2010年11月5日金曜日

時間・歴史・演劇(2)

1.フリードリヒ・ヘルダーリン「『オイディプス』への注解」(『省察』論創社)

法則、計算、ならびに一つの感覚体系、すなわち、全的な人間が元素の影響のもとで成長する際の有り様、また、表象や感覚や理性的判断が、さまざまに継起しながら、しかし常に確実な規則に従って次々と生じてくる際の有り様は、悲劇的なものにおいては、純粋な連鎖というよりも、むしろバランス(平衡)である。

つまり、悲劇の移し換えは、本来空虚で、最も制約されないものなのである。

そのため、そうした移し換えが描き出されるリズム的な表象の連鎖のなかに、韻律において中間休止と呼ばれるもの、純粋な言葉、反リズム的な中断が不可欠となってくる。それは激流のような表象の交替に、その頂点でぶつかり、その結果、それ以後はもはや表象の交替ではなく、表象そのものが現れるのである。

これによって、計算の連鎖、およびリズムは分割され、分割された二つの部分が平衡をとりながら現れるように関係しあう。 [158-159頁]


2.マルティン・ハイデッガー「ヘルダーリンと詩の本質」(『選集Ⅲ』理想社)

ヘルダーリンは詩の本質を詩作している――但し無時間的に妥当する概念の意味に於てではない。詩のこの本質は特定の時間に帰属している。但し既にそこにあるものとしてのこの時間に単に適応するという意味に於てではない。そうではなしに、ヘルダーリンが詩の本質をあらたに建設するというとき、それによって彼は始めて新しき時間を規定するのである。それは過ぎ去れる神々と来るべき神との間の時間である。それはまことに乏しき時間である。何故ならそれは過ぎ去れる神々のもはや無いということと、来るべきものの未だ無いということとの二重の無と欠乏とのうちに立っているから。

ヘルダーリンの建設する詩の本質こそ最高度に歴史的である。何故ならそれは歴史的な時間を先取するから。 [68-69頁]


3.ペーター・ソンディ『ヘルダーリン研究』(法政大学出版局)

ベンヤミンの言によれば、「この詩[「臆心」]の中心のまわりには、人間、天上の者、王侯が、いわばかれらの古い秩序から転がり落ちて、たがいに向き合って列なっている」。文を統語論的に統一するという伝統的位階秩序も同様に「硬い結合」により粉砕され、個別な不可分なものとしての個々の語には、その重みが、その自由が確保される。アドルノはベンヤミンの列なりReiheの考えを受け継ぎ、ヘルダーリンの後期抒情詩の構造に関する洞察をパラタクシス(並列)の概念に導いた。

「ことばの物語る契機はみずから思想への従属を逃れる。綜合は叙述が叙事的になればなるほど、完全には支配できない出来事に臨んでよりゆるやかなものになる。ピンダロスの隠喩がその指示物に対しもっている固有の生[…]それにもっとも近いのは、一群の持続的な流れとなったもろもろの形象であろう。詩において物語へと傾いてゆくものは、ときとともにこの流れに身を任せ、前ロゴス的媒体のほうへ下ってゆこうとする。このように語りが滑落してゆくことに、ロゴスは語りを客体化するために抗してきた。このことを詩人ヘルダーリンの後期の自己省察は思い起こさせる。」 [150-151頁]

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