2010年12月16日木曜日

時間哲学(3)

1.アンリ・ベルクソン『記憶と生』(1896−1934年、未知谷)

しかし、そうした不断の変化には注意を払わず、それが身体に新しい態度を、注意力に新たな方向を刻印するほど大きなものとなった時、初めてそれに気づくのが便利というものである。まさにこの時、人は自分の状態が変わったと感じる。ほんとうは、人は絶え間なく変わっているのであり、状態それ自体がすでに変化なのである。 [13−14頁]

物質は必然であり、意識は自由である。だが、それらが双方で対立し合っても、生命は二つが折れ合う手段を見つけ出す。生命が必然のなかに挿入された自由であり、必然を自由の利益へと折れ曲がらせる自由であるのは、まさにそのためである。物質の従う決定性が、その厳しさを緩めることがないとしたら、そうした自由は不可能になるだろう。だが、ある瞬間に、ある地点で、物質が一定の弾力性を示すと仮定してみよう。そこにこそ、意識は自分の席を占めるだろう。意識は、ごく小さくなってそこに席を占める。いったん席を貰えば、次には自分を膨張させ、分け前を増やし、ついには何もかもを手に入れる。なぜなら、意識は時間を利用するからであり、ほんのわずかな未決定も、際限なく加算されれば、望むだけの自由をもたらすからである。 [225頁]

生命にとって重要なことは、物質がゆっくりとした困難な作業を通して動力エネルギーを蓄え、それが一気に運動エネルギーとなるようにすることである。ところで、自由原因と呼ばれるものが、これよりほかの振る舞い方をするだろうか。自由原因は、物質が従う必然性を砕くことはできないが、それを屈曲させることならできる。また、自由原因は、それが物質に及ぼすごくわずかな影響を使って、物質からますます強力な運動をますますよい方向に引き出そうとする。自由原因は、まさにこのようにして振る舞う。それの努めは、発火装置を働かせ、火花を持ち込むこと、物質が必要な時間すべてをかけて蓄えたエネルギーを一瞬の内に利用すること、だけでよい。 [226頁]

周囲の物質に対する彼らの行動の独立は、物質が流れるリズムから、彼らが自分を引き離すほど、いよいよ確固とする。したがって、記憶で二重化された私たちの知覚に現れてくる感覚的なさまざまな質とは、実在するものの固形化によって得られる継起的な諸瞬間のことにほかならない。しかし、これらの瞬間を区別し、また、私たちと事物との存在に共通な一本の糸でこれらの全体を結び合わせるには、継起一般についての抽象的な図式を想定するほかなくなる。あるいは、等質的で何ものでもない環境を想定するほかなくなる。この環境は、物質の流れが長さの方向として持つものを、空間が広さの方向として持ったものに等しい。ここにこそ、等質的時間の根拠がある。したがって、等質的空間と等質的時間とは、事物の特性でもなければ、私たちが事物を認識する能力の本質的条件でもない。それら二つは、抽象的な形式で、固形化と分割という二重の仕事を表現している。この仕事は、私たちが実在の動く連続を相手に行なうものであるが、それは実在のなかに視点を確保すること、その操作の中心に自分を置くこと、そして最後には、ほんとうの変化を導き入れることを目的としている。等質的な時間も空間も、物質に対する私たちの行動の図式なのである。


2.

 ベルクソンが試みていることは、ニュートンとカントとアインシュタインを綜合するような時間の理論だ。彼は時間を、客観的か主観的かのどちらかとしてとらえない。その双方が必然となる視点をつくったのである。すなわち、わたしたちは等質的な日常(客観的な時間)を生きているからこそ、変化(相対的・主観的な時間)を経験できる。等質的な時空間を日常的な行動図式としてもつからこそ、そのリズムから逃れることもできるのだ。それが「ほんとうの変化を導き入れること」である。

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