1.シャンタル・ムフ『政治的なものについて』(明石書店)
敵対関係は、われわれ/彼らが、いかなる共通の土台も共有しない敵同士の関係性であるが、闘技は、対立する党派が、その対立に合理的な解決をもたらすことなど不可能と知りつつも、対立者の正当性を承認しあう関係性である。そこでは、彼らは「対抗者」であり、敵ではない。つまり彼らは対立において、自分たちが同じ政治的連合体に属しており、共通の象徴的空間――そこに対立が発生する――を共有する者と把握する。民主主義の課題は、敵対関係を闘技へと変容させることといえるのである。 [38頁]
異議申し立てする声のために闘技的で正当性をもった政治的回路が存在するなら、敵対的な対立は出現しにくくなるだろう。さもなければ異議申し立ては、暴力的な形態をとる傾向を帯びるのであって、このことは国内政治であれ国際政治であれ、同様にあてはまるのである。 [38-39頁]
人びとが同一化することのできる陣営が対峙し、そのことで情念が、民主主義の過程における勢力分布内で政治的に動員されるかぎりにおいてのみ、政治過程は存在するのだ。[…]人びとは、政治的に行動するためには、集合的アイデンティティと同一化することができなくてはならない。なぜならそれは、人びとに、自分自身を価値評価できる観念を与えてくれるからである。政治的な言説は政策のみならず、アイデンティティもまた提供しなければならない。 [44頁]
対抗モデルの特質である政治的境界線が薄れつつあることと政治の「道徳化」とのあいだには直接的な関連がある。[…]「われわれ」/「彼ら」の敵対が、政治的な見地からではなく、いまでは「善」対「悪」という道徳的な範疇にしたがって構築されているということだ。[…]用語のこのような変化においてあきらかになるのは、しばしばいわれるように、政治が道徳に取って代わられたということではなく、政治が道徳の作用領域で実践されるようになったということである。[…]政治が道徳の作用領域において実践されるならば、敵対性は闘技的な形態をとることができない。事実、敵対者たちが政治用語ではなく道徳用語で定義されるとき、その者たちは「対抗者」ではなく「敵」とみなされるのである。「悪しき彼ら」とはいかなる闘技的な討論も不可能であり、ただ抹殺されなければならない。そのうえ、彼らはしばしばある種の「道徳的な病」のあらわれとみなされるため、彼らが出現し、そして成功をおさめつつあることについての説明さえもなされるべきではない。[…]友/敵型の政治モデルは乗り越えられたとする主張が、政治の敵対モデルを時代遅れのものと宣告しておきながら、その再生の条件をつくりだしてしまったのは皮肉な事態である。しかしながら、ポスト政治の立場は、活発な闘技的公共圏の形成を妨げることで、「彼ら」を「道徳的なもの」、つまり「絶対的な敵」とみなすことにいたりつき、それによって、民主主義の制度を危険にさらしかねない敵対性の出現を促しているのである。 [113-115頁]
「ヘゲモニーを超えること」などありえないと認識すれば、単一の権力に依存する世界を乗り越えるための戦略で可能なのは、ヘゲモニーを「多元化していく」方途をみいだすことだけだ。 [171-172頁]
2.
「集合的アイデンティティ」との同一化が政治には不可欠なのだろうか。個人主義・自由主義は必ずしも非政治的ではない(ハイエク)。むしろ私的領域の政治性を指摘するベックやギデンズに同意したい。ムフの「対立を承認・共有しあう者たち」の方が、ずっと理性的な個人を想定しているのではないか。
異議申し立てができれば対立はなくなるというのもちょっと…。ただ、敵対が道徳的なレベルにあらわれているというのはそのとおりだと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