1.ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)
現代資本主義の基本問題はもはや「利潤の極大化」と「生産の合理化」との間の矛盾(企業主のレベルでの)ではなくて、潜在的には無限な生産力(テクノストラクチュアのレベルでの)と生産物を売りさばく必要との間の矛盾である。この段階に達したシステムにとっては、生産装置だけでなく消費需要を、価格だけでなくこの価格に応じて求められるだろう内容をコントロールすることが死活問題となる。[…]「自動車を売ることの方が作ることより困難になった時にはじめて、人間そのものが人間にとって科学の対象となった」というわけだ。 [84-85頁]
消費はひとつの社会的労働なのだ。消費者は(今日ではおそらく「生産」のレベルでと同様)このレベルにおいても、やはり労働者として必要とされ動員されている。[…]消費者は決して普遍的存在ではない。彼は政治的社会的存在であり、ひとつの生産力であって、そのような存在として根本的な歴史的問題を再び提起するのである。 [106-107頁]
消費はそれだけであらゆるイデオロギーに取ってかわることができ、長い目で見れば、未開社会のヒエラルキー的あるいは宗教的儀式がそうしたように、社会全体の統合をひきうけることができるのである。 [123頁]
2.東浩紀「一般意志2.0」(「本」2010年11月号)
政治の領域を、理性的なコミュニケーションの正統性/正当性のみで基礎付けることには限界がある。[…]いくら高邁な理念を掲げ、制度を開放的にしたとしても、だれもそこへの参加を欲望しないのであれば政治は形骸化する。実際、いまの政治の困難は(とくに日本では)、結局はこの「政治への欲望の欠如」に集約されるのではないだろうか。現代民主主義の最大の危機は、二大政党制の限界にあるのでもなければ官僚制度の肥大化にあるのでもなく、単純に政治が人々の欲望の対象でなくなったことに存在するのだ。 [20頁]
したがってぼくは、じつに理知主義的だった20世紀後半の社会思想のもろもろを前提としながらも、ふたたびルソーに戻り、公共性や正義、自由といった観念をめぐる概念装置に、もういちど情念=無意識(一般意志)の取得という課題を接合するべきだと提案したい。そしてそれは、繰り返しになるが、ルソーの時代やシュミットの時代と異なり、必ずしも独裁者やカリスマを必要としない。ナショナリズムや全体主義も必要としない。21世紀の現在においては、集合的無意識は、ネットワークのうえでおのずと可視化されるからである。 [同]
したがってぼくは、これからの政策審議は、専門化と政治家の会議であることを前提としながらも、原則としてすべてそのような「素人」たちの感想、いわば「一般市民の可視化された気分」に囲まれながら進むべきだと考える。熟議とデータベース、小さな公共と一般意志が補いあう社会という本論の理想は、具体的にはそのような制度設計によって可能となる。 [22頁]
3.
生産の理論から消費の理論へ。経済(学)も政治(哲学)も。
いかに政治を生産するか(二大政党制、官僚制…)ではなく、いかに政治を消費させるか。
テレビに出ないでニコ生に出た小沢一郎には消費の理論があるわけだ。中間選挙でティーパーティーに敗れたオバマも、その「生産物を売りさばく」技術が稚拙であると指摘されている。
いわゆる「熟議」は、「大事な議論をすればひとは声をあげる」=「いいものさえつくれば売れるはず」という生産の理論の枠内におさまっている。たぶんそれには限界がある。
誰もが消費者でしかありえない社会なら、消費者であることを徹底させることで、逆に消費者のあり方が変わっていく、ということがありえると思う。消費文化と政治の関係は、理論においても実践においても、もっともっと本気で検討されていい。
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