1.リチャード・ローティ「哲学に対する民主主義の優先」(『連帯と自由の哲学』岩波書店)
<われわれに先行し、われわれに与えられているところのある秩序>に正確に合致することが、正義に関する考え方を正当化するのではない。われわれのより深い自己理解やわれわれの熱望するものと一致すること、<自分たちの公的生活に組み込まれている自分たちの歴史と伝統においては、それがわれわれにとって最も理にかなった教説である>ということをわれわれが認識すること――こういったことが、それを正当化するのである。 [ロールズ、180頁]
話相手が議論の話題として提出するものをまじめに受け取ることに気が進まなければ――われわれは好意と寛容を停止させなければならない。このような見解をとることは、<ただ一つの道徳的語彙とただ一組の道徳的信念だけが、どこの人間共同体にとっても適切である>という考えを捨てて、<われわれは、歴史の展開にしたがって、問いと、その問いを提出する際に用いられた語彙とを、あっさりと捨ててしまうことができる>と認めることである。 [188頁]
<人間は中心のない信念と願望の網目であり、その語彙と意見は歴史的状況によって決定される>という見解は、これとは対照的である。この見解は、<そうした二つの網目の間に十分重なりあうところがないため、政治的話題について合意に達することができず、あるいはそうした話題に関する有益な議論すらできない>という可能性を考慮に入れている。 [190頁]
プラトン的な見方による真理、すなわち、「われわれに先立ち、われわれに与えられる秩序」とロールズの呼ぶものを把握するものとしての真理は、民主政治には何の関わりもない。したがって、そうした秩序と人間本性との関係を説明するものとしての哲学も、これまた民主政治には何の関わりもない。それらが衝突するときには、民主政治が哲学に優先するのである。 [191頁]
私が依拠する戦略は、<得ようとする必要があるのは反省的均衡だけである>[…]と主張する全体論的戦略である。 [195頁]
ジェファーソンとデューイは、どちらも、アメリカを一つの「実験」と考えた。もしその実験が失敗すれば、われわれの子孫は大切なことを学ぶであろう。だが、その場合、彼らは宗教的真理を学ぶのではない。それと同じように、彼らは哲学的真理を学ぶわけでもない。彼らは、次の実験を行なうときに何に注意しなければならないかということについて、ヒントを得るだけである。民主主義革命の時代から存続しているものがほかにないとしても、<社会制度は普遍的・非歴史的秩序を具体化しようとする試みではなく、むしろ共同で行なう実験と見なしうるものだ>ということは、彼らの記憶するところとなるであろう。この記憶が持つに値しないということは、信じ難いことである。 [200頁]
2.
プラグマティズムは「議論すべき話題」を認めず、「議論されることを望まれている話題」しか認めないだろう。それはやはり「生産の理論」ではなく「消費の理論」ではなかろうか。ローティの論文を読んでいると、ロールズというのは、「マーケット」を分析したうえで「政治(正義)のマーケティング戦略」を生み出した人のように思われる。
ところで、上記ローティ(とロールズ)の引用は、すべてがクライストについて論じているかのように読めることが、わたしにとっては驚きである。現代アメリカの正義論を検討することは、クライストを読む可能性を創造的に拡げてくれるように思う。
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