2010年12月9日木曜日

時間哲学(2)

1.G. W. F. ヘーゲル『自然哲学』(作品社)

時間は否定の否定であり、自分と関係する否定です。空間における否定は、他なるもののもとでの否定であって、だから、否定の力がいまだ正しく働いているとはいえない。[…]空間の真理は時間であって、だから、空間は時間になるのです。わたしたちが主観的に時間へと移行していくのではなく、空間そのものが時間へと移行していく。普通に考えると、空間と時間はかけはなれた所にあって、だから、空間があり、つぎに時間「もまた」あるといわれる。哲学はこの「もまた」を克服しなければなりません。 [60頁]

時間とは、純粋な自己意識原理たる自我=自我と同じ原理に立つが、その原理あるいは単純概念が、まったく外面的・抽象的な形をとり、たんなる「なる」の直観体としてあらわれたものが時間であり、いいかえれば、時間とは純粋な内面性がまったくの外面性としてあらわれたものである。 [61頁]

概念は、完全無欠の絶対的な否定力であり、自由な存在であって、時間に服従することもなければ、時間のなかにある時間的存在でもなくて、むしろ、概念のほうが時間を支配し、概念の否定力の外面的なあらわれが時間である。とすれば、時間の支配下にあるのは有限な自然物だけであって、真の存在たる理念や精神は、時間を超えた永遠の存在である。 [61頁]

運動があるというのは、なにかが動くということで、この持続するなにかが物質です。空間と時間は物質によって満たされている。空間はみずからの概念と一致せず、そこで、空間の概念そのものがみずから動いて、物質のうちで実在を手に入れます。[…]空間と時間はその抽象性ゆえに最初のものと考えざるをえないので、そうなると、物質は空間と時間の真理であることが示されねばなりません。物質なくして運動がないように、運動なくして物質はない。運動が一つの過程であり、時間から空間へ、空間から時間への移行であるとすれば、物質は、空間と時間との関係が静止する同一体という形をとったものです。物質が第一の実在であり、そこにある自立存在です。それは、抽象的な存在というにとどまらず、空間が積極的に存立しつつ、他の空間を排除するありさまです。[…]物質のもとではじめて排他的な自己関係がなりたち、空間に実在的な境界が生じてくる。空間と時間を満たすもの、手でつかめ、触れることのできるもの、他に抵抗し、他にたいしてあるとともに自立して存在するもの、そのようなもの――物質――ができあがるには、時間と空間が統一されねばならないのです。 [73頁]


2. アレクサンドル・コジェーヴ『概念・時間・言説』(法政大学出版局)

<時間性>は<異なるもの‐の‐同一性>である。しかるに、<所与の‐存在>における<異なるもの>とは、<存在>と<無>のことである。したがって、<時間性>とは、<存在>と<無>のあいだの<差異>の<同一性>である。<時間性>はまた、それぞれ異なるものとして捉えられた<存在>と<無>との<同一性>である、とも言える。したがって本来のことを言えば、問題なのは同一‐性ではなくて、<同一‐化>なのである。すなわち、<時間性>は<存在>を<無>と、そして<無>を<存在>と同一化する。より正確に言えば、<存在>と<無>の同一化、ないし<無>と<存在>の同一化が、<時間性>なのである。この事態をアリストテレスや<スコラ哲学>にならって言えば、<時間性>とは<発生>と<腐敗>である。 [318頁]

或る孤立した言説において、<時間性>は<同一性>であると言うとする[…]。また同じく(他のあらゆる言説から、ゆえにまた先行の言説から)「孤立した」他の言説において、<時間性>は<差異>であると言うとする[…]。とすれば、これら二つの「孤立した」言説は、「論理的に」反駁しあうことになる。このことに「異論」の余地は、たしかにないだろう。しかしここで、この二言説を結びつける、あるいは「綜合する」としよう(二言説の任意の一方は、「<定立>」と呼べる。その場合他方は「<反‐定立>」と呼ばれる)。あるいはより正確に、二つの言説の(「綜合的」)第三言説としての結合、ないし一体性を考えてみよう。すると、「孤立した」二言説の「論理的矛盾」は「綜合的」第三言説のうちで、ないし「弁証法的」第三言説のうちで、昇華され(ゆえにまた保存され)(「弁証法的に」)「消滅」することになる。「綜合的」第三言説が矛‐盾するものでないというのは、つぎの単純な理由による。すなわち、「綜合的」第三言説は一個同一のことしか言っていない、すなわち、<時間性>は<同一性>であるだけでも<差異>であるだけでもなく、<時間性>は<異なるもの‐の‐同一性>あるいは<同一なもの‐の‐差異>であるとしか言っていないという理由である。 [329頁]

