2010年11月26日金曜日

時間・歴史・演劇(8)

1.ヴァルター・ベンヤミン「近代悲劇とギリシア悲劇」(『ドイツ悲劇の根源』下巻、ちくま学芸文庫)

近代悲劇の法則は、まさにこの反復に基づいている。[…]近代悲劇は、ある高次の生の像ではもちろんなく、二つの鏡像のうちの一方にほかならず、またその〔反復的〕続演も、この劇そのものに劣らず幻影的である。死者たちは亡霊となる。近代悲劇は反復という歴史的理念を、芸術的に利用し尽くすのであって、それゆえ近代悲劇は、ギリシア悲劇とはまったく別の問題を捉えているわけである。罪と偉大さは、近代悲劇にあっては、あの状況の罪と偉大さのためにではなく、あの状況の反復のためにこそ、より大きな伸張を、このうえなく普遍的な広がりを要求するものであるので、それだけにいっそう、被規定性を、ましてや過度の被規定性を必要とはしない。 [191-193頁]

ギリシア悲劇はなんといってもやはり、閉じた形式なのである。この閉じた形式の時間特性が、演劇的な形式のかたちで汲み尽くされ、造形されているのだ。近代悲劇はといえば、それ自身において閉じてはおらず、また、その解消という理念も、もはや演劇の領域のうちに存してはいない。そしてこのことこそ、――形式分析という観点から見た場合の――近代悲劇とギリシア悲劇の相違を決定的に示す点にほかならない。近代悲劇が演劇の領域におさまりきらない、その剰余部分とは、音楽である。ギリシア悲劇が、歴史的時間の、演劇的時間への移行を表しているように、おそらく近代悲劇は、演劇的時間の、音楽の時間への移行点にある。 [193-194頁]


2.ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』(ちくま学芸文庫、上巻)

死にゆくソクラテスにおいて、ギリシア悲劇のパロディとしての殉教者劇が生まれた。実にしばしばそうであるように、ここでも、パロディはひとつの形式にその終焉を予告する。[…]ソクラテス対話篇においては、この競技的なものが、弁舌と意識のあの見事な展開に、取って代わられたのである。ソクラテス劇からは競技的なものが剝れ落ちてしまっており――実際、ソクラテスの哲学的格闘さえもが、なぞり風の稽古なのだから――、そして突然、英雄の死は殉教者の死に変貌したのだった。 [241-242頁]

英雄の生という代償を払って沈黙の権利を手に入れる悲劇的傲慢を知りえたのは、古代だけである。神々の前で申し開きをすることを撥ねつける英雄は、いわば契約的な調停手続きにより神々と折り合うのだが、この手続きはその二重の意味に応じて、革新された共同体の言語的意識のなかで、古い法制を再建することのみならず、とりわけ、その古い法制を徐々に破壊してゆくことを目指している。スポーツ・技芸競技、法、そして悲劇、というギリシア人の生活における大いなる競技的三つ組は――ヤーコプ・ブルクハルトの『ギリシア文化史』は、範型としての競技[アゴーン]、ということを指摘している――、契約というしるしにおいて一体となる。 [247頁]

古典古代の訴訟――とりわけ刑事訴訟――は、原告と被告という二つの役割だけに立脚し、裁判官による審理手続きを欠いていたがゆえに、対話である。古典古代の訴訟は合唱隊をもっていて、これは、一部は誓言保証人のなかに[…]、また一部は裁判に対して慈悲を嘆願する被告の盟友たちの一団のなかに、そして最後の一部は、裁きを下す人民集会のなかにあった。[…]ギリシア悲劇は、訴訟手続きのこのイメージのなかに入ってくる。ギリシア悲劇においても、ひとつの調停審理が行われるのである。[…]劇作家の意識において神話が審理なのだとするなら、彼の作品は、その審理の写しであると同時に再審でもある。そして、この訴訟全体が、円形劇場の広がりの分だけ膨らんだ、この再審には、共同体が監督機関として、いやそれどころか、裁きを司る機関として臨席する。共同体の側では、和解について裁定しようとし、この和解の説明のなかで劇作家は、英雄たちの事蹟の記憶を更新するのである。だが、ギリシア悲劇の結末にはつねに、<証拠不十分>という響きがまじっている。[…]悲劇のまえかあとに演じられるサテュロス劇は、上演された訴訟のこの<証拠不十分>の結末に対する準備もしくは応答をなしうるのはただ喜劇による感情の高揚だけである、ということの典型的な現われなのだ。 [248-250頁]

