2010年12月14日火曜日

生活(2)

1.三木義一『日本の税金』(岩波新書、2003年)

税を貫く大原則は租税法律主義(憲法84条)であり、法律に定めなければ税を徴収されることはなく、その法律は憲法に拘束されているのである。[…]憲法が定めている人権規定の多くは税制にも大きな関係を有している。税制が憲法の要求する人権の実現を妨げていないか、もっときちんと議論すべきだ。 [198−199頁]

日本の場合、納税者自身による税の監視活動はあまり活発でなかったといってよい。その背景には、納税者の大多数を占めるサラリーマンが、源泉徴収と給与所得控除のために税に対して無自覚にされていることがあったように思われる。 [207頁]

何のために誰から税金を取り、何のために使うのかを確認しよう。そのことによって、私たちの自由と権利は大きな影響を受けるからである。[…]税制は一見技術的かつ難解で、市民が発言しにくいように思われがちだが、税制によって影響を受けるのは私たちの生活である。 [208頁]


2.萱野稔人『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社、2006年)

ロックの考えでいくと、国家より所有が先にあることになる。そして所有者である諸個人が互いに申し合わせ、みずからの所有物のいくらかを出し合うことで、個々人をこえた力をもった国家が設立されるということになる。みんなで富を出し合う、つまり租税を支払うことが、国家をなりたたせる力の優位性をうみだすという図式だ。[原文改行]しかしすでに見たように、国家は、税を支払うことになる人びとがたがいに同意して設立したものではない。物理的力の優位性のもとにあるエージェントが他の人びとから強制的に富を徴収するところに、税の根拠はある。[原文改行]税が力の格差をうみだすのではなく、反対に、力の格差がまずうまれてそれが税を可能にするのだ。[原文改行]占有と所有の違いがここでも重要になってくる。 [160頁]

ドゥルーズ=ガタリは言っていた。国家をうみだす暴力の特徴は「捕獲する権利を制定しながら捕獲する」というところにある、と。暴力ならなんだっていいわけではない。収奪する「権利」をみずからに制定することのできる暴力だけが国家をなりたたせるのだ。[原文改行]所有についても同じことがいえる。所有をもたらすことができるのは、収奪することで権利関係を発生させるような暴力なのである。 [163頁]

注目したいのは、国家が貨幣形態における税をつくりだしたといわれていることだ。ふつう貨幣は、交換や商業の要求からうまれてきたと考えられている。しかしドゥルーズ=ガタリによればそうではなく、貨幣は税からうまれてきた。「しかし貨幣形態が生まれるのは、交易からではなく、税からなのである」。[原文改行]つまり、貨幣は本来、交換よりも、富を吸いあげることのほうに密接に結びついているのだ。[…]これはとても重要な指摘である。[原文改行]というのも、一般に貨幣はモノの交換の結果としてうまれてきたと考えられており、それが、資本主義が国家とは別の起源をもつとされることの根拠となっているからだ。ここから、資本主義と国家は相容れないものであり、資本主義の発達は国家の消滅(または衰退)をもたらすだろうという発想がうまれてきたりもした。[…]現代でも、富を税として吸いあげるために国家によってカネが発行される、というあり方は消えていない。そうした、富を吸いあげるというカネのあり方を、国家による暴力の実践から切りはなして引き継ぐのが資本主義である。実際、カネによって労働を組織しその成果を吸いあげるという資本主義の活動は、国家がカネを発行しその一部を税として回収するという運動に依拠することでなりたっている。 [179−180頁]


3.カール・シュミット『大地のノモス』(1950年、慈学社)

ノモスは、ネメイン[nemein]から、すなわち「分配すること」[Teilen]および「牧養すること」[Weiden]を意味する言葉から由来する。したがってノモスは、そこにおいて民族の政治的および社会的な秩序が空間的に明白になる直接的な形態であり、また牧養地の最初の測定と分配である。すなわち陸地取得であり、また、陸地取得に存しそこから生ずる具体的な秩序である。カントの言葉によれば「土地における私のものとお前のものとを分配する法律」であり、あるいは他のよく特色を示す英語によれば、権原[radical title]である。ノモスは、大地の地所を一定の秩序において区分し場所確定する尺度であり、それと共に与えられた政治的社会的宗教的秩序の形態である。 [55−56頁]

法と秩序とは、陸地取得のかかる起源において、同一のものであり、そして、この点において、すなわち場所確定と秩序とが同時に起こっているその発端において、互いに分離できないのである。 [71頁]


4.トーマス・ホッブズ『リヴァイアサン』(1651年、岩波文庫)

正と不正という名辞が場所をもつためには、そのまえに、ある強制権力が存在して、人びとがかれらの信約の破棄によって期待するよりもおおきな、なんらかの処罰の恐怖によって、かれらが自分たちの信約を履行するように、平等に強制しなければならず、かれらが放棄する普遍的権利のつぐないとして、人びとが相互契約によって獲得する所有権を確保しなければならないのであり、そしてそういう権力は、コモン‐ウェルスの設立のまえには、なにもないのである。そしてこのことは、スコラ学派における正義についての通常の定義からも、推測される。すなわち、かれらは「正義とは各人に各人のものを与えようとする不断の意志である」という。したがって、自分のものがないところ、すなわち所有権がないところでは、なにも不正義はなく、強制権力がなにも樹立されていないところ、すなわちコモン‐ウェルスがないところでは、所有はない。すべての人がすべてのものに対して、権利をもつのだからである。したがって、コモン‐ウェルスがないところでは、なにごとも不正ではない。それであるから、正義の本性は、有効な信約をまもることにあるが、しかし信約の有効性は、人びとにそれをまもることを強制するのに十分な、政治権力の設立とともにのみ、はじまるのであって、しかもそのときにまた、所有権もはじまるのである。 [一巻237頁]


5.ジョン・ロック『統治二論』(1690年、岩波文庫)

たとえ、大地と、すべての下級の被造物とが万人の共有物であるとしても、人は誰でも、自分自身の身体に対する固有権をもつ。これについては、本人以外の誰もいかなる権利をももたない。彼の身体の労働と手の働きとは、彼に固有のものであると言ってよい。従って、自然が供給し、自然が残しておいたものから彼が取りだすものは何であれ、彼はそれに自分の労働を混合し、それに彼自身の所有物とするのである。それは、自然が設立した状態から彼によって取りだされたものであるから、それには、彼の労働によって、他人の共有権を排除する何かが賦与されたことになる。というのは、この労働は労働した人間の疑いえない所有物であって、少なくとも、共有物として他人にも十分な善きものが残されている場合には、ひとたび労働が付け加えられたものに対する権利を、彼以外の誰ももつことはできないからである。 [326頁]

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