1.ベルトルト・ブレヒト「感情同化について」(『ブレヒト演劇論集1』、河出書房新社)
君らはけっして農民から、農民であることを
地主から、地主であることを剥ぎとって
しまってはいけない。そうなればかれらは
君や私と同じ、人間そのものになり、君も私も
かれらの感情に参加できるようになろう。
君と私だって同じではない。農民であるか
地主であるかすることで、はじめて人間になるのだ。
だのにどうして感情を分けあえるなどと言えるのだ。
農民は農民のままにしておきたまえ、俳優さん
そして君は俳優のままでいたまえ! そして農民を
他のあらゆる農民とは違ったままにしておきたまえ。
地主だって、他のあらゆる地主とは相当に違っているのだ。
2.ベルトルト・ブレヒト「精神の不在」(『ブレヒト演劇論集1』、河出書房新社)
こうして私の精神は不在になり、なすべきことを
そらでやってのける。私の理性が
そのあいだを、整理してまわる。
3.ヴァルター・ベンヤミン「ベルト・ブレヒト」(『ベンヤミンコレクション1』、ちくま学芸文庫)
この反社会的な存在、ならず者を、潜在的な革命家として描くこと、これこそブレヒトがたえず目指しているところなのだ。そこには、このタイプに通じるものをブレヒト自身がもっていることだけではなく、理論的な契機もひと役買っている。マルクスがいわば革命を、まったく異質のもの――つまり資本主義――の内部から出現せしめるという問題を、それに対する倫理感への要求を完全に抜きにして提起したとすれば、同じ問題をブレヒトは人間的な領域に移しかえる。彼は悪しき利己的なタイプから、完全に倫理感抜きに、革命家を出現させようとする。 [530頁]
造り直しということ――ブレヒトがそれを文学の形式として告知するのを、私たちはすでに聞いた。書かれたものは彼にとって作品ではなく、装置であり、道具である。書かれたものは、高次のものであればあるほど、それだけいっそう変形、解体、転換のできるものになる。偉大な規範的文学、とりわけ中国文学を考察して、そこから彼は、書かれたものに対してそこでなされる最高の要求は引用可能性である、ということを学んだ。暗示的に言っておけば、剽窃の理論――これを聞けば駄洒落屋などたちまち息絶えだえになるだろう――はこの点にこそ基づいている。 [532頁]
4.ヴァルター・ベンヤミン「叙事演劇とは何か」(『ベンヤミンコレクション1』、ちくま学芸文庫)
この演劇が時間の流れに関係する、そのあり方は、悲劇の場合とまったく異なっている。緊張の照準は結末部分よりも、個々の場面でのそれぞれの出来事に合わされているので、この演劇の上演はきわめて長い時間にわたることが可能である。 [539頁]
ブレヒトの考えるところでは、叙事演劇は筋を展開させるよりも、状況を表現しなければならない。だが、ここに言う表現とは、自然主義の理論家たちがいう意味での再現のことではない。むしろ、なによりも重要なのは、まずもって状況を発見することなのだ。(状況を異化すること、と言ってもよいであろう。)状況のこの発見(異化)は、出来事の流れを中断することによってなされる。 [542-543頁]
5.ヴァルター・ベンヤミン「生産者としての作家」(『ベンヤミン著作集9』、晶文社)
作家の仕事は、決して制作品にかかわる仕事であるだけでなく、つねに同時に生産の手段にかかわる仕事でもあるのだ。いいかえれば、かれの制作品は、作品という性格とならんで、あるいはその性格をそなえるまえに、組織化の機能をそなえなければならない。そして、作品を組織化に役立てるということを、決してプロパガンダに役だてるということに限定すべきではない。傾向だけではダメなのだ。[…]まず自分以外の生産者に生産のための支持をあたえ、つぎによりよい装置をかれらの自由にまかせられるようにする生産モデルとしての性格が、決定的に重要になる。しかもこの装置が、消費者をますます多く生産の側にひきよせること――手みじかにいえば、読者あるいは観客から共同制作者をつくりだすこと――ができるようになれば、それだけその装置はより有効なものとなる。 [182頁]
「音楽家や作家や批評家のあいだを支配している自身の状況についてのこの無知は」と、ブレヒトはいっている、「とほうもない結果を生みだしているのに、これはあまりにも過小評価されている。なぜなら、現実には自分の方がその機構に所有されているのに、自分がそれを所有していると思いこむことによって、自分たちがもはやコントロールしえない機構を擁護しているからである。しかもその機構は、かれが信じこんでいるのとはうらはらに、もはや生産者のための手段ではなく、生産者に敵対する手段と化している。」 [183頁]