場所の一致とはすなわち裁判の場のことであり、時の一致とはすなわち、昔から――太陽の運行に合わせてであれ、他の何かに合わせてであれ――裁判の日という限られた時間のことであり、そして筋の一致とは、すなわち、審理という筋のことなのだ。ソクラテスの対話をギリシア悲劇の、撤回のきかないエピローグにしてしまうのは、このような事情にほかならない。 [251頁]

ギリシアの三部作は、反復可能なこれ見よがしの誇示ではなく、上級審におけるギリシア悲劇的訴訟の一回限りの再審である。[…]三部作で演じられるのは、宇宙においてひとつの出来事が決定的に遂行される、ということなのだ。この遂行のために、そして、それを裁く者として、共同体が招かれている。ギリシア悲劇の観客が、まさにこの悲劇そのものによって必要とされ、かつ、まさにこの悲劇そのものによって正当化されているのに対して、近世以降の悲劇は、見る者の視点から理解されるべきものなのである。近世以降の悲劇の観客は、舞台――つまり、感情という、宇宙にはまったく関係しない内部空間――において、さまざまな状況がどのように、自分に対して心に迫るものとして呈示されるか、ということを経験する。 [256-257頁]


3.ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」(『コレクション1』ちくま学芸文庫)

過ぎ去った事柄を歴史的なものとして明確に言表するとは、それを<実際にあった通りに>認識することではなく、危機の瞬間にひらめくような想起を捉えることを謂う。歴史的唯物論にとっては、危機の瞬間において歴史的主体に思いがけず立ち現われてくる、そのような過去のイメージを確保することこそが重要なのだ。 [649頁]

移行点ではない現在の概念、時間の衡が釣り合って停止に達した現在の概念を、歴史的唯物論者は放棄できない。というのも、この現在の概念こそ、ほかならぬ彼自身が歴史を書きつつある、まさにその現在を定義するものだからだ。歴史主義が過去の<永遠の>像を立てるのに対して、歴史的唯物論者は過去に関する経験を、それも、いまここに唯一無二のものとしてあるそれを呈示する。歴史的唯物論者は、歴史主義の売春宿で<昔むかしありましたとさ>という娼婦に入れ揚げてなにもかも使い果たすことは、他人に任せる。彼は自分の精力の使いどころをしかと心得ており、歴史の連続の打破をやってのけられる男である。 [661頁]

唯物論の歴史記述の根底にあるのは構成的な原理である。思考するということには、さまざまな思考の運動のみならず、同じようにその停止も含まれる。思考がもろもろの緊張に飽和した状況布置において突然停止すると、そのとき、停止した思考がこの状況にひとつのショックを与え、そのショックによって思考はモナドとして結晶化する。歴史的対象がモナドとなって歴史的唯物論者に向かいあうとき、もっぱらそのときにのみ、彼は歴史的対象に近づく。[…]彼はこのチャンスを認めるや、歴史の均質な経過を打ち砕いて、そのなかからひとつの特定の時代を取り出す。同じようにして、彼はこの時代からひとつの特定の生を、そしてこの生のなしたすべての仕事のなかからひとつの特定の仕事を取り出す。彼のこの方法の成果は、次の点にある。すなわち、ひとつの仕事のなかにひとつの生のなした全仕事が、この全仕事のなかにその時代が、その時代のなかに歴史過程の全体が、保存されており、かつ止揚されているのである。歴史的に把握されたものという滋養ある果実は、その内部に、貴重な味わいのある、がしかし趣味的な味とは無縁の種子として、時間を孕んでいる。 [662頁]

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