1.ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』(日経BP社)
政治の場での意見調整は、社会の安定を成り立たせている市民の関係にひびを入れやすい。分割不能な問題で全員が同じ行動をとらざるを得ない場合、誰もがおおむね同じ意見を持つような狭い範囲についてのみ合意できればよいのなら、ひびは入りにくい。が、合意の表明が求められる範囲が広がるほど、人々を結びつけている弱い絆は危うくなる。そして多くの人が重大な関心を抱き、しかも意見が一致しないような問題ともなれば、社会が分裂することも大いにあり得る。基本的な価値観がまったく異なるような場合、採決ではめったに解決できない。結局は解決するのではなく、戦いで決着をつけることになる。歴史にみられる宗教戦争や内乱は、まさにその例証と言えよう。 [67頁]
市場が広く活用されるようになれば、そこで行われる活動に関しては無理に合意を強いる必要がなくなるので、社会の絆がほころびるおそれは減る。市場で行われる活動の範囲が広がるほど、政治の場で決定し合意を形成しなければならない問題は減る。そしてそういう問題が減れば減るほど、自由な社会を維持しつつ合意に達する可能性は高まっていく。 [68頁]
2.
まず、自由主義は個人主義だから「社会」や「絆」には無頓着だというのは正しい指摘ではない、ということ。個人の自由が保障されるために社会も絆も必要だとされる。
次に、フリードマンの自由主義は敷居が高くないということ。ムフのように「合意は不可能だと知りつつも対抗者として承認しあう」などというのは、どう考えても要求のレベルが高すぎる。フリードマンは、討議と合意が難しいだけでなく、それによって社会が分裂し争いに至ることもありうるから、できるだけ討議も合意も不要になるような自動調整システムを導入しようと主張する。それが市場である。もちろん、市場が自動調整システムとして機能するように政府が調整できるのかという問題はあるが、「つまらない問題で対立と分裂を生むのは意味ないし効率も悪いから、自動的に調整できる部分は調整して、本当に大事な問題だけ絞って合意を目指そう」という姿勢は実際的である。何が「本当に大事な問題」かというと、それによって個々人の自由が左右されるような問題、ということになるだろう。
討議と合意を完全に否定するのではなく、全てにおいて討議と合意を推進するのでもなく、その国の人口や面積、宗教、人種、教育、歴史、技術、文化等のあり方に応じて、どこまで何を討議し合意すべきか、現実的実際的に検討すること。そしてそれ以外の案件に関しては、できるだけ無駄に感情を動かされたり情報に付き合わせられたりしないよう、調整のシステムを導入すること。『資本主義と自由』は、社会を個別具体的に構想することを求めている。フリードマンというと「悪しき」新自由主義者というイメージが強いようだが、その理論と提言は、個人が自らの自由を享受して生きるためにはどのような環境が必要かという点を出発点にして到達点とする一方で、そのために個人の自由だけをイデオロギー的に唱えるものではない。「負の所得税」や「教育バウチャー制度」などをみればわかるように、フリードマンは、個人と社会、個人と国家のバランスの構築が不可欠であると考えている。それが個人の自由のためには必要であり、それを考えることが個人の自由のためにも合理的だからである。現実的、具体的、合理的な思考は、ひとを動かす力をもっている。なぜなら、そこには「近さ」があるからである。
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