2010年12月6日月曜日

メモ(1)



 現代生活の課題は、「時間」を複数化することである。それは「わたし」を複数化することでもある。

 もしも「わたし」が一人なら、その一人において全てが始まり、全てが終わる。成功は「わたし」の完全な勝利であり、失敗は「わたし」の全身を痛めつけるだろう。

 それは単純にリスクが高い。可能なら一人の「わたし」に全てを賭けてよいだろう。しかしそれができるかできないか、それを望むか否かを自覚的に選択するプロセスはあってよい。

 仕事、家族、友人、趣味など、「戦線」を複数化することが「わたし」を複数化することである。「戦線」を分散したうえで、一部で受けたダメージをほかで補填し、一部で得た成功をほかに伝播させる。他方、重複させない部分は決して重複させない。

 「わたし」のこの複数化が、「時間」を複数化することでもある。「時間」の分割と言ってもよい。一つの大きな「時間」を生きているという前提を停止させ、仕事の時間、家族の時間、趣味の時間など、複数の小さな「時間」を渡り歩く。

 数が多く、種類が豊富で、質が多様なことを楽しむのが20世紀の消費文化だった。必要充分な数と種類を、できるだけ良い質で楽しむのが21世紀の消費文化だろう。いずれにせよ、いまだに一つの、単一の、均質な「わたし」の「時間」を生きなければならない理由は何もない。豊かな消費生活を楽しむように「わたし」とその「時間」に手を入れて楽しめばよいのだ。

 そもそも、仕事や対人関係に全人格を投入することは、現代においてなお求められているのだろうか。Wikileaksの外交公電公開では、アメリカの外交官が各国要人に対して行っていた個人的評価が問題となった。こうした事態にシステムとして対応することは困難だ。重要なのは、「仕事上の相手を個人的・感情的に評価しても仕方ない」という姿勢を、少なくとも表向きにつくることができるかどうか、ということではないか。機械として仕事をせよ、というのではない。「仕事」というカテゴリに対して適切なパーテーションを仕切れるか否か。別のソフトウェアで対応できるか否かが問題なのだ。そうしたかたちで仕事上の「わたし」を分離することは、ある意味では「演技」せよ、ということである。しかし感情移入し役柄に「なりきる」演技は不要だ。演技しながら演技している自分を冷静に意識し、モニターし、そのとき自分に何が生じているかを批評し、修正を与え続ける、ベルトルト・ブレヒトが求めた冷めた実践があればよい。現代において、それは役柄に「なりきる」ことよりもずっと容易で、かつゲーム的な楽しさを感じられるものではなかろうか?

 一人の「わたし」、一つの「時間」を複数化することは、個人の生活以外の分野にも応用できる。

 例えば政治や外交だ。わたしたちはあまりにしばしば「日本は…」「中国は…」と言う。それは日本や中国が一人の「わたし」のようにまとまりある、統一的な存在だと想定されているからだ。また、「日本は先進国だ」「中国は成長著しい」と言うときには、その国が、さらには全世界が一つの「時間」を生きているような前提をもっている。

 しかし、「日本」や「中国」は均質な統一体ではありえない。その内部には無数の多様な「日本」や「中国」が混沌としていて、それらはおのおのの「時間」をもっている。同じように「日本」と呼ばれていても、日本の経済と日本のメディアは(相互に依存するが)分離して考えることが可能で、それぞれに別の「時間」をもっている。それを「先進国」と形容した瞬間に、メディアの「時間」がどれほどいわゆる「先進国」とずれているのか、その差異は見失われてしまうのである(経済も「先進国」と評するに値しないかもしれないが)。

 「中国は人権を尊重せよ」というのは正論だろう。ただ、「中国」にも様々な「時間」が流れていることを考慮しなければ、現実的な変化はもたらされまい。「中国」の政治の時間、法の時間、統治の時間、領土問題の時間、民族問題の時間が今現在どのように流れているかを慮ったほうが、せっかくの提案が無駄にならない。「主観的な合理性」(内田樹)はいたるところに、常にある。それに「共感」することは不可能だ。誰もが同じ条件を共有しているわけではないのだから。したがって中国の立場に「なりきる」こと、なりきって「感情移入」することは不要だ。だがそこでもブレヒトの演技論は有効である。冷めた意識の「俳優」として、中国(これは飽くまで一例に過ぎない)の「主観的な合理性」を演技=検証し、それに対する距離感を確認すること。そしてその距離感の中で自分の行動をアレンジすることができれば、十分ではなかろうか。

 「近代」の問題としての一人の「わたし」と一つの「時間」。それは演劇の問題でもある。(続)

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