2010年11月17日水曜日

政治・経済・生活(5)

1.ウルリヒ・ベック『世界リスク社会論』(ちくま学芸文庫)

世界共通の問題は、存在しないならば、つくり出されなくてはならないものなのです。というのも、そうした問題は、コスモポリタン的な共通性を編み出す助けとなるような戦略の宝庫だからです。 [9頁]

リスクの概念は、近代の概念です。それは、決定というものを前提とし、文明社会における決定の予見できない結果を、予見可能、制御可能なものにするよう試みることなのです。[…][しかし]それらの問題や危険は、(チェルノブイリ原発事故や米国同時多発テロなどの)全世界の人々の目に明らかになった大惨事に見られるように、それらをコントロールできるという公にされた言葉や約束とはまったく相容れないものです。 [27-28頁]

危険のグローバル性を認知することによって、国際政治と内政の固定したように見えるシステムが流動化し、つくり替え可能なものになるということです。この意味で恐怖というものが、疑似革命的な状況をつくり出しますが、そのような状況は様々な仕方で利用することができます。 [29頁]

「世界リスク社会」というものの日常経験空間は、したがって万人の万人に対する愛情関係によって生まれるわけではないのです。それは、文明世界による行為のグローバルな結果としてわたしたちが認識する惨状において生まれるのです。[…]一方では、言葉の沈黙を打ち破り、自分の生活連関におけるグローバル性を、痛みを伴って意識させ、他方では、新たな対立の方向を示し、同盟を生み出すということが、世界リスク社会における自己再帰性なのです。自分が危険にさらされていることについて、たえず語り合うことによってのみ、自らを保つことができるのだ、ということを近代国民国家は学んできました。このことは、世界リスク社会においても同じだと思われます。 [33-34頁]

テロ攻撃は国家というものを強化します。しかし、その本質的な歴史的形態の価値を低下させます。その形態とは、国民国家のことです。[…]諸国家は、自国の利益のために、脱国家化しなくてはいけないし、超国家化しなくてはいけません。つまり、グローバル化された世界において自分のナショナルな問題を解決するために、自己決定権[自律]をある程度、放棄しなくてはいけないのです。[…]国家の自己決定権の縮減と国家主権の増大とは、論理的に決して排除しあうものではなく、それどころかお互いに強め合い、進展を助け合うものなのです。 [52-53頁]

主権と自己決定権とを区別するのが重要になります。国民国家は、主権と自己決定権との等置を基盤としてきました。[…]国家の世界的な評価は、もはや(冷戦のときのように)、対立図式によってではなく、協調する能力と才覚や、ネットワーク化された国家間関係における位置付けや世界市場における立場や、超国家的組織における存在感によって測られるものになります。 [54頁]

コスモポリタン的な国家は、国家がナショナリズムに対して冷静であるという原則に基づいています。宗派によって形づくられていた16世紀の内戦が、国家と宗教の分離によるウェストファリア条約で終結したのと類似して、(これはひとつのテーゼなのですが)20世紀と21世紀初頭が国家主義的な世界(市民)戦争に対して、国家とネーションの分離によって応じることができるのかもしれません。無宗教国家がさまざまな宗教の実践を可能にしているのと類似して、コスモポリタン国家は、国境を超える民族的、宗教的アイデンティティの共存を、立憲的寛容の原則によって保障しなくてはいけないでしょう。 [58-59頁]


2.

 出版メディアが国民国家成立の重要な一因となったように、インターネットがコスモポリタン的な国家への変化を担うはずだ。「国家がナショナリズムに対して冷静である」ためには、メディアの状況が変わることが必要だ。しかし、どんなにネットがその可能性を拡大しても、現在の非ネット人口の行動と意識がそれによって変わるとは思えないから、ネットに触れないみなさんが天命を全うして、ネット人口の割合が限りなく高い世代がメインになるまで、量的な時間が経過するのを待つことも仕方ないだろう。

 ベックは「ピンチはチャンス」というヘルダーリン的社会学者だ。ところで、それは当然、「チャンスはピンチ」でもあるということだ。流動性、ネットワーク、協調、超国家。時間の流れが変化したことを感じなければならない。

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