1.ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(1981年、法政大学出版局)
決して実在と交換せず、自己と交換するしかない、しかも、どこにも照合するものも、周辺もないエンドレス回路の中で。[…]これが表象と対立するシミュレーションだ。表象とは記号と実在が等価であることに由来する(たとえこの等価がユートピア的であろうと、これこそ根本的な自明の理だ)。シミュレーションは逆に、等価原則のユートピアに由来する、価値としての記号をラジカルに否定することに由来し、あらゆる照合の逆転と死を宣告するものとしての記号に由来するのだ。そこで表象はシミュレーションを、誤ったシミュレーションに解釈することでシミュレーションを吸収しようとし、シミュレーションは、あらゆる表象自身の体系全体を、シミュラークルとしてつつみ込むのだ。 [8頁]
ディズニーランドとは、《実在する》国、《実在する》アメリカすべてが、ディズニーランドなんだということを隠すために、そこにあるのだ(それはまさに平凡で言いふるされたことだが、社会体こそ束縛だ、ということを隠すために監獄がある、というのと少々似ている)。ディズニーランドは、それ以外の場こそすべて実在だと思わせるために空想として設置された。にもかかわらずロサンゼルス全体と、それを取り囲むアメリカは、もはや実在ではなく、ハイパーリアルとシミュレーションの段階にある。問題は、現実(イデオロギー)を誤って表現したというよりも、実在がもはや実在でなくなったことを隠す、つまり現実原則を救おうとすることにある。 [17−18頁]
空想が実在を証明し、違反が法を証明し、ストライキが労働を証明し、危機が体制の証しとなり、革命が資本の証しであり、[…]数えればきりがないが、
反−演劇が演劇を証明し、
反−芸術が芸術を証明し、
反−教育が教育を証明し、
反−精神分析が精神分析を証明する、など。[…]あらゆることが好ましいとされる姿で生きながらえるためには、対立用語に変容するのだ。あらゆる権力、あらゆる組織は死のシミュレーションを使って現実的苦悩からのがれようとして自己を否定的に語る。権力が自己の存在と正当性にわずかな光明を見い出すためには、自己殺害を演出することさえあり得る。 [26−27頁]
ハイパーマーケットで問題になるのは、それが根本的に別種の労働だということだ。それは文化変容、比較対象、テスト、コード化、そして社会判断などに関わる労働だ。つまり人々はそこにやって来て、思いつく限りの質問に答える物を探し出し、選択する。というよりむしろ人々は物を成り立たせている機能的で管理された質問に対応する答えとして自らやってくるのだ。物はもはや商品ではない。というのは、物は人が解読したり、その意味やメッセージを手中に収めてきたような記号そのものでもなく、それらはテストであり、物こそわれわれに問いかけ、われわれはその問いに答えるように義務付けられ、その答えは問いの中にある。あらゆるメディアのメッセージはこれとよく似た働きをしている。つまりメッセージは情報でも、コミュニケーションでもなく、意見調査や絶えざるテスト、循環する答え、コードの確認だ。 [97−98頁]
《カタストロフ》という言葉には《カタストロフィック》という意味、すなわちシステムがわれわれに強要する蓄積とか、生産性を目標にするような、線状的視野でとらえた終局とか全滅という意味がないことを確認しなければならない。その言葉の語源は曲線を意味するだけだ。それは《事件の消失線》と名づけてもいい場に誘導し、超えられない意味の消失線に誘導する下降螺旋のことだ。つまりその向こう側ではわれわれにとって意味あることは何も起こらない――だからこそ、期限ギリギリに、虚無的に、二度とカタストロフを起こさないためには意味の最後通告から逃れさえすればいい。今われわれが想像するカタストロフとは、こんなものだ。[…]意味の向こう側には、魅惑がある。それは意味の中立化と内破から生まれる。社会体の消失線の向こう側には大衆がある、それは社会体の中立化と内破から生まれる。[…]今重要なことはこの二重の挑戦を評価することだ。 [109頁]
2.
カタストロフとは、「意味」に落ちて行くことである。「世界」や「人生」や「政治」や「経済」や「芸術」等々の大きなものに究極的な「意味」を求めることはやめていい。法律や哲学や宗教はこれからもそれらを必要とするかもしれないが、毎日の生活に必要なのはもっと個別具体的なものごとだからだ。個人的に見過ごせないものごとを、自分なりに合理的にカスタマイズし、変化させ、その変化自体を愉しむこと。
「合理性」の理論の再構築が必要だ。「時間」の理論を含んだ「合理性」の理論の再構築が。ハイパーマーケットとシミュラークルの消費生活における「合理性」の理論。楽しい「合理性」の理論。
また、個々人の「合理性」と「全体」の関係の説明が必要だ。それは、合理的な個々人はもはや「個々人」という単位では考えないはずだ、ということからスタートする。
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