すべては民衆の「声」に関わる。判決も「声」であり、人民の投票も起源においては「声」であった(現在でも「票」と「声」は同じ単語だ)。『ギスカール』においては、「声を率いる Stimme fuehren」ことが問題となる。王が「声」を聴くか否か。法、民主主義、代表制。あるいは民主主義以前の共同体の組織。
・クライストとソフォクレス。クライストがソフォクレスを継承しているのは、『ギスカール』において『オイディプス王』のように人々がペストに襲われている、というようなレベルだけでない。演劇が本来裁判であること、演劇においては共同体における法の更新が問題となり、その法の更新には犠牲が伴われること、法には国家の法、神の法など様々な側面があることなど、演劇の本質に関わることをクライストは受け継いでいる。
・「流体」としての民衆。民衆は波、大河として表現される。すなわち無定形。それは「かたち」としての秩序と対立する。民衆に「かたち」がないわけではない。しかし常に揺れ動く。民衆が「声」として表現されることも無定形性を意味する。
・民衆はコロスである。しかし冷静に状況を観察し客観的な判断を下すコロスではなく、不安定である。シラーやヘーゲルらのコロス理解と比較せよ。
・カタストロフ。ペスト、地震、戦争。秩序が動揺をきたすとき、共同体がどのような事態に直面するか。その思考実験。ペストに毒された民衆は、もはや行為できず、呪いの言葉を吐くだけ。無事な者たちは一刻も早く祖国に帰りたがる。
・二人の王子。ロベールとアベラール。分身? 「チリ」や「拾い子」と比較せよ。二人はその価値観において対照的。伝統と感情によって王にふさわしいと自認するアベラールと、その身分によって王になる権利を主張するロベール。この「双子」の善悪は揺れる。あるいは善悪で評価できない。
・言葉の問題。「真実」は告げるべきか、その必要があるか。民衆は噂(=言葉)で動揺し、秩序を揺るがす。王は「言葉」によって損なわれた秩序を回復しようとするが、彼の身体は言葉を裏切ってしまう。言葉と秩序(政治)。
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