あらゆる「弁論」において、ないし(「首尾一貫した」)言説において異論の余地なく「人為的」なのは、一個同一の<全体>の構成‐要素として「本当は」結合しているもの、ないし結びついているものが、「抽象によって」(言説的に)分離される、ないし孤立させられることである。だから「論理的弁論」も、「弁証法的弁論」とまったく同じく、孤立させ分離する弁論である。ただし「弁証法的弁論」は、最終的には、いつでもどこでも(すなわち「必然的に」)分離したものを再‐結合する。しかし「論理的弁論」は、分離したものを(「人為的に」)分離したまま固定し、いついかなるところでも再結合することがない。そして論理的<弁論>が矛‐盾するのは、まさに分離されたものを「人為的に」固定するからである。「人為的」固定のために(すでにパルメニデスが<臆見>に関して理解し、プラトンが『パルメニデス』で示したように)論理的<弁論>は、己れが言うのと反対のことも言わざるをえなくなる。 [335−336頁]

<哲学>はヘーゲル以降、「真に」語るには(最終的には)存在‐論的<鼎立体>について語るしかないことを知ったのである。すなわち、(明示的に語られる)<存在>、(黙示的にのみ語られうる)<無>、そして(少なくとも黙示的に<存在>と<無>の差異として語ることによって、明示的に語られうる)<差異>について、(「継起的」にではあるが)「同時に」語るしかないことを、知っているのである。 [343−344頁]

<無>の不在という現前がなければ、存在は「<無>と異なる」と言うことさえできなくなる。すなわち、存在について何も言えなくなり、<存在>は<所与の‐存在>(すなわち<人が‐それについて‐語る‐存在>)でなく、言表不可能な<まったく‐単独の‐一者>であることになる。 [346頁]

必然的に時間のなかで実現される<概念>の言説的展開が、いつの日か(その出発点に帰還して)その「内容」を「尽くす」ことができると言えるのは、<概念>を「<時間>」に、そして「<時間>」を<概念>に同一化させればこそである。このときこそ、<概念>の言説的展開は、「首尾一貫し」「完成した」ものとして言説的<真理>であると、言うことができる。この言説的<真理>は、ひとがそれについて語るものについて言うことができるすべてを言い、いついかなるところでも(語る者の)「首尾一貫し」「完成した」別の言説から反対を‐言われることもなく、ひとがそれについて語るものによって「反対を言われ」「否定される」こともないのである。[原文改行]したがって、実際には言説的<真理>の探求である<哲学>は、自らを(言説的に)意識して、<概念>が<時間>にほかならないのと同じく、<時間>が<概念>にほかならない、と言わなくてはならない。ただし、<哲学>がこの二重の同一化を真理であると証‐明できるのは、己れ自身を言説的<真理>として証‐明すればのことである。そして、<哲学>が己れ自身を言説的<真理>として証‐明するためには、<哲学>がこの<真理>に生成するしかない。<哲学>は、わたしが本書でわたし自身と同時代人のために「改訂」して開陳するヘーゲル的<知の体系>である「円環的」<言説>へと、(「首尾一貫」した仕方で)「完成され」、「完璧に仕上げられる」しかないのである。 [363−364頁]


3.アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』(国文社)

「時間は経験的に現存在する概念そのものである」という文は、時間が世界-内-人間及びその実在する歴史である、ということを意味することになる。だが、ヘーゲルはまた「精神は時間である」とも述べている。すなわち、人間は時間であるとも述べている。我々はこれが意味するものを今しがた見て来たばかりであった。それによれば、人間は他者の欲望に向かう欲望、すなわち承認を求める欲望であり、すなわちこの承認を求める欲望を充足せしめるために遂行される否定する行動、すなわち尊厳を求める血の闘争、すなわち主と奴との関係、すなわち労働であり、すなわち終局において普遍的で等質的な国家と、この国家において、そしてこの国家により実現される全人類を開示する絶対知とに至る歴史的発展である。要するに、人間が時間であると述べることは、ヘーゲルが『精神現象学』において人間に関して述べたことをすべて述べることにほかならない。[…]精神と時間とを同一化するこの一文は、ヘーゲルの全哲学を要約しているわけである。 [206頁]


4.

 「時間とは現存在する概念である」とは、時間の「総合する」性質を指摘したものでもあるらしい。

 時間を「論理」あるいは「言語」として読める箇所もコジェーヴにある。まずAと言い、次にBと言わなければならない。言語こそ時間構造である。

 コジェーヴのヘーゲルとアルチュセールのヘーゲルはまったく別の印象を与える。コジェーヴが論じると弁証法はすばらしい原理に思える。しかしたしかに、普遍的で等質的な国家を「究極目的」「完成」と呼ぶヘーゲル=コジェーヴには、批判せざるを得ない部分がある。

 ただし、コジェーヴのヘーゲル理解を踏まえるならば、時間は「主人公」としての主体の時間であり、「敵」と「敵」の時間は「主人公」のために存在する、という階層的な時間/歴史哲学はヘーゲルとは無縁なようである。つまり弁証法的時間とは、「主」のために「奴」が存在するような時間ではないのではないか、ということ。

 ヘーゲルとクライストのあいだに通じる道が見つかるかもしれない、ということ。

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