2010年12月12日日曜日

翻訳(2)

ハインリヒ・フォン・クライスト「人形劇について」(2)

 彼は付け加えて言った、「この運動は非常に単純です。重心が一本の直線上で動かされると、手足は常に曲線を描きます。単に偶然的な揺さぶりを受けると、全体はしばしばある種のリズムある運動を始めます。それは舞踊に似ています。」

 この指摘によって、彼があやつり人形劇に見出すという楽しみがいくらか解明された気がした。しかしこのときはまだ、わたしは彼がこのあと引き出す結論について、まったく予感していなかったのである。

 わたしは彼に尋ねた、「あなたは人形を統治する機械操作員自身が舞踊家でなければならない、あるいは少なくとも舞踊における美的なものについて理解していなければならないと思いますか?」

 彼は応えた、「技術的な側面からみて簡単な仕事だからといって、まったく感性抜きでできるということにはなりません。」

 「重心が描く線はたしかに非常に単純で、わたしが思うに、たいていは直線です。曲線の場合、その屈曲の法則は最小限で一次曲線、もしくは最大でも二次曲線のようで、後者も楕円を描くに過ぎません。運動が楕円形になるのは、人間の身体の先端部分にとって(関節のはたらきにより)それがそもそも自然な形だからです。したがって、機械操作員にとっては、重心が描く線を記録するにはそれほどの技芸を要しません。」

 「その反面、別の側面からみると、この線はとても秘密に満ちたものでもあります。なぜならこの線は、舞踊家の魂の道そのものだからです。わたしは、機械操作員が人形の重心に自分自身を移すこと、別の言葉で言えば彼自身が踊ること以外に、この線は見出されないのではないかと思います。」

 わたしは応えた、「機械操作員の仕事はかなりの程度精神を欠いたものだ、と聞いていました。手回しオルガン弾きが把手を回すようなものだ、と。」

 「まったく違います」と彼は答えた。「むしろ、機械操作員の指の運動と、それに結び付けられた人形の運動の関係は、かなり不自然で人工的なものです。数と対数の関係や、漸近線と双曲線の関係のように。」

 「もっとも、わたしがお話した後者の側面、精神の破棄という点はあやつり人形から遠ざけて、その舞踊を完全に機械的な緒力の領域に譲り渡し、あなたが思っていたように把手で実現することもできるでしょう。」

 わたしは、大衆向けの芸術の変種に彼が注ぐ注意力を目にして驚嘆していると伝えた。「あなたは、人形劇のより高次の発展が可能だと思ってらっしゃるだけでなく、自らそれに取り組んでいる。」

 彼は微笑し、言った、「わたしは思い切ってこう主張しましょう。もしどこかの機械工がわたしの要求通りにあやつり人形をつくり、その人形でわたしが舞踊を表現すれば、わたし自身も、現代の誰か別の巧みな舞踊家も、ヴェストリさえ例外でなく、辿り着けない舞踊になるでしょう。」

 「あなたは」と彼は、黙ったまま視線を大地に落としたわたしに尋ねた、「あなたは英国の芸術家たちが大腿部を失った不幸なひとたちのために製作した、機械でできた脚のことを聞きましたか?」

 わたしは言った、「いいえ。その類のものを目にしたことはありません。」

 「残念です」と彼は応えた、「というのも、この不幸なひとたちはその脚で踊るのです、と言ったら、あなたは信じてくれないのではないか。踊るどころではありません。運動の範囲は限定されますが、彼らの意のままになる運動は、どんな思考する心も驚愕させるような落ち着き、軽やかさ、優美さで行われるのです。」

 わたしは冗談めかして意見した、「ではぴったりの人を見つけましたね。その奇妙な脚をつくる芸術家なら、あなたの要求に適うあやつり人形をまるごと組み立てられることは疑いないでしょう。」

 「どのような」とわたしは、やや困惑して大地を見つめている彼に尋ねた、「どのような要求をあなたはその熟練した芸術家に向けようとお考えですか?」

 「特別なことは何も」と彼は答えた、「今お話したことだけです。均整、可動性、軽やかさ――ただしすべてをより高度に。そしてとりわけ、もろもろの重心の、自然に即した配置。」

 「その人形が生命ある舞踊家たちにまさる長所は何ですか?」

 「長所? なによりもまず、否定的な長所です、優れた友よ。すなわち、人形は決して自らを飾らない、ということです。――というのもご存知のように、装飾が現れるのは、魂(運動サセル力)が運動の重心以外のどこか別の点に位置するときです。一方、針金と糸を使う機械操作員は、重心以外の点を操ることがまったくできないので、残りの手足はどれであろうとすべて純粋な振り子となり、死んだまま、単純な重力の法則に従います。舞踊家たちのほとんどには求めても叶わない優れた特性です。」


<メモ>

・クライストにおけるGesetz(法、掟)やOrdnung(秩序)という単語が、同時に自然科学的でもあるということ。前者は「法則」、後者は「等級、位数、次数」なども意味する。

・人形の二つの側面。「機械」と「自然」。それは「精神」と「心(感性、感情)」の対立に対応する。

・重心以外が「死んでいること(tot)」が肯定的に捉えられている。すべてが活き活きとすればよいのではなく、重心が装飾なく自然に「統治」され、手足は死んだまま従えばよい。どういう意味か?

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