2010年11月8日月曜日

時間・歴史・演劇(3)

1.G. W. F. ヘーゲル『美学講義』(作品社)

さて、悲劇的紛糾の結果として出てくるのは、たたかいを交えた双方の正当性が確認されるとともに、双方の主張の一面性が除去され、安定した内面の調和[…]がもどってくるという事態です。真の発展は対立そのものが破棄され、葛藤のなかで相手を否定しようとした行動の大義がたがいに和解するところにしかありません。となると、不幸や苦しみではなく、精神の満足が最終結果として訪れ、そうなってはじめて、個人の起こったことの必然性が絶対の理性としてあらわれ、心情は共同体精神として真の安定を得ます。英雄の運命に衝撃を受けた心情が、事態の推移のうちに安息を見いだすのです。そのことをしっかりと洞察できれば、古代の悲劇の本質をとらえたことになります。 [下巻452頁]


2.G. W. F. ヘーゲル『歴史哲学講義』(岩波文庫)

世界史の本体は精神であり、精神の発展過程です。 [上巻36頁]

世界史においては、国家を形成した民族しか問題とならない。[…]共同体の真理とは、公共の精神と主観的精神が統一されることであり、公共の精神とは、普遍的かつ理性的な国家の法律のうちに表現される。[…]かくて、世界史の対象を明確に定義すれば、自由が客観的に存在し、人びとがそこで自由に生きる国家がそれだ、ということになる。というのも、法律とは精神の客観的なあらわれであり、意思の真実のすがたであって、法律にしたがう意思だけが自由だからです。意思が法律にしたがうことは、自分自身にしたがうこと、自分のもとにあって自由であることです。 [同73-74頁]

世界史とは、すでにのべたように、精神が時間のなかで展開していくものです。 [同126頁]


3.G. W. F. ヘーゲル『精神現象学』(作品社)

こうして、精神の秩序ははじめて自己意識にとって本来の掟として存在することになる。[…]そこにあらわれる掟は、特定の個人の意志に根拠をもつのではなく、正真正銘の絶対的な万人の純粋意志が、そのまま形をとってあらわれたような、永遠の掟である。それは、「…すべし」と命令するだけでなく、みんなに受けいれられて実行されるのだ。すべての自我のうちにあるカテゴリーが、そのまま現実となったのが永遠の掟であり、その現実のうちには世界がこめられている。目の前の掟がそのように文句なく受けいれられるとき、自己意識の掟への服従は、自分の納得できないようなわがまま勝手な指令を出す君主への服従とは、おのずとちがったものになる。掟は、自分の内なる絶対意識がそのままことばとなってあらわれた思想なのだから。意識が掟を信じる、といういいかたすら適切ではない。信じるというのは、自分とは異次元の存在に対面することなのだから。共同体を生きる自己意識は、その自己がすべての自己に通じるものであることによって、共同体と一体化している。[…]共同体を生きる意識は個としての存在を脱却し、共同体との交流を実現しているのであって、それを実現しているからこそ、共同体の秩序をそのまま自分の秩序として受けいれるのである。 [292頁]

わたしは自分の好きなように掟をきめ、また、なに一つ掟としないこともできるが、掟の吟味をはじめた時点ですでに共同体の秩序を外れている。正義を絶対的なものとして意識することによって、わたしは共同体の一員として生きているのであり、そのとき、共同体の秩序は自己意識の本質となっている。逆にいえば、そのとき自己意識は共同体の生きた現実であり、共同体の核心をなす意志なのである。 [294頁]


4.アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』(国文社)

ヘーゲルの念頭に置く時間が、我々にとっては歴史的(かつ非生物的、非コスモス的な)時間としての時間であることがよく示されている。実際、この時間は未来が優位に立っていることによって性格づけられる。ヘーゲル以前の哲学が考察していた時間においては、運動が過去から現在を通り未来に向かっていた。それに反し、ヘーゲルの語る時間においては、運動が未来においてそれ自身を生み出し、過去を通り現在に向かっている。すなわち、未来→過去→現在(→未来)となっている。これこそは、本来人間的時間、すなわち歴史的時間に固有の構造である。 [202頁]

「時間は経験的に現存在する概念そのものである」という文は、時間が世界-内-人間及びその実在する歴史である、ということを意味することになる。だが、ヘーゲルはまた「精神は時間である」とも述べている。すなわち、人間は時間であるとも述べている。我々はこれが意味するものを今しがた見て来たばかりであった。それによれば、人間は他者の欲望に向かう欲望、すなわち承認を求める欲望であり、すなわちこの承認を求める欲望を充足せしめるために遂行される否定する行動、すなわち尊厳を求める血の闘争、すなわち主と奴との関係、すなわち労働であり、すなわち終局において普遍的で等質的な国家と、この国家において、そしてこの国家により実現される全人類を開示する絶対知とに至る歴史的発展である。要するに、人間が時間であると述べることは、ヘーゲルが『精神現象学』において人間に関して述べたことをすべて述べることにほかならない。[…]精神と時間とを同一化するこの一文は、ヘーゲルの全哲学を要約しているわけである。 [206頁]


5.ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』(同学社)

ドラマの核心は、『劇的な衝突』とヘーゲルが名づけた葛藤の中心にある人間主体にあった。この葛藤が、敵対者への間主体的な関係から本質的な自我主体を構成するのである。ドラマ演劇の主体が存在するのは、この葛藤の空間においてだけであるとも言える。その限りにおいて主体とは間主観性そのものであり、葛藤を通して構成されるライバルの主体である。そういう間主観性の時間は、葛藤を通して敵を同一化する単数の時間であるために、均一な時間とならざるを得ない。そもそも敵同士が出会うことのできるような時間が必要になる。 [236頁]


6.ルイ・アルチュセール『マルクスのために』(平凡社ライブラリー)

古典劇においては、すべてが単純なすがたをとることができた。すなわち、主役の時間性が唯一の時間性だったし、他のすべては主役に従属していた。主役の敵対者でさえも主役にあわせられていたし、敵対者が主役の敵対者であるためには、その必要があったのである。彼らは主役自身の時間、主役自身のリズムを生き、主役に依存し、その付属物にすぎなかった。敵対者はまさしく主役の敵対者だった。すなわち、争いにおいて敵対者は、自分自身が自己に属すると同様に主役に属していた。主役の複製、その反映、その対立物、その暗闇、その誘惑、主役自身に逆らう主役の無意識だった。じっさい、主役の運命こそは、ヘーゲルが記したように、敵の意識であると同じく自己の意識だった。その結果、争いの内容は主役の自己意識と同一だった。で、ごく自然に観客は、主役、すなわち主役自身の時間、主役自身の意識、――観客にしめされる唯一の時間や唯一の意識と「同一化」することによって、その戯曲を「生きている」ように思われた。ベルトラッチーの戯曲やブレヒトの大作においては、その構造の分裂という理由そのものによって、上述のような混乱は存在しえないのである。 [255-256頁]

0 件のコメント:

コメントを投稿