2010年11月6日土曜日

クライスト(2)

「人形劇について」(Über das Marionettentheater, 1810)

1.概要

一人称の語り手が、「オペラ座の主席舞踊家C氏」と偶然公園で出会い、人形劇について交わした会話を記録したという形式のフィクション。C氏は、あやつり人形のほうが人間よりも優美だ、と言う。人間は自分を「飾ろうとする」ため、人形にかなわないのである。C氏は、義足で踊るイギリス人や、フェンシングのフェイントに決してひっかからない熊の話を例に挙げながら、人間が意識をもたないか(=人形)、もしくは無限の意識をもてば(=神)、ふたたび優美さはあらわれる、と言う。認識の木の実(知恵の実)をもう一度食べて無垢へと「落ち戻る」ことが「世界の歴史の最終章」なのである。

「クライストは期待を膨らませてベルリンに戻った。官吏に雇われ、自作は王立国民劇場で上演されると思っていた。どちらの希望も、ハルデンベルク首相の緊縮政策とイフラントの低レベルな演劇論の前に頓挫した。これがきっかけでクライストは、彼の考えによればプロイセンの内政と演劇文化の双方を規定している硬直的な統制経済を、自ら構想していた王立国民劇場改革の観点から、様々な批判の中で攻撃することになったのである。ハルデンベルクは検閲を強め、クライストは1810年11月末には国立劇場における演劇に関するいかなる出版も許されなくなったので、クライストに残された選択肢は、ジャーナリストとしての活動を完全に諦めるか、あるいは別の、遠まわしな形式で批判を試みるしかなかったのである。」(Kleist-Handbuch, s.152-153)


2.抜粋

どんな運動にも、と彼は言った、重心がありますから、姿形の内部にあるその重心を統治すれば十分なのであって、振り子に過ぎない四肢は、それ以上何もしなくても、自ら機械的に重心に従うのです。
―――――
しかし楽園は閂をかけられ、天使はわたしたちの背後にいます。わたしたちは世界をまわる旅をして、ひょっとしたらどこか後ろがまた開いてないか、見てみなければならないのです。
―――――
わたしは言った、人間のもつ自然な優美のなかに、なんという不秩序を意識が引き起こすことか、わたしもわかっているつもりです。
―――――
有機的なこの世界では、反省的思考が冥く弱くなればなるほど、優美がますます輝き、ますます支配的にあらわれるのです。[…]認識がいわば無限を通過したとき、優美はふたたび姿をあらわします。まったく意識をもたないか、あるいは無限の意識をもっているか、そのどちらかである人間の身体において、優美は最も純粋にあらわれるのです、つまり人形においてか、あるいは神において。

それでは、とわたしはやや心ここにあらずのまま言った、わたしたちはもう一度認識の木の実を食べて、無垢の状態に落ち戻らねばならないということでしょうか? その通りです、と彼は答えた、それが世界の歴史の最終章です。


3.メモ

・演劇論、認識論、政治哲学(統治論)、歴史哲学。

・「重心を統治する」ということ。

・肯定的な意味で「秩序」という語があらわれている。

・意識という問題。意識なき優美。意識なき世界史。ヘーゲルとの対照。

・Fall:落ちること/崩壊/堕罪/事件/事態/法的事件/(病の)症例/発作 
→ クライストにおいては、これらすべての意味が、同時に込められている。クライストの最重要概念。

・Zurückfall:堕罪のあと、もう一度堕ちることで楽園に戻る。
→ 「無限」を通過すると、もとの場所に戻ってくることができる。円環。しかし回帰ではない。差異と反復。

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