2010年12月20日月曜日

メモ(3)



 「軽くなりたい」という欲望が高まっているのではなかろうか。

 「仕分け」による無駄の削減、「断捨離」ブーム、新型MacBook Air、ネットワークの無線化、クラウド化。肥大した政府を軽くする、モノを捨て身辺を軽くする、機能を絞り込んで軽くする、ケーブルの軛から解放する、仕事をネットワーク上に保存して鞄まで軽くする。

 現在求められている「軽さ」は、「薄さ」あるいは「浅さ」ではない。むしろ「速さ」であり「柔軟さ」である。フットワークの軽さ、反応の速さ、対応の柔軟さ。駆けつける速さ、逃げ出す速さ。

 種類と量を十分に備え、蓄積を続けたのが20世紀だった。しかし流動性の高い21世紀において、蓄積は「重さ」としてとらえなおされてしまう。巨大な官僚機構は時代の変化に対応できない。多くのモノを貯めこんだところで豊かにも幸せにもなれない。

 いま求められているのは、必要十分な数と種類を、できるだけ良い質で備えておくことだ。無限の高度成長を信じる者はもはやいない。政治、経済、外交、社会情勢、人間関係、すべてが流動化し、リスクが高まる一方で、社会は低成長化し、人口増加率は下がり、高齢化が進み、環境問題が深刻化し、時代は「その国なり」の「定常型社会」へとソフト・ランディングするしかない状況だ。モノを貯めこんだ機体にソフト・ランディングはできない。この先時代がどうなるかわからないとき、ひとはできるだけ身軽になり、どんな事態にも対応できるよう、必要ならすぐにでもこの場所を逃げ出し、別のより安全で快適な地に移れるよう、準備し、身構えるのではなかろうか。それはほとんど本能的な反応なのだ。

 「軽さ」は安心感である。築いたものが大きいことより、失うものが少ない方が安心感をもてる時代なのだ。

 したがってWikiLeaksに対するアメリカの反応、および合衆国政府が役人に対して求めている態度は時代に逆行している。「重さ」の維持はリスクの存続を意味するにすぎない。むしろ「機密」と総称される塊を腑分けして、放り出せるものを放り出し、守るべきものを選別してスリム化を図ることが必要である。

 WikiLeaksが情報を公開したことにより、わたしたちは大量の文書や映像を手にした。しかしわたしたちはそれを「重さ」として受け取っただろうか? 多くの情報に巻き込まれることが「重さ」を意味するのではない。むしろ「政府が何を隠しているかわからない」という疑心、そこにどれだけのリスクが潜んでいるかわからないという不安こそ「重さ」である。処理しきれないほどの情報が与えられても、わたしたちはそれによって「軽さ」を享受するのである。ツイッターで私生活を語るひとに「軽さ」を感じるのも同じことだ。むしろ「どんなひとかわからない」ことが「重さ」なのだ。

 軽量化はさらに進むだろう。軽く、速く、柔軟に、すぐに、安く、どこへでも行けることを欲望する者はさらに増える。しかし気をつけよう。起業したり家族をもつことが「重さ」なのではない。国家が常に「重さ」ではないし、モノを捨てることが常に「軽さ」ではない。自分(たち)の望む「軽さ」をデザインすることが重要なのだ。したがって「軽さ」は個別具体的で相対的な概念である。

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