2010年12月13日月曜日

メモ(2)



 「時間」を複数化するためには、「時間」の分割と配分を「計画」しなければならない。

 「計画」(project)。「時間」の「計画」は、歴史上、常に必要とされてきたわけではない。自転と公転のリズムに従って生活のパターンが決定され、必然的に「時間」が設計されていた時代、ひとは「時間」の「計画」をさほど必要としなかった。人間はみずから「時間」をデザインするよりも、「時間」に身を委ねていた。

 しかし近代の技術は、自然という一つの「時間」から人間を引き剥がした。その帰結として、20世紀の人間は、自然とはまた別の誰か/何かに「時間」を委ねた。たとえばそれは会社であり、国家であり、新聞、ラジオ、テレビだった。

 いま、人間と「時間」の関係の歴史は、新たな局面を迎えている。人間は、自分以外の誰か/何かがつくった「時間」に無批判に身を委ねることをやめ、ますます個人としてみずからの「時間」を「計画」するよう求められている。あるいは、その権利を与えられている。会社に自分の「時間」を委ねることのリスクを誰もが知っている。マスメディアの「時間」からこぼれ落ちるものがいかに多いか誰もが知っている。

 主体(subject)としての人間は、これまで誰か/何かがつくった「時間」の従属者(subject)だった。だがいまや個々人が計画(project)を始める。サブジェクトからプロジェクトへ。みずからの「時間」を全的に委ねてしまうことは、20世紀が残した「公害」である。

 「計画」(project)。プロジェクトとは語源的に「前に‐投げる」ことを意味する。わたしたちは前に投げる。何を投げるのか。自分の「時間」を投げるのである。「いつまでに‐なにを‐どれくらい‐やれば‐満足か」。その決定がプロジェクトの課題だとすれば、わたしたちは、自分自身にとっての「いつまでに‐なにを‐どれくらい‐やれば‐満足か」を前に投げる。未来に向かって考える。そしてリズムをつくる。わたしたちは自分のリズムをつくる。それがプロジェクトである。リズムがあり、テンポがあるからこそ、変化があり、経験があり、価値の創造があり、自由がある。「時間」の「計画」を窮屈なものと考えてはならない。それは自由と矛盾しない。むしろ「計画」とリズムがない場所に無規律な自由などない。

 リズムとしてのプロジェクト。リズムをとり、テンポを保つための技術が、いまやわたしたちの周りに溢れている。かつて手紙や日記がそうした役割を果したように、現在ではメールやブログやSNSやツイッターが個人にとっての「ペースメーカー」となる。「ペースメーカー」。「ペースを‐つくるもの」。プロジェクトのペースは「わたし」がつくる必要はなく、「もの」につくってもらえばよい。「もの」がつくってくれたペースに「わたし」が乗る。それは「時間」を委ねることとは違う。「もの」がつくってくれたリズムとテンポに合わせ、それを利用して踊ればよいのである。

 しかし気をつけなければならない。あなたの「時間」を奪いにくるものは多い。テレビや携帯電話だけでなく、あなたが「時間」を「計画」するツールもまた、あなたの時間を容赦なく奪いにくる。パソコンに「時間」を委ねることはテレビに委ねることとそう変わらないかもしれない。すべてはあなたの「時間」を奪いにくる。だから意識し、覚醒している必要がある。「時間」を分割し、配分し、自分の「時間」を誰に/何にどれだけ与えるか、「時間の経済学」に習熟し、「時間」を不当に(無意識のうちに)奪われないこと。距離の感覚を保ち、没入して委ね切らないこと。ものを使うことよってものに対する距離をとること。技術を受け入れることで技術との関係を批判的に更新し続けること。

 「計画」(project)とは「前に‐投げる」ことである。しかし前に投げたらどうなるのか? わたしたちは前に投げるだけなのか? おそらくそうではない。わたしたちは前に投げる。すると向こうから何かが返ってくるのである。それを「対価」と呼ぼう。プロジェクトと対価。前に投げることと見返りに受け取ること。その往復運動が重要だ。

 前に投げることと見返りに受け取ること。ツイッターはその構造からなる。わたしたちはつぶやく。前に投げる。それが何らかの価値を生めば、つぶやきはリツイートされ、フォロワーが増える。

 公務員や大学教師よりも起業家や作家に強力なツイッターユーザーが多いのは不思議でない。「月給」という制度、いや思想そのものが、プロジェクトと対価の思想と対立するからだ。ツイッターは原則的に自分が生んだ価値に応じて価値が返ってくる世界である。他方、月給は、自分が価値を生んだときに初めて対価がもらえるという構造ではない。

 プロジェクトと対価のシステムが月給のシステムよりも優れている点が、少なくとも一つある。それは外部からの批評性が確保されることだ。収入と生活が保障されている限り、自分の仕事がどれほど評価されなくても、「世間がついてきていない」「自分が進みすぎている」と自己肯定し続けることが可能だ。あるいは外部に対して無関心でいることさえ可能だ。「自分は価値のないことをしているのではないか」「もっとほかにやるべきことがあるのではないか」と反省する契機は相対的に少ないだろう。しかし生んだ価値に応じてしか対価を得られない世界では、「まわりが馬鹿だ」と言っても仕方なく、外部の視点によって自動的に自己が点検されるのである。

 月給と終身雇用というかたちで将来の不安がなくなることは、基準の絶対化もしくは基準の消滅を生む可能性がある。価値を前に投げ、その対価を得るという往復運動が止まると、何をやってもやらなくても同じになってしまうのだ。その意味で「不安」は必ずしも否定すべきものではない。「不安」を「常に試されている状態」ととらえるなら、それは価値と対価の運動の原動力として働くのであり、外部からの批評を次のプロジェクトへとつなげる動機になるのである。

 「時間」の「計画」。それは個々人がみずからのリズムをつくり、そのなかで経験し、価値を生み、それに応じて対価を得る構造をつくることだ。現代において「時間」を誰かに委ねることと「時間」を自分でプロジェクトしていくこと。前者はよりリスクが高く、後者はより楽しい。それは明白ではなかろうか。

(続)

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