知的生産手段を社会化するという要求を、知識人は有効にはたすことができるであろうか? かれは、生産過程そのもののなかで、頭脳労働者を組織化する方法を発見するだろうか? ロマンやドラマや詩の機能を転換するためのプランをもつだろうか? 作家がこの課題にこたえる活動を完遂する能力をそなえればそなえるほど、それだけ作家の傾向も正しいものとなり、それにつれて作家の仕事の技術的な質も必然的にたかめられるのである。そして他方、生産過程における自分の立場をめぐる事情について正確に知れば知るほど、「精神的人間」などと自称する考えからは、ますます遠のいていくだろう。ファシズムのふりまくことばとしてはっきりきこえてくる精神という名称は、消えなければならぬ。そして、自己の神通力をあてにしてファシズムに反対するような精神などは、消えてしまうだろう。 [189頁]
6.ルイ・アルチュセール「ベルトラッチとブレヒト」(『マルクスのために』、平凡社ライブラリー)
同一化という古典主義的な形式は、観客を「主役」の運命から離れられぬようにし、彼らのあらゆる感情の働きを演劇によるカタルシスでつつんでしまっていたが、ブレヒトはこの同一化の古典主義的な形式と縁を切ろうとした。 [253頁]
古典劇においては、すべてが単純なすがたをとることができた。すなわち、主役の時間性が唯一の時間性だったし、他のすべては主役に従属していた。主役の敵対者でさえも主役にあわせられていたし、敵対者が主役の敵対者であるためには、その必要があったのである。彼らは主役自身の時間、主役自身のリズムを生き、主役に依存し、その付属物にすぎなかった。敵対者はまさしく主役の敵対者だった。すなわち、争いにおいて敵対者は、自分自身が自己に属すると同様に主役に属していた。主役の複製、その反映、その対立物、その暗闇、その誘惑、主役自身に逆らう主役の無意識だった。じっさい、主役の運命こそは、ヘーゲルが記したように、敵の意識であると同じく自己の意識だった。その結果、争いの内容は主役の自己意識と同一だった。で、ごく自然に観客は、主役、すなわち主役自身の時間、主役自身の意識、――観客にしめされる唯一の時間や唯一の意識と「同一化」することによって、その戯曲を「生きている」ように思われた。ベルトラッチーの戯曲やブレヒトの大作においては、その構造の分裂という理由そのものによって、上述のような混乱は存在しえないのである。 [255-256頁]
ブレヒトは正しかった。つまり、演劇というものが、自己のあの不動の認知-非認知にかんする、「弁証法的」でさえある注釈である、ということ以外の目的をもたないとすると、――あらかじめ観客は音楽を知っていることになる。それは観客の音楽なのだから。反対に演劇があのおかすことのできぬ姿をゆり動かすこと、人をまどわす意識という空想的世界のあの不動の領域たる動かざるものを動かすことを目的とする場合、戯曲はまさしく観客における新しい意識の形成と生産、――あらゆる意識と同様に未完成ではあるけれども、あの未完成そのもの、あの距離の制服、あの無尽蔵の現実的な批評行為によって動かされる、意識の形成と生産なのである。しかも戯曲はまさしく新しい観客、つまり芝居がおわるとき演じはじめ、芝居を完成させるためにのみ――ただし実人生においてだが――演じはじめる俳優をつくりだすものなのである。 [261-262頁]
7.ハイナー・ミュラー「ドイツ 所在不明」(『悪こそは未来』、こうち書房)
ブレヒトの『ファッツァー』断章に含まれる、次のなにやら不可思議な言葉は、わたしの頭に取り憑いたまま離れようとしません――かつて幽霊は過去から立ち現われたが/いまそれは未来からもやって来る。 [138頁]
8.ヴァルター・ベンヤミン「ブレヒトとの対話」(「ベンヤミン著作集9」、晶文社)
ブレヒトはいった、「あいつは気狂いだったと取沙汰されるのは、自分でもよく判っているよ。この現在の時が後々にまで伝えられて行くなら、ぼくの狂気に対する理解も一緒に伝えられて行くだろう。時代が狂気の背景となるだろう。しかし、ほんとうにぼくが願っているのは、いつか、あいつは中くらいの気狂いだった、といわれることなのだ」 [216頁]
ブレヒトの箴言の一つ。「よき古きものにではなく、悪しき新しきものに結びつくこと」 [218頁]
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