1.アルバート・アインシュタイン『相対性理論』(1905年、岩波文庫)
“光を伝える媒質”に対する地球の相対的な速度を確かめようとして、結局は失敗に終ったいくつかの実験をあわせ考えるとき、力学ばかりでなく電気力学においても、絶対静止という概念に対応するような現象はまったく存在しないという推論に到達する。[…]特別な性質を与えられた“絶対静止空間”というようなものは物理学には不要であり、また電磁現象が起きている真空の空間のなかの各点について、それらの点の“絶対静止空間”に対する速度ベクトルがどのようなものかを考えることも無意味なことになる。このような理由から、“光エーテル”という概念を物理学にもちこむ必要のないことが理解されよう。 [14−15頁]
質点の運動を書き表わすには、質点の座標の値を時間の関数として表現すればよい。ここで次のことに注意しなければならない。すなわち“時間”とは何を意味するかが、あらかじめ明確にされているときにはじめて、上に述べたような数学的な表現は、物理学的意味を持つようになるということである。ところで、われわれは判断のうち、そこで時間が役割をになう場合には、そのような判断はすべて、いくつかの出来事が同時刻に起きたか否かに対する判断であるということを念頭におかねばならない。たとえば、私が“あの列車は7時にここに到着する”と言ったとき、それは“私の時計の短針が7時を指すということと、列車の到着とは同時刻に起きる出来事である”ということを意味する。 [16−17頁]
原著者注:同一(あるいはほとんど同一)の場所で起きた二つの事件の間の同時刻という概念の中にひそんでいる不精確さ、そしてこれもまた、抽象化という方法で解決されねばならないものであるが、これについては、ここでは深く議論しないことにする。 [17頁]
同時刻という概念に、絶対的な意味を与えてはならないことがわかる。すなわち、ある座標系から見たとき、二つの事件が同時刻であるとしても、この座標系に対して動いている他の座標系から見れば、それらの事件を互いに同時刻に起きたものと見なすわけにはいかないということがわかる。 [24頁]
物の長さや同時刻という概念は、誰が見ようとも、判断は同一といったような、絶対的なものではなく、観測者によってその判断が変わる。この意味で、これらはいずれも相対的な概念というべきものである。 [解説、131−132頁]
アインシュタインは、地球の絶対速度や、動いている物体の関与する電磁現象に対するいくたの議論や矛盾のすべてが、究極的には、時間と長さの物理学的定義の不完全、あるいは独断に起因するということを見抜いた。そこで彼は、まず時間の定義、同時刻の判断法、長さの測定といったような、まことに初歩的な、しかし実に重要なことを出発点として物理学の再構築に着手した。[…]それは何らの神秘的な仮定なしに、長さの収縮を教えてくれる。このようにして導かれた公式は、形の上では、ローレンツのそれとまったく同じであるが、その根底となった時間、空間に対する描像はまったく別のものである。 [解説、153頁]
2.
相対性理論と総称される理論の第1論文が“Zur Elektrodynamik bewegter Körper“と題されているのが興味深い。これは邦訳のとおり「動いている物体の電気力学」と解するべきだろうが、敢えて「運動する身体の電気力学」と「誤訳」することも可能だ。「身体」にとって「物理的な長さ」と「時間的な長さ」が相対的であるという理論…。
「時間の長さ」が相対的であることが理論によっても実験によっても確認されたにもかかわらず、時間はその後も絶対的、単一的、統一的なものであるかのように想像された。その方が精神的にも社会的にも都合のよいことが多かったのだろう。しかし人間の技術と心性はようやく時間の相対性に適応しつつあるのではなかろうか。その象徴が、「タイムライン」と呼ばれる「自分にとってだけの時間の流れ」だ。時間は今後、その相対性をますます明らかにした上で、個々人によって編集されカスタマイズされ続けるだろう。新聞やテレビといったマスメディアは、できるだけ多くの人間が同じ時間を生きていなければ「マス」を対象とした経済活動を継続させられないため、「絶対的時間の演出」を今後も続けるだろうが、その勝負に勝ち目はないだろう。相対性理論が社会に根付くとき、受験戦争、就職活動、記者クラブといった、「横並び=絶対的時間の共有」はその意義を完全に否定されるだろう。
3.
「同時刻」がひとつの概念であること、そしてそれが相対的であることにも注意が必要だ。複数の「事件」を結びつける概念が「同時刻」である。その現在形を「今」と呼んでもかまわないだろう。アインシュタインは、一つの「座標系」から見れば複数の「事件」が「同時刻」に生じたとしても、「この座標系に対して動いている他の座標系」から見れば「同時刻」に起きたとは言えないことを証明した。それは観測者がどのような「座標系」に位置しているか次第なのである。
物理学から離れて考えると、この理論は、一つの「事件」を「同一の経験」として「共有」する可能性を著しく損なうと同時に、「多様な経験」として「分裂」させる可能性を開いている。これは翻訳、批評、ジャーナリズムの理論にもつながるものだ。経験の絶対性から、経験の相対性へ。「物自体」としての経験から、多様な機能としての経験へ。そこには生産的な混沌が生まれるだろう。だからこそその混沌をふたたび編集しカスタマイズする能力、技術、プラットフォームが求められるだろう。
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