2010年12月18日土曜日

クライスト(3)

ノーベル平和賞、WikiLeaks、クライスト

 カール・シュミットは『政治的なものの概念』において、「政治的なもの」とはなにか固定的な分野ではないことを指摘した。「政治的なもの」とは、それによって「友」と「敵」が分かれてしまうことになる何かであり、それは時代や地域や文化によって変遷する。宗教が政治的な時代もあれば経済が政治的な時代もある。

 2010年において、ノーベル平和賞とWikiLeaksの問題は、シュミットの意味ですぐれて政治的な出来事だった。とりわけ重要だったのは、政治的な出来事が二つ生じた、しかもほとんど続けざまに生じた、ということである。「民主主義の友と敵」の布置が決して静的なものではなく、ある出来事においては民主主義の友に見えたプレイヤーが別の出来事においては敵としてあらわれてくる事態を、わたしたちは目にした。ノーベル平和賞問題だけなら「中国は民主主義の敵でありアメリカは民主主義の友である」という外見が保たれただろう。しかしWikiLeaksの一連の事件のなかで、アメリカは単純な民主主義の友ではないことを明らかにした。国家の駆動原理は民主主義ではないことが明確になった。

 それでは国家の原理とは何か。国家は自己保存のために駆動するシステムであると捉えておこう。国家の目的、あるいは国家にとっての善悪は原理的に存在しない。自己保存に有利な行動を選好し、不利な出来事を忌避するだけである。つまり秩序の維持が問題なのだ。

 ノーベル平和賞とWikiLeaks問題の共通点はなにか。それは「文書」と「裁判」が問題になっていることだ。劉暁波の「零八憲章」とWikiLeaksの外交公電という「文書」。そして2010年2月に国家政権転覆扇動罪による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され投獄中の劉暁波と、スパイ活動防止法違反や国家反逆罪を適用され立件されるおそれがあるというジュリアン・アサンジ、ふたりの「裁判」。なぜ「文書」と「裁判」が問題になるのだろう? 「文書」と「裁判」は国家にとっていかなる意味をもつのか?

 ハインリヒ・フォン・クライスト(1777-1811)の全作品は、まさに「文書」と「裁判」をめぐる仮想のケース・スタディ集である。

 クライストが「文書」にこだわったのは、「文書」こそ戦争であり、秩序であり、政治的なものだからである。戦争の勝利とは何か。戦争はどのように終わるか。相手を一人残らず殺したときではない。相手を全滅させればもはや勝利も敗北も存在しない。なぜなら勝利や敗北を認めさせる相手がいないからである。戦争が終わるのは終戦条約のような「文書」による。公的な形では条約、法律、命令、私的な形では契約や遺言(ところでクライストは恋愛もひとつの戦争ととらえる。恋愛=戦争は婚姻届という契約「文書」に結実する)があらゆる争いを終結させ、それが統治の秩序となる。近代国家の秩序とは、憲法を頂点とし法律や条例や規則で構成された「文書」の体系そのものである。どのような「文書」をつくることができるか、どの「文書」を有効なものとしどれを無効にするか。それがそのまま戦争であり、秩序の構築であり、統治なのだ。したがって自己保存のために駆動する国家にとって、「文書」の管理は絶対的な重要性をもつ。国際社会における評価よりも国内の「文書」の管理にこだわるのは、自己保存のために当然の行動なのである。

 一方で「裁判」は、国家が国内において合法的な暴力を行使するための手続きである。近代国家は私的な暴力(決闘、私仇、報復行為など)を禁じ、裁判を経た刑罰というかたちで合法的に暴力を行使できる唯一の主体となった。しかしそれは本当に公正な手続(適正手続)を経た暴力の行使なのだろうか? 法的なものと政治的なものは交わらないのか? 特捜検察問題等を通じて日本でも明らかになっていることだが、法的なものが客観的で公正で適正で非政治的だということは、絶対にない。クライストが「裁判」を扱ったのは、「裁判」こそ法の支配と人の支配、法的なものと政治的なもの、規則と例外が交差し衝突する場所であり、法と政治がどのような関係に立つべきか、いかなるバランスを見出すべきかという問いが提起される場所だからである。WikiLeaks問題が明らかにしつつあるのは、中国のような国家だけが「法の支配」の例外をつくるイデオロギー国家なのではないということだ。国家というものは、程度の差はあれ、「裁判」を政治的に利用するのである。

 「文書」も「裁判」も、基本的には国家の権限に属している。では国家が暴走したとき、それを止めることは不可能なのか? そのときクライストが提示するのは「民衆」である。しかしこの「民衆」はいわゆる良識的な理性的教養人の集団などではない。ほとんど暴徒のように荒れ狂い、「文書」と「裁判」をめぐる国家の専制に数と力で抗議する存在である。クライストは現代のコロスを理想的市民とも客観的判断者とも描かない。それは国家のチェック機関である。だが全能で中立的なチェック機関ではなく、既存の秩序を揺るがし、破滅を引き起こす可能性さえもち、しかしだからこそ国家に対してバランスを取り戻させる力をもつような、評価し難く、両義的で、流体のように定まらない存在、それがクライストの「民衆」である。なんらかの理念にもとづいて行動するのではなく、衝動的に、無意識に、あるいはまったくの偏見に突き動かされて自己組織化される「民衆」。だがそれが国家のチェック機関として機能するという事態。WikiLeaks問題は、展開次第では現実的な危害を生み、それによってWikiLeaks支持者が事後的に弾劾されることもあるかもしれない。しかし歴史を見通した理性的教養人だけに言動が許されるのではない。ネット上で好き勝手につぶやき、署名し、ものを書く、流動的な存在としての「民衆」が、「文書」と「裁判」をめぐる国家の専制に対して、意識的にだけでなく無意識的にも、チェック機関として機能し始めているのではなかろうか。

 クライストははじめ軍人としての道を歩み、その後作家、官僚として働くとともに、自ら雑誌や新聞を発行するジャーナリストでもあった。プロイセンの政策を批判した彼の「ベルリン夕刊新聞」は、検閲によって事実上発行不可能な事態に追いやられ、その年に彼は自殺した。クライストが構想した国家のチェック機関としての「民衆」は、したがって決して虚構の中だけの話ではなかった。彼は現実的にそれを必要としたのである。クライストならWikiLeaksを擁護するだろう。インターネット上の無数の「声」を擁護するだろう。


(絵:蓮沼昌宏)

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