2010年11月12日金曜日

時間・歴史・演劇(4)

1.ルイ・アルチュセール『資本論を読む』(ちくま学芸文庫・中巻)

周知のように、ヘーゲルは時間をこう定義する――「現存在する概念」、すなわち直接的に経験的に実在する概念。というのも、時間はその本質としての概念へとわれわれを送り戻すのであるから。すなわち、歴史的時間は、概念(ここでは理念)の発展の契機を体現する歴史的全体性の内的本質の、時間の連続性における反照にすぎないとヘーゲルは自覚的に宣言するのだ。われわれはヘーゲルの承認の下に、歴史的時間は、時間がそれの現実存在であるところの社会的全体性の本質を映しだすにすぎないと考えることができる。 [58頁]

ヘーゲル的全体は、物質的または経済的規定であれ、政治制度、宗教的、芸術的、哲学的形式であれ、全体の各要素が特定の歴史的時期における概念の自己への現前にほかならないといった統一のタイプをもっている。 [60頁]

誰も自分の時代を飛び越すことはできないというヘーゲルの有名な公式[…]――哲学には、明日は本質において禁じられている。[…]未来の知が存在しないために、政治の科学、現在の現象の未来の結果に関する知が存在できなくなる。まさにそのゆえに、厳密な意味で、ヘーゲル的政治はありえないし、事実、ヘーゲル的な政治的人間をかつて見たためしはない。 [61-62頁]

われわれは、マルクス主義的全体の特有の構造についてこう結論することができる――全体の異なったレベルの発展過程を同一の歴史的時間のなかで考えることはもうできないと。これらの異なった「レベル」の歴史的現実存在のタイプは同じではない。反対に、われわれはそれぞれのレベルに、相対的に自律した、したがって他の諸レベルの「時間」に依存しつつ相対的にそれから独立した、固有の時間を割り当てなくてはならない。[…]政治的上部構造の固有の歴史がある。哲学の固有の時間と固有の歴史がある。美的生産の固有の時間と固有の歴史がある。科学的形成体の固有の時間と固有の歴史がある、等々。これらの固有の歴史のそれぞれは固有のリズムによって刻まれるし、それの歴史的時間性とその刻み方(連続的発展、革命、切断等々)の独自性の概念を規定したときにはじめて認識される。 [70頁]

目に見える測定可能な時間の実在をこのように反省するだけで満足してはならず、それぞれの目に見える時間の外見の下に暴きだされる見えない時間、見えないリズムと刻み方の存在様式の問いを、必ず提起しなくてはならない。『資本論』を少しでも読めばわかるように、マルクスはこの要求に実に敏感であった。例えば、経済的生産の時間は、もしそれが特有の時間であるとすれば、(異なった生産様式に応じて異なる)特有の時間として非線形の複合的時間であり、複数の時間の時間、複合的時間であり、それは生活時間ないし時計時間の連続性のなかでは読むことはできず、生産に固有の諸構造から出発して構築しなくてはならない。マルクスが分析する資本主義的経済生産の時間はその概念において構築されなくてはならない。この時間の概念は、生産、流通、分配の異なった操作を刻む異なったリズムの現実から出発して、構築されるべきである。[…]この時間は、その概念のなかで、つまりあらゆる概念と同じく決して直接には与えられておらず、見える現実のなかで決して読み取られえない概念においてはじめて、前述の異なった時間、異なったリズムや回転の複合的な「交錯」として接近できる。この概念は、どの概念とも同様に、生産され、構築されなくてはならない。 [73-74頁]

経験的歴史においては、あらゆる歴史の時間は単純な連続性の時間であり、その「内容」はそこで産出される出来事の真空であって、しかる後にこの連続性を「時代区分する」ために切断の手続きに従ってこの真空を規定する試みがなされる。およそれきしの平板な神秘を要約する連続と非連続のカテゴリーに代えて、われわれはそれぞれの歴史のタイプに応じたそれぞれに特有の、無限に複雑なカテゴリーを作らなくてはならない。 [78頁]

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