1.マルティン・ハイデッガー「物」(全集79巻、創文社)
時間と空間における距離は、すべて収縮しつつある。[…]しかしながら、距離という距離をあわただしく除去したところで、近さは決して生じない。というのも、近さなるものは、わずかな分量の距離というのとは別物だからである。 [5頁]
そこに起こっているのは何であろうか。距離をごっそり除去したはずなのに、すべてが同じように近く、かつ遠いとすれば。この同形で画一的なものは何であろうか。そこではすべてが遠くも近くもなく、いわば隔たりを欠いているとすれば。[…]距離がどんなに克服されようとも、有るといえるものの近さはいっこうに現れない。 [6頁]
われわれが物を物として思索するとき、われわれは物の本質をいたわり、物が本質的にあり続ける領域へと守ってゆく。物化のはたらきとは、世界を近づけるはたらきである。近づけるはたらきが、近さの本質なのである。われわれが物を物としていたわるかぎりにおいて、われわれは近さに住まう。 [26頁]
2.
いわゆる学問的な知は、自然科学と形而上学とを問わず、それぞれの思考方法に従って表象することを通じて、物を「対象」として設定してきた。「イデア」にせよ「物自体」にせよ「科学的真理」にせよ、である。だが、物を「対象」として表象する限り、物は虚無化<vernichten>されざるをえない。なぜならば、物が「対象」であるとき、物に関する経験と知が分離され、かつ知の方が経験に先立って現実をあらわすと思い込まれるからである。
物が物としてあるとき、「わたしたち-物」という自-他関係は存在しない。わたしたちはすでに物のうちにあるはずなのだ。自と他、経験と知は、それぞれでありながら一つであるはずなのだ。
物としての物は、対象ではないから、一方的に掴むことも表象することもできない。物としての物は、到来する。それは存在の本質的な経験である。つまりそのときわたしたちは、物に襲われる。そのときわたしたちは、物的に-制約された<be-Dingt>存在としてある。わたしたちは世界の本質において、この本質によって語りかけられ、そしてこの本質の内部でこの本質に応答して語る。それが物としての物の到来であり、経験である。それは知と分離されない経験である。
「対象」としてある限り、全ては近くも遠くもない。「近さ」も「遠さ」もない。そもそも隔たりがないのである。だからいくら距離を除去しても近くならない。むしろすでに物のなかにいるときにのみ、遠さが遠さのままで近づいているのがわかる。
3.
表象し、自-他、主-客を切断するということは、それ自身のうちにすでに、物から時間と空間、すなわち隔たりを奪い、経験を消滅させ、一切を算定し、所有し、使用することになる契機を含んでいる。
ところで、技術の本質とは、総かり立て体制<das Gestell>である。それは引ったくりの総体<Geraff>と言ってもよいし、駆動の総体<Getriebe>と言ってもよい。
総かり立て体制とは、使えるものは全て取り上げて使う(「徴用可能なものを徴用して立てる」)こと自体を自己原理として循環をなしている、(人間・機械・自然を含む)一切を代替可能な断片として構成要素とする、自律的な駆動の総体である。総かり立て体制においては、一切が取り替え可能であるから、一切が同価値となり、ゆえに一切がどうでもよいものとなる。ここにおいて、現実的なものが全て画一的で同形で隔たりを欠き、近さも遠さもあらわれないという事態が現出する。そして人間はこの隔たりを欠いたものに没入せざるをえない。なぜなら、人間もまたすでにこの総かり立て体制の構成要素なのであるから、人間はこうして隔たりなく掛かり合ってくるものどもをさらに先へと駆動するように、本質において規定されているのである。
どんなに多様なあり方や変化が存在すように見えても、総かり立て体制においては、独立し依存から自由な位置を占めるものなどない。全てが駆動の総体のうちにある。これは生産→流通→販売→消費→さらなる生産…といった流れを考えてもわかる。こうした事態にあっては、自-他という関係において何かが完結的であることは不可能となる。それはすなわち、「対象」の崩壊、あるいは拡散を意味する。
4.マルティン・ハイデッガー「総かり立て体制」(全集79巻、創文社)
同じはたらきによって、大気は窒素に向けて、大地は石炭と鉱物に向けて、それぞれかり立てられ、さらに鉱物はウランに向けて、ウランは原子力に向けて、原子力は徴用可能な破壊行為に向けて、というふうに、次々にかり立てられる。いまや農業は、機械化された食糧産業となっており、その本質においては、ガス室や絶滅収容所における死体の製造と同じものであり、各国の封鎖や飢餓化と同じものであり、水素爆弾の製造と同じものなのである。 [37頁]
ふたたびわれわれは問うてみよう。そのような徴用して立てるはたらきの連鎖は、最終的にはどこへ行き着くのであろうか、と。この連鎖はどこにも行き着かない、というのがその答えである。というのも、徴用して立てるはたらきというのは、かり立てるはたらきの外部に、独立して現前的にあり続けるはたらきを有することがありえたり許されたりするようなものを、何一つ制作して立てはしないからである。徴用して-かり立てられたものは、つねにすでに、またつねにひたすら次のことをめざして、かり立てられている。つまり、徴用される別の何かを、おのれの帰結の連鎖として、得られた成果のうちへとかり立てることをめざして、である。徴用して立てるはたらきの連鎖は、どこにも行き着きはしない。むしろ、おのれの連鎖の円環運動のうちへ入り込んで行くだけである。 [38-39頁]
「人間」なるものは、どこにも実在しない。[…]人間は、現前的にあり続けるものとの係わり合いにおいて、次のことをめざしてすでに挑発されている。つまり、現前的にあり続けるものを、徴用して立てるはたらきによって徴用可能なものとして、前もって、それゆえくまなく、かつ不断に、表象して立てることをめざして、である。人間の表象して立てるはたらきが、現前的にあり続けるものを、徴用可能なものとして、徴用して立てるさいの勘定に入れてすでに立ててしまっているかぎり、人間はその本質からして、徴用して立てるはたらきのうちへあくまで徴用して立てられているのである。 [40頁]
総かり立て体制は、徴用可能なものを徴用して立てるという、この同じことをめざして一切をかり立てるのであり、その結果、一切は同じ形式で不断に繰り返しかり立てられる。しかも、徴用可能性というこれまた同じことのうちへとである。 [45頁]
5.
技術の危機/好機とは、物を「対象」として捉えることが不可能になることである。技術の時代においては、「対象」としての物と対峙することはできない。むしろ、全てがつねに「渦中」にある。「対象」としての物の真の在り方を表象することから離れて、まさにその「渦中」にあるところの「渦」の流れを、「渦」の力そのものを利用しながら、転回してゆくことができるのかもしれない。
0 件のコメント:
コメントを投稿