2010年12月17日金曜日

時間科学(3)

1.アイザック・ニュートン『自然哲学の数学的諸原理』(1687年、『世界の名著26』中央公論社)

時間、空間、位置、運動については、[…]人々はそれらの量を、感覚でとらえられる対象についての関係から以外では考えていないということです。そしてそこから若干の偏見が生じ、その偏見をとり去るためには、それらの量を、絶対的なものと相対的なものに、真のものと見かけ上のものに、数学的なものと日常的なものに、区別するのが適当でしょう。 [64−65頁]

Ⅰ 絶対的な、真の、数学的な時間は、それ自身で、そのものの本性から、外界のなにものとも関係なく、均一に流れ、別名を持続(ドゥラチオ)ともいいます。相対的な、見かけ上の、日常的な時間は、持続の、運動によるある感覚的で外的な測度で、人々が真の時間のかわりに使っているものです。一時間とか、一日とか、ひと月とか、一年とかいうようなものです。 [65頁]

Ⅱ 絶対的な空間は、その本性として、どのような外的事物とも関係なく、常に同じ形状を保ち、不動不変のままのものです。相対的な空間は、この絶対空間の測度、すなわち絶対空間のどのようにでも動かしうる広がりで、われわれの感覚によってそれの物体に対する位置より決定されるものであり、人々によって不動の空間のかわりにとられているところです。 [65頁]

運動している場所から動かされる物体は、それの場所の運動にもあずかるわけです。それゆえ、運動している場所からのあらゆる運動は、全体的かつ絶対的な運動の部分にすぎません。そして全体的な運動はすべて、物体のそれが最初あった場所からの運動、場所のある場所から別の場所への運動、等々からなり、最後には、前に述べた水夫の例におけるように、何か不動の場所に達します。そういうわけで、全体的かつ絶対的な運動は、不動の場所による以外には決定されえません。それゆえわたくしは先に、絶対運動を不動の場所に関連させ、相対運動は動きうる場所に関係させたのでした。 [68−69頁]

湯川 […]ニュートンの知られざる面で、さきほど話された『旧約聖書』の年代記の研究はどうですか。
河辺 一説としては、人間の社会のことも自然と同じように知られるだろうというので、彼自身の手法をこの分野にも適用したといわれるんですけれども、ぼくの考えとしては、聖書の研究はむしろニュートン自身のユニタリアンとしての立場を保証するための研究ではなかったのではないかと思います。[…]
湯川 ユニタリアン派は三位一体を認めないというわけですか。
河辺 そうです。ユニタリアン的傾向というのは当時の英国インテリゲンチアに共通のものだったといいますけれども…。
湯川 絶対唯一の神さんがあって、絶対的な法律をつくり、そして最初にパッとこの世をつくったという考え方とユニタリアンとはよく合いそうですね。 [付録11−12頁]


2.ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ「事物の根本的起源」(1697年、中公クラシックス)

世界の理由は、世界を超えたあるもののうちにひそんでいる。すなわち諸状態の連鎖や事物の集まりから出来ている世界の系列とは異なった、あるもののうちにひそんでいる。こうして世界の事物のうち、後のものを先のもので決定する自然学的ないし仮定的な必然性から、絶対的ないし形而上学的に必然的なあるもの、その理由を示すことはもはやできないようなあるものにいたらなければならない。[…]したがって、「ものの多様」つまり世界とは異なる何かがあるにちがいない。 [205頁]

可能なものの無限の結合、および可能的系列のうち、もっとも多くの本質ないし可能性が実在にもたらされるような、結合や系列が実在する。 [206頁]


3.ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ『モナドロジー』(1714年、中公クラシックス)

単一な実体において、(瞬間ごとに)多をはらみ、多を表現している状態、その流れがいわゆる表象である。 [6頁]

ものの最後の理由は、かならず一つの必然的実体のなかにある。それは泉に似ていて、さまざまな変化の細部を、もっぱら優越的にふくんでいる。その実体を、わたしは神と呼ぶのである。 [15頁]

すでにわたしは、動物がけっして自然的には生じないなら、自然的に滅びることもない、また、完全な発生がないだけでなく、完全な消滅も、厳密な意味での死もないと考えたはずである。 [30頁]


4.村上陽一郎『時間の科学』(岩波書店、1986年)

リン・ホワイトという人の言い分によると、モーツァルトは、いつでもそうだとは限らないが、ある場合には最初の音から最後の音まで、書く前に全部頭の中でパッと一挙にわかってしまう。しかし、それでは人に言ってもわからないし、演奏もできない。だから仕方なくそれを時間の順序の中に(つまり五線譜に)次々と音符として並べていって、結局しかるべき曲が生まれるということだったのではないか。最初の音から最後の音まで一つかみにパッとつかんでしまっていたのだ。つまり、人間の能力を少し超えている。それが天使だということになる。[原文改行]中世にはそういう天使的な時間というのがあるといわれて、それをエヴム(aevum)――日本語では「永代」と訳しているらしい――と呼ぶ。それは単なる時間でもなく、また永遠でもない。人間の時間でもなく、神の永遠でもない。ホワイトはだからモーツァルトを「エヴムの中の作曲家」と呼んだのである。 [33頁]


5.

 あらためて確認しておくべきことは、西洋の時間理論がキリスト教と深く結びついていることである。ニュートンやライプニッツの時間理論は、彼らの信仰、彼らの神の理解を抜きにしては考えられない。カール・シュミットは政治理論が同時代の宗教と不可分であると考えて『政治神学』を書いたが、彼に倣って「時間神学」の考察が不可欠なのだろう。

 上記の引用でもっとも興味深いのは、村上『時間の科学』で紹介されていた「エヴム」の理論だ。天使の時間。無時間的な時間の経験。これは程度の差はあれ、芸術の経験に本質的に幾分か結びついたものではなかろうか。

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